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裁きの日
溢れ零れる紅にすら、心は動かない。
沙倉唯為は、命の緒を断つ慣れた感覚を握り込み、妖刀『緋櫻』が溢れだす歓喜に震えながら、内に篭められた死霊を、そしてピュン・フーの命を啜る様にすら、後悔を覚えずに銀の眼差しを注ぐ。
「ピュン・フー……ッ!」
分家の後継の声を契機にしたかのように、巨大な皮翼が軋んで撓み、細身の身体はその巨きさを支えるには滑稽にすら見える……惑い暴れる皮翼の動きに、その根本を支えてピュン・フーの背から伸びる骨格がめきめきと肉を割りながら自重に折れ、もう片翼もまた骨から歪んで地に倒れる。
頃合いを見計らって、筋肉を巻いて貫く白刃を手首を返すように傷口を広げて引き抜く。
ピュン・フーの表情が苦痛に歪むが頓着せず、まだひとつ、残っているのにと鍔を鳴らす『緋櫻』の不満も無視して、引き抜く動きに併せて結んだ刀印にその棟をなぞれば途端にシン、と妖刀は沈黙した。
存分に死霊の魂を漁って、満足もしていたのだろう。いつになく聞き分けの良い妖刀に、唯為は地に投げ捨てた鞘を拾い上げる為に腰を折った。
「……済まない、ピュン・フ−」
倒れ込んだ、ピュン・フーの身体を受け止めてそれ以上、分家の後継は動けずにいる。
「私の独り善がりな行動の所為でこんな事に……」
その謝罪を耳に止め、目を合わせぬまま鞘を取り上げるた唯為は、呟きと嘆息とに肩を揺らし、その場に片膝をついた。
「……阿呆」
また負わずとも良い責任を感じているのだろう事を、その生真面目さからと付き合いの長さから悟って、唯為は親指で自らの胸を示した。
「間違えるな。その阿呆を斬ったのは俺だ。その俺が後悔していない事をお前が悔いてどうする」
まるで唯為の罪を軽減しようとでもいうかのように、自らも負おうとするそれを止める。
「しかし……ッ」
言い募る、その言を聞くつもりはないという外の意と、白を基調とした衣に滲む赤の痛ましさに、後継が抱いたままのピュン・フーの身体を唯為は引き寄せた。
「だが、何も感じない程無情な人間でもない」
後悔でこそないが、惜しむ、気持ちはあるのだと、明言しない唯為の思いを察してか、彩なして色を変える、相手の瞳が見張られた。
「ッ……ゥ……」
立てた膝に凭せ掛けるように、支えた動きが刺激となってか、ピュン・フーが痛みの呻きを洩らして身動ごうとする、その反応に弾かれる動きで、後継は唯為の膝頭に手をかけてその顔を覗き込む。
詰められた息に、心臓を貫く傷すら即死に到らないのかと、感心と同時に他に、命を断ち切る法を探す無意識が、慣れた血の香の濃さの中、ふと揺れた銀の髪から香る白檀に気持ちを鎮める。
妖を屠る、大儀に妖刀を振るう身なれど、果たして『緋櫻』に意を奪われてはいまいか……焔に意を灼かずとも、正気保っているつもりで自らが血を求めているのではないかと。確証の得られぬ、半ば自嘲と自戒を込めた、常の思考は清しい香に詮無きもののように思える。
「ピュン・フー」
呼び掛けに、背が強張るのを触れた箇所から感じ取る。そして、細く長く、吐き出される息が痛みを堪える為の所作である事も。
「……にーちゃん」
その声はたしかに意を感じさせる響きを持ち、唯為は支える手とは別、『緋櫻』を握る手に込めた力を抜きかけた。
「食ってもいい?」
「阿呆!」
思わず、こちらに顔を向けて許可を求めたピュン・フーの頭頂部を叩く。
「ピュン・フー! 大丈夫か?!」
後継が再びピュン・フーを抱き寄せるついで、眼差しの鋭さで非難されて唯為は肩を竦めた。
「空腹なのか? ピュン・フー……生憎、腹の足しになるものは、飴ぐらいしか」
食う、の意味を正しく受け取った後継が袂を探るのに、ピュン・フーは上体を自らで支えていつになく大真面目な表情で唯為に短く謝罪した。
「ママ、ゴメン」
「そうだろうとも」
訳が判っていない様子の後継に、唯為は何故だか胸を張る。
必要以上、気を張るきらいのある癖に、ふとした拍子に見せる隙を突こうとすれば生来の生真面目さで無意識に身をかわす、独特の間合いは踏み込む難は簡単に真似出来まい。
「飴、あんならちょーだい、にーちゃん」
邪な発言をあまりに真面目に受け入れられて、良心に多大なる痛みを覚えたと思しきピュン・フーが手を出すのに、素直に飴を渡してやった後継は、唯為にも同じように、飴の包みを差し出した。
「紅茶味はないのか」
平等に扱われるのが何とはなしに気恥ずかしく、受け取りながらも不満めいた言を述べれば、後継はまた我が儘を、と呆れを浮かべて「ない」と短く答える。
その遣り取りにピュン・フーは僅か肩を揺らし、手に乗る飴を口に放り込んで、彼は唯為と後継に笑って問うた。
「今、幸せ?」
声と言葉はいつもの調子で。
しかしそれが最期の問いかけである事は、身を損なって尚高まりを見せ、純度を増す闇の質にそれと知れる。
ピュン・フーが意識を保っている事自体、奇跡のようなものだ。
「残念ながら」
ふ、と短く息を吐き出して、唯為はほとんど表情なく、ピュン・フーに……そして場を同じくする後継に、告げる。
「俺には幸せという言葉は無縁だ。血にまみれた手では何を掴んでも汚してしまうからな」
無意識に髪を掻き上げかけた仕草が袖を引かれる手にく、と動きを止め、唯為はまるで子供のように縋り付く眼差しが己を捉えるのに笑む。
「……だが、阿呆なのか馬鹿なのか、自ら歩み寄ってくるヤツがいる」
己の真を吐露するなど。未だ嘗てない心境への恥じらいを憎まれ口に変えれば、あからさま、むっとした表情を浮かべるのにまた笑う。
口数の少なさにか、喜怒哀楽の表情も薄い彼から唯為が唯一、思い通りに引き出せるのが不満だ。それ故にからかいの比重が多くなるというのに懲りようとしないなら、強ち先に評した単語に間違いはないのかも知れない。
「唯為、本気で楽しそうだな……にーちゃん、ママってばいっつもこんなカンジ?」
「概ねは」
即答する後継に、今度はピュン・フーが笑いを零し……紅い眼差しを移すのに、唯為は軽く肩を竦めた。
「で、朔羅はいっつもこんなカンジなワケ?」
次に問うて来るピュン・フーに、唯為は呆れと感心を綯い交ぜに答える。
「そうだな……特別何をする訳でもない。俺の存在を認めてくれる、それだけだ」
ただ、それだけ。
正直な、そして万感の思いを込めたその一言の真意を察して、漆黒の瞳が真っ直ぐに唯為の姿を映す。
「唯為……」
名を呼ばれて軽口で答えれば、後継は微かな笑いを浮かべた口元できっぱりと言い切る。
「あなたは莫迦か」
その遣り取りに、一人、危機的な局面に陥ったのはピュン・フーである……笑いの発作を傷の痛みが許さずに、煩悶の末の酸欠が死因では浮かばれないにも程がある。
悲しいかな、この事態に陥った人間には何が更なる起爆材となるや計れず、沈黙に笑いの波が静まるのを待つしかない……懸命な判断で唯為と後継とがそっと見守る中、時間こそ要したがどうにか堪えて山場を抜けたのか、ピュン・フーは息を切らせて地面に長々と伸びた。
「あ〜〜、笑った」
軽い笑いを漏らしながら、うと、と眠たげな瞬きを繰り返す紅の瞳が、閉じられようとする……呑まれれば二度と目覚めぬ質の眠りである、それを察して唯為はおもむろに手刀でピュン・フーの額を叩いた。
「寝るな阿呆」
力加減に痛みはないだろうが確かに意識を引き戻したのを見開かれた眼に確認すると、あ、の形の口を開いた後継を指で示す。
「話は終わっていないだろうが。兄の貴重な意見を聞かずに逝ってどうする」
意図を告げれば得心が行ったのか、紅の眼差しが後継へと向けられた。
「……朔羅、今幸せ?」
ならばと再び問う、ある意味生真面目な微笑みと、後継とを唯為は見守る。
「私は、自分が幸せであるかどうか……貴方に問われるまで考えた事もなかった。でもそれは私が幸せの中にいるからなのだろう、と思う」
真意を伝えようと、思えば思うほど焦りが生じる。
「いつか貴方に話した通り、私を支えとして望んでくれる者と、私の支えとなってくれる者と」
言ってこちらを見るのに、手を振りたくなる心持ちをどうにか堪える。
「私の周りには少なくとも二人、今までも、そして恐らくこれからも、すぐ傍で私を見て、信じてくれる人がいる」
傍目にも、肩の力が抜けるのが解る。
言葉を連ねて意を伝えようとする、いじらしいまでの懸命さが伝わればいいと……否、理解を示さないなら実力行使も厭わない、唯為の秘めた覚悟は幸い誰も知らない。
「……私では少々役不足かもしれないが、想ってくれる人がいるという幸せを、少しでも貴方に伝える事が出来たら嬉しく思う」
そう、後継が取り上げて強く握り締める手を好きにさせたまま、ピュン・フーは笑みを深めて眼差しを高く空へ向けた。
「それが、ママとにーちゃんの幸せな」
人の心にばかり幸せを問うて、果たして己の幸は何処に所在を見ているのか。
「阿呆」
呟いて唯為は、ピュン・フーの髪をくしゃりと撫でた。
「……この先、俺がいなくなる日が来ても、自分の存在を認め続けてくれるヤツがいれば、それが俺にとって一番の救いであり、幸福だろう」
真意は願い、そして確信。白く、清く、自分と違って穢れなき存在はそうと、想い続けてくれるだろう。
「不器用で、でもどうしようもなく真直ぐな弟の事は決して忘れない」
そして同じ救いと幸福を、迷いなくピュン・フーに与えるのに、唯為は微笑んだ。
「……ほんっと、可愛いなにーちゃん」
笑みのまま目を閉じた、ピュン・フーが述べる感想に胸を張る。
「そうだろう。やらないぞ」
「あ、独り占め。ずりぃ」
そう楽しげな笑いを浮かべてピュン・フーは瞳を開くと、僅かな首の動きで傍らの後継に眼差しを向けた。
「仕方ねぇから、にーちゃんにだけ俺のヒミツを教えてやろう……俺の名前、あ、本名の方な? ユエっての。ママには内緒な?」
報復というにはあまりに稚拙な上、本人を目の前に内緒も何もあったものではない……が、その名を打ち明けられた当人には充分だったようである。
「そうか、有難うピュン・フー……いや、ユエ」
素直な謝礼を述べる後継に、唯為はピュン・フーの髪を再び撫でた。
「……今度俺の前に表れる時は、兄みたく可愛い生身の友達を連れて来い。ママも兄も楽しみに待っているぞ」
有り得ない。約束を求められてピュン・フーは苦笑を浮かべつつ、それでも頷くように僅か顎を引いて眼差しを天に向けた。
「家族が待ってるってのも、なんか、いいな」
幾度となく遠い視線のその先を見上げれば、其処には真円の月の姿がある……それ気を引かれた隙にふ、と確かに感じていたピュン・フーの存在が稀薄になった。
その、意味を確認する必要すらなく、唯為はそのまま月を見つめ続ける。
「本当は、問いの答えは、貴方自身で見つけて欲しかったのに………」
その意味では、後継の言うとおり、本当に不器用な。
求めるものばかりがはっきりと、それだけに己に真っ直ぐに生きるしか知らなかった彼の、生きた姿を忘れまいと思う。
何れ唯為が同じように眠りにつくその瞬間まで……その命の重さと手応えとを、自分が代りに負うように持っていてやるのも良いと。
それがただの感傷でも良いと、唯為は物言わぬ天の后に頭を垂れた。
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