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裁きの日
滴る赤と共に、後悔の念が溢れ出す。
頬を汚した血の色はそのまま胸の内までも落込んで、焦燥を伴う熱で以て徒に気持ちを駆り立てるが、十桐朔羅には焦りに伴う力は何もなく、ただピュン・フーに向けて両腕を広げてその名を呼んだ。
「ピュン・フー……ッ!」
喉を締め上げられて声は掠れていたが、応じたかのように、巨大な皮翼が軋んで撓み、細身の身体はその巨きさを支えるには滑稽にすら見える……惑い暴れる皮翼の動きに、その根本を支えてピュン・フーの背から伸びる骨格がめきめきと肉を割りながら自重に折れ、もう片翼もまた骨から歪んで地に倒れる。
その命脈を断った刃が、ズルリ、と引き抜かれる動きに引かれて、前にのめるように頽れる転倒の衝撃を少しでも逸しようと、朔羅は咄嗟、膝立ちにその身体を受け止めた。
倒れ込んだ身体は予想に反してあまりに軽く、渦巻く思考は悔恨の一念に集約するばかりで彼の、命を救うその術を見出せずに居る。
……否、限界まで高まった闇に存在の質を塗り替えたピュン・フーを、救う術などは最早有り得ないのだと、確信にその身体を抱く腕に力が籠もった。
「……済まない、ピュン・フ−」
抱いた腕が、荒く、短く、そして薄い呼吸を感じ取る。
「私の独り善がりな行動の所為でこんな事に……」
「……阿呆」
己の愚かしさに向けた濃い苦渋を蔑む単語が、しかし柔らかい響きで遮るのに、朔羅が顔を上げれば、膝を付いて距離を寄せた長の顔があった。
自分が介入しなければ事態は好転していたかも知れなかったと……可能性を懺じずにいられない朔羅に、長は自らの胸を指で示す。
「間違えるな。その阿呆を斬ったのは俺だ。その俺が後悔していない事をお前が悔いてどうする」
一旦とて、責を担わせるつもりはないとでもいうかのような、長の言に言い募る。
「しかし……ッ」
時間はまだ残されていた筈だと、続けようとした言葉は、朔羅が抱いたままであったピュン・フーの身体を、長が引き寄せる動きに阻まれて形を為さない。
「だが、何も感じない程無情な人間でもない」
常の自信と質を違え、ただ真であるからこそ淡々と揺れぬ感情に揶揄すらなく、僅か眼差しを落とした銀の眼に哀惜を見て、朔羅は目を見張った。
「ッ……ゥ……」
立てた膝に凭せ掛けるように、身体を支えた動きに拠ってか、ピュン・フーが喉の奥から痛みの呻きを洩らすのに、朔羅は弾かれるように動き、長の膝頭に手を置いてその顔を覗き込んだ。
吐き出す息と、寄せられた眉は苦痛を示す物だが、未だ、生きていると僅かな希望に、錆びたような血臭に一筋、甘みを帯びたコロンが鼻を擽るのに気付く……長の肌から香るものか。
場違いなほどに他愛のない、思考は何故だか朔羅を安堵させた……血の香は強く濃くねばつくようで、慣れぬ匂いに酔いそうになっていただけにその緑を思わせる瑞々しさを伴った香りの存在が正直有り難く、朔羅はゆっくりと息を吸い込み、吐き出す息にその名を乗せた。
「ピュン・フー」
紛うことなく朔羅の呼び掛けに時宜を得た赤い眼が……紅に焦点を結んだ確かな眼差しが、視線を交えて、一度、二度と瞬きを繰り返して仄かに笑う。
「……にーちゃん」
確かにこちらを認識した呼び掛けに、安堵の息を吐いた朔羅に、ピュン・フーは肩越し、身体を支える長に振り向いた。
「食ってもいい?」
「阿呆!」
言葉の意味を判じる間はなく、怪我人の頭部に痛打の一撃が加えられのに慌てる。
「ピュン・フー! 大丈夫か?!」
ピュン・フーを庇って抱き寄せ、強く睨め付ける眼差しで長を叱りつける。
「空腹なのか? ピュン・フー……生憎、腹の足しになるものは、飴ぐらいしか」
乾燥する季節に喉に良いからと、家人に持たされた菓子を求めて和装の袂を探る朔羅に、ピュン・フーはふらつきながらも体重を預けていた身体を離し、真面目な顔で長を見た。
「ママ、ゴメン」
「そうだろうとも」
意味不明な遣り取りに、朔羅は首を傾げる。
しかしどうやら見当と違ったようだと、指先に抓んだ飴の包装の遣る方を如何にしたものか、悩む朔羅に笑ってピュン・フーは手を差し出した。
「飴、あんならちょーだい、にーちゃん」
請われるままに、掌に飴の包みを乗せてやろうとして、半端な位置で折れた爪がその厚みで指の先の肉を割って赤い傷を覗かせる様に、澄んだ金色の飴の包装を解いて剥き身で渡し、長にもひとつ、同じ物を差し出す。
「紅茶味はないのか」
長の我が儘には慣れているが、まるで子供のような不満には呆れるしかない。「ない」と素っ気なく答える。
その遣り取りにピュン・フーは僅か肩を揺らし、手に乗る飴を口に放り込んで、彼は朔羅と長に笑って問うた。
「今、幸せ?」
声と言葉はいつもの調子で。
しかしそれが最期の問いかけである事は、身を損なって尚高まりを見せ、純度を増す闇の質にそれと知れる。
ピュン・フーが意識を保っている事自体、奇跡のようなものだ。
「残念ながら」
吐息に乗せた言葉が持つ否定の響きを、朔羅は咄嗟に遮ろうとしたが、いつになく表情を欠く長に言葉を呑み込む。
「俺には幸せという言葉は無縁だ。血にまみれた手では何を掴んでも汚してしまうからな」
髪を掻き上げる仕草に紛れた眼差しは己の内に向かうようで、自嘲というよりは嫌悪の、度合いの強さに朔羅は思わず手を伸ばした。
「……だが、阿呆なのか馬鹿なのか、自ら歩み寄ってくるヤツがいる」
厭世を思わせた言葉は、しかし直ぐさま揶揄いの色に塗り替えられて、本気で案じようとすれば即座身をかわす。
その質を知りながらも飽きずに同じ手に懸かる己に、朔羅は口を引き結ぶ……上手に、案じてやる事すら出来ない歯痒さに、沈黙するしかない朔羅に長はいつもの楽しげな笑みを向けてみせる。
「唯為、本気で楽しそうだな……にーちゃん、ママってばいっつもこんなカンジ?」
「概ねは」
即答する朔羅に、今度はピュン・フーが笑いを零す……第一印象の通り、やはりこの二人はよく似ている。
「で、朔羅はいっつもこんなカンジなワケ?」
ピュン・フーの問いに、長は竦めた肩を元の位置に戻す、声に呆れが混じっている。
「そうだな……特別何をする訳でもない。俺の存在を認めてくれる、それだけだ」
ただ、それだけ。
付け加えられた一言が持つ重さと深みとに、込められた感情が真である事を確信して、思わず朔羅は真っ直ぐに長を見つめて名を呼んだ。
「なんだ朔羅? 惚れ直したか?」
口元が笑みを形作るのを自覚しつつ、朔羅は返った軽口に言い捨てた。
「あなたは莫迦か」
その遣り取りに、一人、危機的な局面に陥ったのはピュン・フーである……笑いの発作を傷の痛みが許さずに、煩悶の末の酸欠が死因では浮かばれないにも程がある。
悲しいかな、この事態に陥った人間には何が更なる起爆材となるや計れず、沈黙に笑いの波が静まるのを待つしかない……懸命な判断で朔羅と長とがそっと見守る中、時間こそ要したがどうにか堪えて山場を抜けたのか、ピュン・フーは息を切らせて地面に長々と伸びた。
「あ〜〜、笑った」
軽い笑いを漏らしながら、うと、と眠たげな瞬きを繰り返す紅の瞳が閉じられようとする……それが漸く訪れた眠りである事を察し、朔羅はそれを妨げるまいと発しかけた言葉を呑み込む。
「寝るな阿呆」
しかし、長がピュン・フーの額に加えた手刀の一撃にその気遣いは粉砕され、朔羅は豆鉄砲をくらった鳩の気持ちが解った。
「話は終わっていないだろうが。兄の貴重な意見を聞かずに逝ってどうする」
引き合いに出された自分に、ピュン・フーの眼差しが朔羅に向けられた。
「……朔羅、今幸せ?」
ならばと再び問う、ある意味生真面目な微笑みに、朔羅は咳き込むように言葉を連ねた。
「私は、自分が幸せであるかどうか……貴方に問われるまで考えた事もなかった。でもそれは私が幸せの中にいるからなのだろう、と思う」
真意を伝えようと、思えば思うほど焦りが生じる。
「いつか貴方に話した通り、私を支えとして望んでくれる者と、私の支えとなってくれる者と」
ちらと長の姿を見れば、揺るぎない銀と視線が交わる。
「私の周りには少なくとも二人、今までも、そして恐らくこれからも、すぐ傍で私を見て、信じてくれる人がいる」
確かな安堵に肩の力が抜けた。
声は力を持ち、言は霊を宿す……それだけでは、想いは伝えきれない。祈りに心を添えるように、朔羅は願いを口にした。
「……私では少々役不足かもしれないが、想ってくれる人がいるという幸せを、少しでも貴方に伝える事が出来たら嬉しく思う」
そう、朔羅は投げ出された手をとった……その体温の低さに背筋に走る悪寒を堪えて強く、握り締めればピュン・フーは笑みを深めて眼差しを高く空へ向けた。
「それが、ママとにーちゃんの幸せな」
吐息に乗せられた言葉を、長の声が呟きで遮る。
「阿呆」
言った手が、くしゃりとピュン・フーの髪を撫でる。
「……この先、俺がいなくなる日が来ても、自分の存在を認め続けてくれるヤツがいれば、それが俺にとって一番の救いであり、幸福だろう」
求められたその意を、確かに汲んで朔羅は長と同じように、彼の黒髪を撫でた。
「不器用で、でもどうしようもなく真直ぐな弟の事は決して忘れない」
図った意が当て推量でなかった事を示して、長は朔羅に笑みかける。
「……ほんっと、可愛いなにーちゃん」
そう笑って目を閉じた、ピュン・フーに長が何故だか胸を張る。
「そうだろう。やらないぞ」
「あ、独り占め。ずりぃ」
焦点に置かれた自分を素通りしての会話に少々居心地の悪い朔羅を、ピュン・フーが紅い瞳を開いて見上げた。
「仕方ねぇから、にーちゃんにだけ俺のヒミツを教えてやろう……俺の名前、あ、本名の方な? ユエっての。ママには内緒な?」
本人を目の前に内緒も何もあったものではない。が、朔羅は不意に差し出された真実を受け取った。
「そうか、有難うピュン・フー……いや、ユエ」
素直な謝礼を述べる朔羅に、少し不満げに口を尖らせた長が再びピュン・フーの髪に手を伸ばす。
「……今度俺の前に表れる時は、兄みたく可愛い生身の友達を連れて来い。ママも兄も楽しみに待っているぞ」
有り得ないだろう約束にピュン・フーは苦笑を浮かべ、それでも頷くように僅か顎を引いて視線を天に向けた。
「家族が待ってるってのも、なんか、いいな」
言った眼差しは遠いまま、ふ、とその瞳から焦点が失われる……脱力して手の中からすべり落ちそうになる手を支える力を更に込めて、朔羅は体温すら移らぬ冷たい手を額に押し当てた。
「本当は、問いの答えは、貴方自身で見つけて欲しかったのに………」
与えられる物ではなく、自らの手で。
選び取らせてやる事すら、出来なかった己の力の無さへの口惜しさに、朔羅はその右の……時に蛋白石のように彩なして色を変える希有な瞳から、今は天に昇る月を映したような紅から一粒、涙を零す。
それは、朔羅の瞳のように周囲の情景をくるくると映しこんでそして、ピュン・フーの頬に優しく注いだ。
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