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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


現と夢

 軒先に出していた売り物のお花を中に入れていたら、いつも喫茶のほうに入ってくれている人が手伝おうかと申し出てくれた。悪いとは思ったのだけど、正直なところこの間入ったばかりの大きなテーブルヤシの鉢植えにはいつも苦労していたので、それを奥に運ぶのだけ手伝ってもらった。ふう。
 これを注文してくれた人は小さな会社の社長さんで、うちのお得意さま。仕事場が殺風景だというので、よく花を買って行ってくれる。この鉢植えも事務所に置くそうで、わざわざ机を動かして日当たりのいいスペースを確保したんですって。入荷した日に電話を入れたら、週末に取りに来ますとのこと。やっぱり、この時期はどこも忙しいみたい。
 買い手が決まっているものだから店に出す必要は本当はないのだけど、日に当てないのも可哀相なのでついつい毎朝運んでしまう。こんなに重いのにね。
 手伝いのお礼として何かお花を持っていってもらおうとしたら、そんなつもりで手伝ったわけではないからと断られてしまった。だけど甘えっぱなしは悪いし……と食いさがったところ、今度みんなでどこかにお昼を食べに行くということで決着がついた。当然私のおごりだと思っていたら割り勘だと釘を刺されて、でもそれじゃお礼にならないような……。

 ひととおりお花に水をあげてシャッターを閉めたあと、帳簿をつけて売り上げを金庫にしまって、今日のお仕事終了。
 おつかれさまでした。さて、次は夕飯の支度です。



 ええと、今日のお夕飯もおいしかったよ。
 最近の璃生は和食に凝ってるの。煮物に一味足すために八角を入れてみたり、おみそしるの出汁を変えてみたり、いろいろ研究してるんだって。お料理って、本のとおりに作っていればいいのかなと思っていたら、そういうものでもないみたい。
 璃生が作ってくれたものはなんでもおいしいよって言ったら、なんだか複雑そうな顔をしていた。
 私、何か変なこと言ったのかな?

 それはともかく、璃生のごはんは本当においしい。この間、お花屋さんじゃなくてお料理屋さんでも大丈夫だよって言ったら、大げさよって苦笑いされちゃった。けっこう本気で言ったのになあ。
 ちなみに今日のおかずは、鰤の照り焼き、大根と豚肉の煮物、お豆腐といんげんとかつおぶしの胡麻だれ和え、自家製のきゅうりと茄子の浅漬け、あとは白いごはんに大根のお味噌汁。煮物は朝から下ごしらえしていたそうで、箸で簡単に切れるぐらい柔らかくとろとろになった豚の角煮は、本当にすごくすごくおいしかった……「おいしい」以外に言い方はないのかって言われそうだけど、おいしいものを食べたときって、いちいち表現を吟味している余裕なんてないと思う!
 私は思ったことはなんでも口に出してしまうほうなので、今日の夕飯のときにそう言ったら、でもねと璃生が微笑んだ。
「どんなに美味しいものでも、やっぱりひとりで食べてたらそうは感じないと思うのよ」
「そうかな」
「ほら、ついてる」
 ぱちりと箸を置いて伸びてきた手が、私の口元をぬぐってそこにあったお弁当をとった。それを当然のように口に入れることに、璃生も私もいつのまにか慣れている。
 あのね、と璃生が、さっきの話の続きを切り出した。
「謙遜とかじゃなくて、私の料理より美味しいものって、この世界にいくらでもあると思うの。とれたてのお魚や野菜とか、高級な食材とか珍しいスパイスとか、そういうものを使ってるわけじゃないし。それに何より、プロの料理人さんが作ったものにはやっぱりかなわないもの」
「でも、私は璃生のご飯が一番おいしいと思うんだけどなあ」
「だからそれはやっぱり」
 向かい合った顔がにっこり笑った。
「こうして二人で食べてるからじゃないかと思うのよ」
 ためしに自分がひとりでこの豚の角煮を食べているところを想像してみたら、美味しいけどたぶん今みたいに楽しくはないだろうなとちょっと思ってしまった。納得。



「璃生、一緒に寝ていい?」
 ここのところは寒いせいか、……が毎日のようにベッドの中にもぐりこんでくる。お風呂から上がってすぐお布団に入ればいいのに、お風呂あがりによくテレビを見ているものだから、さあ眠ろうというときには寝床が冷たく感じるそうだ。
「どうぞ。いらっしゃい」
 読みかけの本をベッドサイドに置いて、水鈴のためにスペースを空けた。軽く布団を持ち上げると、彼女はそこからもぞもぞと入りこんできた。洗い髪がまだ少ししっとりと湿っている。布団から出てきたまだ幼さを残す顔がばあ、と笑った。
「もう、せっかくお布団敷いたのに」
「えへへ。ごめーん」
 一緒に寝ていい? と尋ねて、布団に招き入れられるのが好きなんですって。一緒に眠ることそのものが目的ではなくて、そこまでの手順がこの子にとっては重要みたい。よくわからないような、でもわかる気もするし。そういうわけで、今日も彼女用の布団は空っぽということになりそう。
「今日もお仕事、おつかれさま」
「ありがとう」
 お互いひとりで寝られないという歳でもないのだけど、こうして身を寄せ合っているとほっとする。幸福というのはこういう時間のことをいうのかしらと思うこともある。ときに身を切られるような痛みさえともなう恋の幸福とは、これは明らかに違うけれど。
 でもこうして彼女がいるからこそ、自分はあの人を追っていられるのだとも思う。
「ごめんね」
「何が?」
「なんていうか……」
 どう説明したらいいのか言いよどむと、彼女は敏感に言わんとすることを察したみたいだった。
「いいの。大丈夫」
 ずっと探していたのだと、出会ったときに彼女は言った。璃生の知らないところでずっと見ていたと。
「ずうっと見てて、それで璃生のことがすごく好きになったんだもの。璃生がどんなことをしても、私が璃生のことを好きなことは変わらないよ。璃生が誰を選んでも、私は璃生のことが大好きなの」
 他の誰とも違う場所に――一番近くにいさせてくれるから。
「……ありがとう」
 ほかにどういえばいいのか、私は知らない。
 この無条件の好意、ひたむきな心に、何を返してあげられるのか――それは多分彼女の望むとおり、ただ傍にいるだけでいいのかもしれないけれど。
「あの鉢植え、早くお迎えが来るといいね」
「そうね。さ、そろそろ寝ましょう。明日もお店だし」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ、……」
 口に出そうとして、首をかしげる。声が出ない、声に出せない言葉がある。それがなんであるかはわかっていた。この子の名前。大切な名前だということはわかっているのに、喉元で形にならないまま引っかかっている。この子は誰? なんという名前だった?
 思い出せない。
 確か……確か……。





 見慣れた自分の部屋にいるとわかるのに一瞬かかった。身を起こすと室内はまだ薄暗い。
 目覚めたばかりの寝床を見回すとひとりきりで、そのことに驚く自分に驚いた。ひとりに決まっている、もちろん。ひとりで布団に入り、ひとりで目を閉じたのだから。それなのに、大切な誰かと枕を並べ眠ったような記憶が、どうしても消えない。
 夢を見ていた気がする。この感覚も、その夢の余韻なのかもしれない。自分は今よりも少しばかり大人で、見知らぬ家で暮らしていた。隣にはいつも誰かの笑顔があった。
 それが誰なのか、もう思い出せない。夢の中の記憶は砂が滑り落ちるように、たやすく指の間からさらさらと失われてしまった。思い出そうとしても頭の中の像はぼやけていて、はっきりと形を結ばずひどくもどかしい思いがある。
 夢の中で、自分が確かに幸福だったという確信があるからだ。隣にいた誰かが自分にとって大事な存在だということが、わかっているからだ。
 いつか思い出せる。そんな気がしている。なぜなら夢の内容を忘れても、その中で大事な人がいたということを覚えていた。つないだ手のぬくもり。花のようにほころぶ笑顔。名前も姿も忘れても、その印象は頭の中に強くくっきりと焼きついていた。
 なぜだろう。
 ――あの誰かに、いつか会えるはず。そう確信している。


 現と夢の重なる時は近く、そしてまだ遠い。