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<東京怪談ノベル(シングル)>


生徒さんが笑ったから




「怪しんでいるの?」
 あたしの顔を覗きこんできた生徒さん。
 その言葉に動揺して、あたしは一歩後ずさった。
 図星をつかれたのだ。
「当りみたいね。まぁ、前回前々回と二回も記憶が飛んでいれば、自分が何をされているのか不安になるわよねぇ」
「い、いえ、そんな……不安だなんて……」
 肯定することが出来なくて、言葉を濁す。
 本当のところ、あたしはバイト内容を怪しんでいた。
 前回も、その前もそうだったけど、バイト中の記憶がないなんておかしい。
(あのときは生徒さんが喜んでいるのを見て、そのまま帰って来ちゃったけど)
 よく考えれば、生徒さんが喜ぶときというのはあたしをからかっているときなのだ。
 となれば、きっと無意識に記憶を消してしまう程強烈なことがバイト中に行われているに違いない!
 ――と、昨日の夜に思い至った訳で。
「注意していれば意識が飛ぶこともなく、事実を知ることが出来るわよ」
 生徒さんはそう言って笑う。
(……笑う?)
 そう、生徒さんは微笑んでいる。
(知られて困ることではないのかな?)
 随分生徒さんは楽しそうだけど……。

 今回のメイクは“犬”らしい。
 毛の長い犬は馬に比べて、身体の不自然さを誤魔化すことが出来るみたい。
(確かに、そうだなぁ)
 首の長さも犬の方が人間に近いしね。
 って、こんな風に頷いていたらまた生徒さんのペースに流されてしまう。
 生徒さんはいつものようにあたしを眺めている。
 夏服と違って、冬服は脱ぐのに時間がかかる。
 つまり、視線を感じる時間が長くなる訳で――。
 意識した途端に鼓動が速くなる。
 静電気の小さな音にも肩がビクついた。
 クスクス、という声が聞こえ――あたしは恥ずかしくなって、それを誤魔化すように静電気の影響で頬にくっついている髪の毛を払った。
 ちょっと乱暴だったかな。「髪が痛むわよ」と生徒さんに言われてしまった。
 動揺しているのが読まれている、と思う。
「私が脱がせてあげようかしら……」
 しまいにはそんな呟きさえ聞こえてきて、慌てて下着に手を掛けるあたし。
 なんだか……既に生徒さんの言うことに逆らえなくなっているような気がするんだけど……。

 ふわり。

 あたたかいものが肌に纏わりつく。
 耳元に息がかかる。あたしは後ろから生徒さんに抱きしめられていた。
 胸の下あたりに、ヌルッとした正触媒の感触がある。
 生徒さんが自分の頬をあたしの頬に寄せてきた。
 ドロリ。
 生ぬるい水飴のようなものがあたしの肌に絡みつく。
「前は掌だけにつけて塗っていたけど、この方が早く済むでしょう?」
 胸の下で生徒さんの手が動く気配がある。二の腕の感触と、ベタつく粘液。生徒さんは腕にも正触媒を塗っているみたいだ。
 思い浮かぶのはカタツムリ。小さい頃に触ったことがあるけれど――あれがずっと大きくなって、あたしの身体の上で戯れているのに似ている。
 それは肌の小さな窪みも逃さずに入り込んでいった。
「慣れてきた?」
 生徒さんが耳元で囁いた。
「最初の頃から比べると身体も成熟してきたし」
「――…………!!」
 ドクン、と胸の中で音が跳ね上がる。
 言葉に詰まって、「何を言っているんですか」などと返す余裕もない。
「あら?」
 生徒さんは斜め後ろから顔を近づけて、あたしの顔をゆっくりと眺めている。
「まだ慣れていないのねぇ」
 海の藻を掴むようにヌメつく身体。
 胸の膨らみは、粘液によって波が光を跳ね返すように光っている。膝の裏を粘り気のあるものが下へと滑って落ちていく感覚――「つけすぎたかしら?」と生徒さん。
 上から本物の犬と言ってもいいくらいそっくりな着ぐるみを着させてもらった。
 お腹のあたりが熱いくらい、熱が篭っている。着ぐるみを着ているというより、犬があたしの中に入り込んできたのではないかという気さえした。
「さぁ目を瞑って」
 粘液でべたついた顔が犬のものに変化していく。
 やっぱり熱い。肌に息苦しさを感じる。
「すぐ慣れるわ」
 血の流れる音まで聞こえてきそうな程、犬の感覚が肌にある。獣の匂いさえしたかもしれない。
 口をあけて舌を生徒さんに差出した。
 生徒さんの柔らかい指に舌を押さえられる。舌を掴まれているので湿った音しか発音出来ない。内に篭った、ため息のような声が口から漏れた。
「ふ……うぅ」
「痛い?」
 あたしは首を横に振る。
「そう……もう少しだからね。――これでよし、と」
 完成したらしく、四つ這いになるようにと生徒さんに言われた。
「そうしないと犬らしくないでしょう?」
「は、はい……」
 言われた通りに手を床につけてお尻を後ろへ出し、犬の格好をした。
 違和感がある。
 確かに今は犬のような姿をしているけれど、あたしは人だった筈で――。
 ――鏡には一匹の犬がこちらを見ていた。
 犬と目が合う。
 身体がふるりと揺れて、前足に力が篭る。
「怯えないで。威嚇しなくていいのよ」
 生徒さんの声がした。
 もう一度前を見る。それは紛れも無くあたしだった。
(威嚇なんて……何で犬の真似なんか…………)
「犬そっくりですね」
「そうでしょう?」
 頭をなでられる。
「柴犬そのものよ。ちょっと大きめかもしれないけど」
 生徒さんはしゃがみこんであたしと顔をあわせた。
 笑い方が、怪しかった。

 通された“みなもの部屋”には、あたしがやっと入れるくらいの犬小屋が置いてあった。中には毛布が敷いてある。
「ここで眠るんですか……?」
 微かに涙ぐんだ目で見上げても、生徒さんの答えは変わらない。
「だって犬だもの。ね?」
 そう言って頭を撫でてくる――自然とあたしの耳が後ろへ下がったのは、何でなんだろう。着ぐるみではなくて、自分自身の中に犬がいるようだ。
「ところで、あの……前もこんな風に生活していたんですか……?」
「そうよ。憶えていない?」
「……は、はぁ」
 言われてみれば、おぼろげにそんなこともあったような気がする。
(この前は、こんなことを一週間も……)
 ふるる、と身体が震えた。
 追い討ちをかけるように、生徒さんは言った。
「ここからが楽しくなるのよ」
「うぅ」
(出来れば知りたくない)
 なんて思っても無駄なのだろう。

 犬食い、という言葉がある。
 小さい子がやったりして、親に怒られたり。
 大きくなれば恥ずかしくて出来ないこの食べ方で、あたしはご飯を食べなければならなくて――。
「食べたくないです……」
 顔をそらして生徒さんを見ないようにしながら、抵抗した。
「お腹が空いているんでしょう?」
 その通り。
 でも食べたくないのだ。
 コトンと置かれたお皿。中にはドッグフードのようなものが入っている。
「ほらほら」
 と、生徒さんはあたしの視界に入るように皿を移動させる。
 視線をずらすあたし。
 皿を移動させる生徒さん。
「欲しくないです!」
 言い張っても悲しいことに、あたしの口からはダラリとよだれが出て来た。
 こういうとき、犬は何て不便なんだろう。恥ずかしくても拭うことが出来ない。
「無理しないでいいのよ」
 目の前に皿が置かれる。
 ……パタパタと上下に動く尻尾。
(うう……)
 項垂れて、数秒。
 諦めの感情が心の中で広がっている。
 大人しく口をご飯につけて、食べ始めた。
「あーそうだったわ」
 目だけで声のする方を見ると、生徒さんが犬鑑札のついた首輪を持っている。
「ノミがつくと大変だから、これをつけないと」
 食事をやめて、生徒さんを仰ぐ。
「え、で、でも……それは犬につけるもので……あたしは…………」
「みなもちゃん?」
 生徒さんは全身鏡をあたしの前に置いた。
 映っているのは柴犬一匹。
「……犬です……」
 生徒さんは手際よくあたしの首に首輪をつけた。
「薬が塗ってある本物の首輪なんだけど、着ぐるみのお陰で肌に影響はないから安心してね」
 変なところで生徒さんは優しい。
 肌がどうとか、そういう問題じゃないんだけど……。
(あれ――)
 ――つと。
 顔を上げてドアを眺める。
「どうしたの?」
「誰かが――」
 ドアが開いて、他の生徒さんが入ってきた。
 あたしは鼻をひくつかせる。
「香水つけてますか? ジャスミンとバニラの香りがしますけど」
 その匂いは花束に顔を近づけるときとは違って、人工的な匂いだった。今の鼻ではむせかえる程に強く香っている。
 様々な匂いが混ざり合っていて、それらを敏感に嗅ぎ取るものだから逆に何が入っているのかはわかり辛かった。中にはあたしが知らない匂いもあるだろう。
「さすがね」
 生徒さんの声に、喜んで尻尾を振る。
「くぅん」
「よしよし。歩く練習もしましょうね」
 生徒さんに促されて廊下へ出た。何だか、どんどん流されていっている気がするんだけど。

 ここで過ごすということ。
 生徒さんが言っていた「ここからが楽しい」という言葉の意味が解り始めてきた。
(そりゃあ、生徒さんは楽しい筈)
 あたしをからかっているんだから。
「何ですか、それ?」
「見ての通り、鎖よ」
 いやーーーな予感がする。
 あたしの顔がひきつる代わりに、生徒さんはニッコリと微笑んだ。
「お・さ・ん・ぽ」
「この格好で、ですか? 四つ這いで?」
「勿論」
「……………………ふぇ」
 一瞬、涙ぐんだ。
「恥ずかしいです……。校内だけでは駄目ですか……?」
「駄目ね」
「――……」
 あたしは犬なりに顔を目一杯あげて、懇願した。
「あたし、恥ずかしいんです」
「そんな顔をしないで」
 生徒さんはあたしの顔を両手で包み込んだ。
「みなもちゃん、よく考えて? 今、貴方は犬の格好をしているでしょう? 四本足で歩く犬と、二本足で歩く犬、どちらが普通かしら?」
「よんほんあし……」
「でしょう? 二本足で歩いていたら注目されちゃうわ」
「そうでした……」
「そうそう。良い子ね」
 手際よく鎖がつけられる。
「あの、でも、何かおかしくないですか……?」
「何かって何が?」
 あたしは首を横に振った。
(はめられている気がするんだけど……)
「気のせいよ。さ、行きましょうね」
 生徒さんはあたしの背中を優しく撫でた。
「…………」
(うーん)
 今のように撫でられたときもそうだけど、散歩という言葉を聞いてからずっと変な感じがしている。
(どうしたんだろう、あたし)
 心の端っこが、喜んでいるような――。
 嬉しそうに動く尻尾。
 油断すればキャンキャン鳴きそうな喉。
 だんだんと犬になってきているのだろうか。

 こんなことなら記憶を失くしている方が良かった、と思っても後の祭り。

 走りたくてたまらないのを堪えて、生徒さんの歩幅にあわせてゆっくりと歩く。
 鎖の擦れる音が首輪のあたりから聞こえてくる。
「あーワンワンだ!」
 はしゃぐ子供の声も。
 涙まじりのため息を抑えつつ、その割には心のどこかは弾んでいて、悲しいやら嬉しいやら……。
 犬用の広場につくと、生徒さんはあたしの鎖を外した。ここで遊ぶらしい。
 目の前に現れたのは白いフリスビー。
「!」
 鏡を見なくても、あたしの瞳は女の子が好きな男の子を前にしたときのように、キラキラと輝いていると思う。
(恥ずかしい……)
 でも、でも……フリスビーなんだもん。これ動くどころか、飛ぶんだもん。座っていられなくてはしゃいでしまうのも、仕方がないんだもん。
 などと、自分に言い訳をする。
 ああいつ飛ぶんだろう。胸が高鳴る。
「そーーーーーーーーーれ!!!!」
 生徒さんは、腰を使って遠くへとフリスビーを飛ばした。
 風を切る低い音。
 勢いをつけてあたしは走り出した。
 ハッハッハと乱暴に息をして、草の上を蹴り、身を躍らせてあの白いものを銜える。
 心を躍らせながら生徒さんのところへ。
「良い子、良い子!」
「くーん、くーん」
「よーし、じゃあもう一回よー」
 生徒さんは思い切りスナップをきかせてフリスビーを飛ばし、あたしは空中の白い塊目指して駆けていく。
「可愛いワンちゃんですねぇ」
 女の人に声をかけられた。
 さすがにここで「ありがとうございます」なんて言えないから、黙っておく。
 あたしの代わりに、生徒さんが頭を下げた。

「あちらで水浴びが出来ますよ。どうですか?」

 せっかくだからと立ち寄った水道場。
 水を一杯浴びてから、身体を震わせる。
 水滴があちこちに飛び散って、見ているだけで面白い。あたしも心地良くなるし。
 ここでシャンプーもしてもらった。
 身体を震わせたくて仕方なかったけど、そこは我慢する。生徒さんに水がかかってしまったら大変だからだ。
 シャンプーの泡から、小さなシャボン玉が宙を漂っている。追いかけようとして、生徒さんに叱られてしまった。
 はぐれた上にもし誰かに連れて行かれたら困るでしょう、って。

 疲れて帰ってきたら、お昼寝の時間だ。
 既に犬小屋で眠ることには、抵抗がなくなっている。
(眠くなると姿勢に関係なく眠れるみたい)
 ただ一つだけ――どうしても馴染めないことがあった。
 それはトイレ。
 部屋に置かれた犬用のトイレで用を足さなければならなくなったとき、とてつもない羞恥心に襲われた。
 自分ひとりしかこの部屋にいないとはわかっていても――。
(嗚呼)
 砂を後ろ足で蹴って隠していたら、何だか自分が猫になったような気がした。
 何だかなぁ。
 あたしは自分が情けなくなって、声を上げて吠えてみせた。犬の鳴き声だ。
 それからもう一吠え。これは生徒さんを呼ぶ合図。トイレの処理をしてもらうためだ。
 生徒さんが来て片付けてもらっている間、あたしはずっと後ろを向いて伏せをしている。恥ずかしいからだ。
(でも目をそらしたところで、殆ど意味はないのだけど)
 目も鼻も、人間より効くようになっているのが悲しい。
 せめて処理中の砂の音を聞くまいとして、前足で耳をペコンと下げるけど――殆ど効果がない。
 それなのに。
 尻尾は垂れ下がり、口から寂しげな声が漏れる。身体の方は生徒さんにかまってほしくて仕方がないのだ。
「ふふ」
 生徒さんの笑い声が後ろから聞こえてくる。
 その声に混じって、何か、別の音が耳に入った。
 人の声ではなくて、もっと別の――聞き覚えのある――。

 幾日か過ぎて、やっとというか、もうというか。メイクを落としてもらえた。
 安堵のため息を漏らしながらも一抹の寂しさを感じているあたしに、生徒さんが写真立てと一枚の写真をくれた。
 一匹の犬が後ろを向いて伏せをしている。
「――……!!! あのときの!!」
「お部屋に飾ってね?」
 生徒さんの猫のように甘ったるい声に、背筋がゾクリとする。
「い、嫌です!!!」
 あたしは風を切る程に強く首を振った。
「恥ずかしいし、それに猫さんの言うことなんて聞けません!」
「………………」
 少し間があった後、吹き出した生徒さん。
 あたしも自分の言ったことが理解出来なくて、苦笑してしまった。

 結局――飾るのは恥ずかしいし、捨てることは出来ないしで、あの写真は机の右の引き出しに入れて鍵をかけておいてある。




終。