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裁きの日
がくりと折れる膝に、神鳥谷こうはピュン・フーを抱く手に力を込めて体重の全てを支える。
が、両腕にかかる加重はその背に負った巨大な皮翼のせいか、共に足裏から地面に沈み込むかのようだ……質量的な意味合いだけでなく、それは彼が身の内に籠めた魂の重さでもある。
呑み込んだ恨みの重さに天に昇れず、沈む哀しみに地の底に堕ちる事さえ、出来ずにただ果てしない怨嗟に捕われた、幾千の。
これ程の存在を抱えて一人で立っていたのかと、こうは多分、戦慄と呼ばれるだろう感情に背筋を震わせると同時に納得する。
月がその身に闇を宿して、姿を変えても月であるように、闇を宿して尚、己を失わない彼、だからこそここまで。
皮翼は半ば自重で軋むような音を立てて撓み、惑い暴れる動きで、その根本を支えて背から伸びる、太い骨格がめきめきと肉を割りながら折れ千切れ、もう片翼もまた骨から歪んで地に倒れ、再び、血肉を得ようとしていた死霊が、黄泉に追い落とされる断末魔の叫びが宙を渦巻くが為す術ははなく、じりと灰と化していく皮翼と共に消えていく。
背に回されたピュン・フーの手が、コートの生地を強く握り締めて堪える息の震えをこうに伝えた。
「ピュン・フー……」
その苦しみが少しでも早く終わるようにと……抱く願いと相反して、少しでも長らえて欲しいと思う矛盾に胸が引き絞られるように痛む。
だが、心臓を灼かれた彼の痛みは、この比ではないだろう。
両の手を戒める鎖と、その心臓に巣くう怨霊機との、破壊を……求められて応じたといえ、それは手を下した自分己が抱いていい望みでは、痛みではない。
「ピュン・フー……」
かける言葉すら見つからず、こうはただその名を呼んで、肩口に顔を埋めた。
「……こう?」
背を、まるで宥めるように二度、軽く叩かれて耳元で呼ばれた名に、こうは弾けるように顔を上げた。
至近に赤い、月のような瞳が確かな理性を紅の色で湛えてこうを映し込んでいた。
こうの瞳の琥珀すら、彼は赤みを帯びて捉えているのかと益体もない事をふと思うのは、ピュン・フーがいつもの笑みで、いつもの声音で名を呼んだ、それに安堵した為か。
ピュン・フーはただそれだけの事で容易に、こうの感情を鎮めて見せる。
「今幸せ?」
その安心が表情に出ていたのか、ピュン・フーはそう、いつもの調子で問い掛けた。
いつものように、笑みに瞳の色を深めて。
苦痛は変わらずに、否、時経る程に溢れる血に命は削られ、確かな意識はその身を蝕む死を知覚し続けているだろうというのに。
何故、笑うのか。
何故、今、問うのか……こうの幸せを。
そう問い返そうとして口を開きかけるが、こうは息を吸い込んだだけで黙した。
彼は今、答えを求めているのだ。
多分これが彼の最後の問い。真実、求め続けた答えを得る最期の機会……その命が終焉を迎えようとしているなどと、理解、したくない。
足掻くような思考は、けれど彼が求めるからこその答えを胸中に探る。
是と答えれば、彼は満足して逝けるだろうか。あるいは否と、答えれば彼はまだ答えを探し続けてくれはしまいか。
しかし、是も非も。こうが真実抱く答えではない。
「……俺には解らない」
こうは呻くように喉の奥から声を絞り出した。
「幸せが何であるのか」
幸せがどんな色をしているかすら、判じられない……喩えそれを手にした己が居たとしても、何を齎すのか解らない、故に答えられない。
正直なこうの答えに対して、ピュン・フーは瞳に落胆の色を浮かべるでもなく、答えが結論、ではないこうの思考を正しく判じて促し、待つ沈黙を纏う。
こうに発言を急かすでなく、意見を押しつけるでない、この間にどれだけ救われたか知れないと、こうは今更ながらの思いに一つ、胸の内に灯った答えを口にした。
「だが、一つだけ解った……俺は貴方の傍に居たかった」
主を得る資格を失った絶望、傀儡として生きる理由を失った諦観……それを理由に掲げて壊して、殺してくれるというピュン・フーとの約束を求められると気付いた時に、確かに自分は。
身が、震える程の喜びを感じたのだ。
「傍に居られて嬉しかった」
気持ちを伝える事が出来たかと、窺うようにその瞳を見ればピュン・フーはに、と笑ってこうの髪を撫でた。
「頑張ったな、こう」
知識と感情を、ただ、記憶として抱えるのみであるこうが、自らの物として得る事が出来た時に、ピュン・フーはいつでもこうして嬉しげに、褒めてくれるのだ。
「……有難う」
素直に感謝の言葉を告げるこうに、目元を笑みに細めたピュン・フーの、腕にかかる重みが増すのに合わせてこうはゆっくりと膝を落とした。
芝生の上に下ろしてやれば体重が分散して少しは楽なのか、呼吸に余裕が出来る……だが、こうに出来るのはそれまでだ。
立てた膝で背を支え、守るように抱くこうの好きにさせたまま、ピュン・フーはまた小さな笑いを零した。
その意味を、問う眼差しを向ければピュン・フーは見上げる視線で受け止める。
「悪いな、こう」
不意の謝罪はピュン・フーが、彼を切り捨てる為の……否、こうにピュン・フーの存在を諦めさせる為のそれと察してこうは首を横に振った。
まだ、早いと……まだ居て欲しい、傍らに、共に。声に出来ない願いにただ、謝罪を受容れる事の出来ないこうの項にピュン・フーは冷たい手をかけて、名を呼ぶ。
「こーう?」
宥める口調で首後ろにかけた手に力を入れて引き寄せる、動きに逆らわずにいればこつりと額がかち合った。
「そんな顔されたら心配になるじゃんか……連れてけねーのに」
「……共に……行けるのならば、連れて行ってくれるのか?」
彼が求めてくれるのならば、この身体すら、失っても惜しくない。
「そりゃ無理だな、流石に。俺は何処にも行けねぇから」
けれど拒まれてこうは声を詰まらせる……様にピュン・フーは苦笑した。
「連れてってやれたら良かったんだけどな」
何処にも行けないと言った言葉との矛盾と疑問を現すのを封じるかのように先んじて、ピュン・フーはこうに問う。
「で、こうはどうすんの、これから」
いつか同じ会話を交わした覚えがある……けれどその時と違って今は探すべき主はなく、壊されるべき、その筈の願いも叶えられないまま。
「……解らない」
正直な困惑にピュン・フーは「そっか」と短く答えて続けた。
「暇なら一つ、頼みがあんだけど」
ピュン・フーに求められるなら是非もない。頷くこうに、至極何気ない調子でピュン・フーは真実を差し出した。
「俺の本名な、ユエっての」
あまりに軽い口調に思わず受け止めたものの、一拍を置いて虚を突かれ、どうすれば良いのか解らぬ困惑に、こうは慣れぬ響きを舌に乗せた。
「ユ、エ……?」
そう、呼ばれてピュン・フーは……ユエは悪戯っ子の表情で笑う。
「そう、ユエっての。俺の生まれた国の言葉で、月って意味」
言葉の意味を補足して一つ、息を吐いた。
「ずっと名乗ってなかったから忘れそーでさ。こう、覚えといてくれねぇ?」
依頼の形で真実を受け渡してそうやって、ピュン・フーはごく自然にこうの存在に意義を与える……主なき傀儡の糸を断ち切って、こうの裡に穿たれた虚をぬくもりを持たぬが故に優しい、まさしくその名の如き月の輝きで満たして。
「……解った」
痛みの明滅すら凌駕して満ちる、銀の輝きをこうは声にする。
「忘れない、ユエ」
この身が存在する限り、決して忘れないと。
約したこうの言葉に安堵してか、ピュン・フーはうと、と幾度か眠たげな瞬きを繰り返して目を閉じた。
「あぁ、なんか遺してく気持ちが解るな……」
呟きはか細く、語尾を耳に捉える事の出来る形を得ずに、こうはピュン・フーの口元に耳を寄せた。
「……、な……こう?」
そして最期に確かにこうの、名を呼びかけて。
重さを増していた身体がその一瞬を境にふと、軽くなった。
「ユエ……ピュン・フー?」
聞き取れなかった言葉を問おうと……名を呼ぶが声は返らず、瞳は開かず。
全てが終わった事を察してこうは、その身体を強く、強く抱き締めた。
「壊してくれると、約束したのに」
最早答えが返らぬと解っていても、ピュン・フーの姿で残された骸に不満を告げずにいられない。
彼から持ち出した、確かな約束であったというのに。
「反故にするのなら……せめて残された身体を」
答えなき呼び掛けは不意にかけられた声に遮られる。
「お見事です、こうさん」
声と共に、夜目にも白い杖が、視線の位置に真っ直ぐに立つ。
「呪われた魂にも救済を与えるとは、真に天なる父は寛大ですね……」
そう胸の前で十字を切る、神父……ヒュー・エリクソンへの警戒に、こうはピュン・フーの身体をしっかと抱え直す。
「けれどそれに安息が許される事はない……それは頂いて参ります。どうぞ、こちらに」
こうが抱く身体を物のようにそれと称し、ヒューは促した。
「命を失ったように見えても、本来吸血鬼は闇に属する者……鼓動も、息もないそれが本来の姿と言えます。自我が消えたならそれなり、有効な利用方法は幾らでもあるものですよ」
未だ続けるのだと。
眠りすら許さずに、死霊に身体を与え貪らせ、欲するままに新たな血肉を与える為だけの餌とするそれを。
こうは、ヒューの言葉に首を横に振るが、彼がその否定を認識する事が出来ない事を思い出し、意志を確かな声にした。
「彼は俺が貰って行く」
何も答えない……答えてはくれないだからこそ、彼が心ない道具として好きに扱われるのは許せない。
「……それは困ったワネェ」
突如、第三者の声にこうが振り向けば、ほど近い位置で爪先立ちに座り込んで豪奢な金髪を指で梳く、西洋の麗人の姿があった。
「ステラ……」
既知である、彼女の登場に面食らうこうに、ステラ・R・西尾は「ハァイ」と笑顔で手を振ると、膝に手をついてヨイショと立ち上がった。
「ピュン・フーの死は、彼の肉体がヴァンパイア・ジーンオンリーになった事を示すコト……如何なる状況にあっても『IO2』はこれを回収する義務と責任がありマスノ」
ダカラ、とステラは強請る口調でこうに向かって軽く両手を広げた。
「その子をコチラに下さいナ」
果たして、何処から事態を見ていたのか……『IO2』、嘗て彼が所属したのだという組織の女性の求めに、けれどこうはまた首を横に振る。
「渡さない……彼は、俺の物だ」
意地に近いこうの主張に、ヒューとステラは全く同時に肩で息を吐いた。
「愚かな……」
「どうしてもダメ?」
そのどちらの意見ともに大きく深く頷いて、こうはそっと、彼の頬の線を指で辿ってその感触を確かめる。
動かない、答えない……身体はまるで、人形のような。
「誰にも渡さない……俺の、物だ」
その想いを、名を。託されたのは自分、こう、ただ一人。
こうは知らず、口の端を笑みの形に引いた。
彼が最期に呼んだのはこうの名、その響き……そして紅い瞳に映り込んだ己の姿が、いつか自分が強く望んだ終焉と重なって、こうは再び強く彼の身体を抱く。
最期は彼の手で、彼に看取られて……望みの同期は偶然に思えなかった。
聞こえなかった声を、その唇の動きで判じる事が出来ていたのに今、気付く。
『幸せに』
祈るような、その言葉を。
命として、こうは従う。
その為に、誰一人としてピュン・フーに、ユエに、触れる事は許さない。
ステラとヒューとを交互に見て、こうは内なる焔を呼び起こした。
熱持つ赤でなく、慈悲なき白でなく、陰の如き蒼でなく。
銀の。
焔はこうが抱いた骸を包み込んで瞬く間、端から溶けるように熱に立ち上る灰すらも銀の輝きに変えて欠片も遺さず、その骸のみを……衣服と装飾を残して灼き尽くした。
「……アラ、まァ」
止め立てる間すらなかったステラは、成し遂げた満足に浮かんだ、こうに悪戯っぽい笑みを向けられて呆れの一言のみを発するに止まる。
『幸せに』
それが、彼の最期の願いなのだ――あぁ、けれど。
こうは彼の傍らに、共に在る以上の幸せを今は思い浮かべる事が出来ずに、彼の香りと気配を濃く残した黒革のロングコートを強く抱き締めて、胸の痛みに踞るように身を伏せた。
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