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<東京怪談ノベル(シングル)>


ローズミルクティ・ベイビー
 ほんとうに大切なものに出会ったら、命をかけていとおしいものに出会ったら、決して手放してはいけないの。だって、人の趣味なんて限られているし、世の中には余計なものがあふれすぎているでしょ。一生のうちに巡りあえるものは、ごくわずか。だから、もしも、ほんとうに愛しいものに出会うことができたなら、それは、運命の出会いなの。世界にたったひとつだけ、赤い糸で結ばれた相手――。だから、ね、絶対に、手放しちゃいけないの。エリカは、そう思うんだ。
 エリカが赤い糸の相手に巡りあったのは、ある冬の日曜日だった。青空にうっすら氷が張っている、とっても寒い昼下がり。Aラインの白いコートに、つけえりみたいなラビットファーのマフラーをして、ゆきうさぎみたいにぴょこぴょこ飛びはねながら、エリカは街を歩いていた。
 ほっぺが赤くなるくらい寒い日だったけれど、エリカは、ごきげんだった。だって、エリカ、この冬に買ってもらったばかりの、ぴっかぴかのコートを着ていたんだもの。ふわふわの布地が気持ちよくて、着ているだけで嬉しくなっちゃうんだもの。
 エリカはその時、お気に入りのケーキやさんへ行く途中だったの。今までだって、何度も足を運んでいるお店。だから、道を間違えることなんて、ありえない。それなのに、その日は何故か、いつもと違う角を曲がって、知らない道に入ってしまった。きっと、白いコートが嬉しくて、ウキウキしていたから、だよね。道を探してキョロキョロしていたら、真っ白に塗られた木の扉のついた、ちいさなお店を見つけた。そして、遂に、出会ってしまったの。
 ――ねぇ、運命って、偶然に偶然が重なるから、運命なんだよね。あの日、あんなに空気が冷たくなかったら、エリカは白いコートを着て出かけていなかっただろうし、白いコートを着てウキウキしていなかったら、道を間違えることもなかっただろうし、道を間違えなければ、出会うことはなかったに違いないの。エリカの、運命の相手に。
 そのお店は、ケーキやさんと見間違うほどに、可愛らしいお洋服やさんだった。左側に白い扉があって、その右隣に、扉みっつぶんくらいのショーウィンドウがついていた。ショーウィンドウの中には、ドレスを着たトルソーが一体。それはまるで、エリカのお部屋にいる、フランス人形さんを大きくしたみたいだった。ふんわり膨らんだ肩口と、たっぷりの布でギャザーを寄せた胸元。スカートの裾は、肩幅よりも大きく広がっていて、バレリーナの気分でクルリと回れば、魔法みたいな螺旋が描けそう。たとえるならば、粉砂糖をふったクリスマスケーキ、砂糖漬けのドライフルーツ。そんなお洋服。
 その瞬間、エリカはきっと、息すら止めていたと思う。ガラスの向こう、ショーウィンドウの中にだけ、別世界が舞い降りていた。それは、金色の懐中時計が逆さに回ったり、トランプの兵隊さんがハートの女王様のごきげんをとっていたり、帽子屋さんがお茶会を開いたりする、不思議の国の世界。あれ? でも、エリカ、赤いチョッキを着たウサギさんを追いかけて、ここに辿りついたわけじゃないのに――。
「どうしたの?」
 突然、真上から声がして、飛び上がるほどびっくりした。どれくらいの間、エリカがそのお洋服を見つめていたのかは、わからない。だけど、きっと、信じられないほど長い時間、エリカはそこにいたのだと思うの。だって、やっと我に返ったとき、手袋をはめていない指先が、痛いくらいに冷たくなっていたから。声のした方角を見上げると、ミルクチョコレート色の髪をくるくるに巻いた店員さんが、半分開いたお店の扉から顔を覗かせていた。
「お洋服、見ていく?」
 にっこり笑ってそういってくれたけれど、エリカは、口もきけなかった。だって、その店員さん、ショーウィンドウのドレスと色違いの、カカオ色のドレスを着ているんだもの。エリカに話しかけるたび、スカートがゆったりと揺れて、裾についたチュールレースが、天使の羽根みたいにひらめくんだもの。
 だんだんと、顔が真っ赤になっていくのがわかった。どうすればいいのかわからなくって、エリカはそのまま、くるっとお店に背を向けて、走り出してしまった。なにあれ、なにあれ、あのお洋服、一体、なに?! そんなことばかり考えていて、どこをどう走ったかなんて覚えてない。行くはずだったケーキやさんのことだって、すっかり忘れてしまっていた。おうちにつくなり、ウサギさんのぬいぐるみを抱きかかえて、一目散にベッドに飛び込んだ。
 胸がやぶけそうなくらい、どきどきしていた。あんなお洋服、エリカ、見たことない。あんなに柔らかそうなレース、生まれてはじめて見た。触れたら、ココアに浮かべたマシュマロみたいに、ふわっととろけて消えてしまいそう。それに、あの、花びらみたいな、苺みたいな、夢みたいな生地の色。いつかパパが淹れてくれた、薔薇の香りのミルクティーを思い出す。
 あのお洋服を着れば、あの日のミルクティーとおんなじ、あったかな、しあわせな、すてきな香りに包まれるのかな? たっぷり広がったスカートの裾は、天使の羽根になって、エリカを天国まで連れていってくれるのかな?
 あぁ、会いたい。あのお洋服に、もう一度、会いたい。ずっと、いつまでも見つめていたい。触れていたい。抱きしめていたい。こうして想像しているだけで、顔が熱くなる。まるで恋しているみたいなの。あのお洋服に包まれて、一晩じゅう眠れたら、エリカ、きっと、死んじゃうわ。
 だから、次の日、学校帰りにもう一度、あのお店へ行ったの。あのお洋服に会えるんだ、お店に入れば、触らせてだってもらえるかもしれない。そんなことを考えて、一日中、うわのそらだった。だけど……。だめ。お店が見えてくると、歌い出したいくらいしあわせな気持ちになるのに、いざ、お店の前に立つと、どうしても、だめなの。ショーウィンドウの中にいる、トルソーに着せられた、あのお洋服。じっと見つめていると、目が合った気がして、嬉しくて、恥ずかしくて、目をそらしてしまう。会いたかったのって、あなたが大好きよって、伝えたいのに、どうしても、だめ。心からいとおしい相手には、好きって伝えることすら、難しいのね。エリカ、そんなこと、知らなかった。
 だから明日は、おうちでいちばん大きなテディベアを連れて、あのお店に行こうと決めたの。エリカの両腕でも抱えきれない大きさだけど、くまさんの背中に隠れていれば、あのお洋服に見つめられても、逃げずにいられそうだから。
 ねぇ、ほんとうに大切なものに出会えたら、絶対に手放しちゃいけないの。それは、運命の相手だから。エリカの赤い糸は、あのお洋服につながっている。だから、ねぇ、くまさん。明日は、エリカに勇気を分けてね。赤い糸の相手、エリカは絶対に、手放さないんだから。


<了>