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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


安らぎの、その意味

 ――――パシャン。

 派手な水音とともに、女は静かに立ち上がった。
「待っ‥‥!」
 頭からずぶ濡れになりながら、男はなんとか呼び止めようと腕を伸ばす。
 が、それより早く女はくるりと背を向けた。そこから発するオーラは、明らかに追ってくるなという怒りにも似た雰囲気。気圧される形で男は出掛けた言葉を飲み込む。
 それでもなお、追いすがろうと勇気を振り絞った、一瞬後。
 すでに女の姿はドアの向こうへと消えていった。一切の言葉もなく。後には、カランカランと鳴るドアに付けられた呼び鈴だけが、虚しく響き渡る。
「‥‥ぁ‥‥」
 男はただ、それを茫然と見送るしかなかった。今更追い掛けたところで、結果は分かりきっている。
 たった今、自分は玉砕したのだ。
 がっくりと項垂れた格好で椅子にもたれ掛かる。大きな溜息とともに、手に持っている指輪に目をやった。なけなしの給料を注ぎ込んで購入したそれは、文字通り結婚指輪になる筈だったのに。キラリと無駄に光る宝石が、ただ無情に心に傷を作る。

 それは、あたかもドラマのワンシーンのよう。
 が、当事者にとっては、紛れもなく現実で。
 特に男にとっては人生の転機を迎えようとして、あっさり玉砕してしまった訳だから、その衝撃もひとしおだ。
 とはいえ、今の男を占めているのは、出ていった女の事ではなく。とある人物にどう言い訳しようか、とそればかりを考えているのだ。
 その後ろめたさの理由を男――葛井・真実(くずい・まこと)が知る事になるには、もう少し先の事となる。



 あの海外での一件以来、真実は徹底的に彼――多岐川・雅洋(たきがわ・まさひろ)を避けるようになった。
 後ろめたさと戸惑い。二つの感情がないまぜになったそれは、自分でも理由がわからないまま、日々焦燥を産み続けた。
 迫る彼に対して、思わず付いてしまった嘘。その際、一瞬覗かせた多岐川の表情が今も目蓋の裏に焼き付いている。その光景が徐々に真実を追い詰め、やがて嘘を真実にしようとしたのだが‥‥。

 休暇が明け、気分も新たに仕事をしようと考えた真実。
 振られた事を素直に受け止め、なんとか平静を保とうと仕事の前は考えていたのだが、結果は失敗を重ねるばかりだった。
「す、すいません!」
 これで何度目だろうか。既に両手で数え切れないぐらいに謝ってる気がする。情けなさに思わず涙ぐみそうになるのを、隣からの視線を感じて慌てて引っ込めた。
 そうなのだ。よりにもよって自分の失敗を、多岐川が何度となくフォローをしているのだ。おかげで真実のプライドは、その度にボロボロと崩れていく気がする。
 彼だけには負けたくない、と頑張ってきたのに。
「まあ人間だから、調子の悪い時だってあるさ。要はそれを繰り返さない事だな」
「すいません」
 苦笑混じりのしたり顔でフォローされ、真実は顔中を真っ赤にしながらも頭を下げた。何故だか自分が彼女に振られた事が分かってるような口振りに、恥ずかしさがこみ上げてきたのだ。
(‥‥そんな訳、ないのに)



(やれやれ。俺もまだまだだったな)
 下げられた後頭部を見下ろしながら、雅洋は安堵とともに苦笑を零した。
 先日、彼から告げられた結婚話は、最初から嘘だと踏んでいた。元々、サイコメトラーの能力で事前に確証を掴んでいたからだ。
 だが、実際のところはどうなのか、それを知るには葛井に問い質してみる他はない。当然そんなことは自分のプライドが許さず、やきもきしていたところへ彼が指輪を買った事を知り、不安は一層高まる事に。
 これまで生きてきて、振られた事のない雅洋にとって、自分の弱みを見せる事は自分自身の沽券に係わる。例えそれが、今まで以上に本気になっていると自覚している葛井が相手であっても、だ。
 だからこそ、不安を抱きながらも機会を待った。
 そうして予想通り、葛井が玉砕してきたのを知った。それも自らが付いた嘘を本当にするため、という自分を意識した行動も雅洋は知る。
「やってしまった失敗は仕方ない。次からは気を付けるんだな」
「はい」
 素直に返事してから自分の持ち場に戻る葛井の後ろ姿を眺め、その不器用さを思い出してついつい口元が緩んでくる。
「‥‥普段もあれぐらい素直ならな」

 そして――夜。
 毎年恒例の盛大な新年会が始まった。

「‥‥ぅぅ‥‥んん、ひっく」
 真っ赤になって酔い潰れた男が一人。
「多岐川さん、こいつ駄目ですわ」
「すっかりベロンベロンになってますぜ」
「普段はここまで飲まないヤツなのになぁ」
 周囲からの心配する声もきかず、殆ど無茶な飲み方をしていた葛井は、案の定すっかり酔い潰れてしまっていた。それが自棄酒であることを知っているのは、おそらくこの場では雅洋だけだろう。
 勿論、彼の名誉のためにもそれを口にする事はなく。
「仕方ないな。彼は俺が連れて帰ろう。そろそろお開きの時間だろ?」
「え、多岐川さん二次会行かないんですか?」
「こんなになった葛井クンを置いて行けないだろ」
 そう言った雅洋に、他の面々は納得してぞろぞろと次の会場へ向かい出した。
 最後に残された雅洋は、すっかり意識のなくなった葛井の頬を何度か叩いてみる。だが、いっこうに気付く様子を見せない事に、仕方ない、といった姿勢で彼の身体をゆっくりと抱き上げた。
「さて‥‥正気の時あまりさせてくれなかったからな」
 どこか楽しげに呟いて、颯爽と歩きだした。



 ‥‥緩やかに浮上する意識の中、ズキズキと痛む頭を真実は感じていた。それと同時に、自分を包み込んでいる暖かい感触をも。
(――なんだろう、これ‥‥)
 どんな毛布よりも心地よい。ずうっとこの感触に包まれていた。
 そんな感覚が呼び起こされるみたいで、思わず鼻先を摺り寄ってみせた。途端、鼻の奥に匂ってきたのは、どこかのブランドの香水。それを好んで付ける男を、真実はよく知っている。
「‥‥ぇ‥‥」
「お目覚めかな?」
「‥‥‥‥え、ええ?!」
 思わず上げた素っ頓狂な叫び。
 パッと見開いた視界に広がっているのは、しっかりと引き締まった逞しい胸。よくよく視線を広げてみれば、素肌の腕ががっしりと自分を抱き締めている。
 そしておそるおそる視線を上に上げれば‥‥予想通り多岐川の顔がそこにあった。
「な、な、な、なんで‥‥」
 狼狽する真実。
 それに対する相手の反応は、クスリと苦笑を零すばかり。
「勘違いするなよ。誓って何もしてないからな」
「じゃ、じゃあなんであんた裸」
「仕方ないだろう。人が親切に運んでやってる途中、誰かさんが思いっきり吐いてくれたおかげで、折角のスーツが駄目になったんだからな」
「え‥‥」
 そこまで聞いて、今度は別の意味で青くなった。
 ならば、彼は酔い潰れた自分を介抱してくれた事になる。しかも自分のせいで服まで台無しにしてしまったのだ。
「あ、あの‥‥お、俺‥‥」
「気にするな。どうせ安物だ」
(嘘だ!)
 真実の記憶が確かなら、新年会の時に多岐川が着ていたスーツは、有名ブランドの物だった筈。それなのに‥‥。
「これからは、あんな無茶な飲み方は止めるんだな。どんなに悲しい事があってもな」
「――! ど、どうして」
「伊達にお前を見てる訳じゃない。言っただろう? 俺ならお前の全てを受け止められる。悲しませたりしない」
 声が――ストンと心のどこかに落ちてくる。熱を帯びたように頬が熱い。
 伝わってくるのは、真摯な感情。
 まだ残ってるアルコールが思考回路を麻痺させてるからそんな風に感じるんだ。そう心に言い聞かせなければならないぐらい、今の真実に多岐川の言葉は心地よかった。
 お互い剥き出しの肌を重ね、伝わってくる心臓の音すら気持ちいい。それまで強張っていた全身の力が抜ける。それを了承の合図と受け取ったのか、多岐川の顔が徐々に近付いてきた。
 視線を合わせ、薄く唇を開く。流される意識は、理性も羞恥も、何もかものタガを外してしまった――が。

 目蓋を閉じた瞬間。
 脳裏を駆け巡ったのは、多岐川の女性関係の噂。業界という立場上、言い寄ってくる人間は数知れず、そんな浮き名が自分を含めたスタッフの間で流れていたのを真実は思い出す。
 だから。
 重なろうとした寸前で、真実は彼の胸を思わず押し返してしまった。

「‥‥葛井?」
「‥‥‥‥た、多岐川さんは、こんな事、何人もの人とやってるんですよね。それなら‥‥どうして俺、なんですか?」
「え?」
 虚を突かれたような彼の顔。
 自分はいったい何を聞いているのだろう。そんなコトを聞いて、一体何になるというのだろうか。
 グルグルと酔った頭で必死に考え、真実はただ理由が欲しかった。
 理由さえあれば。
(‥‥きっと、俺は‥‥)



「――葛井?」
 いきなり質問し、それっきり何も言わなくなった葛井を、雅洋は静かに呼んでみた。
 が、返事がない。よくよく見てみると、微かな寝息が耳に届く。おそらく、酔っているところにもって考え疲れしたのだろう。
「やれやれ、まったく。何も気付いてないな」
 思わず零れる苦笑。自分が『全てを』と言った言葉にどんな意味が込められていたのか。そこにある本当の意味を、彼はまるで気付いていない。
 どこか怯えたように身を強張らせている葛井を、宥めるように優しく抱き締めてやる。そうすると、自分の体温に安心するのか、まるで子猫のように擦り寄ってきた。
 野良猫みたいだな、そう思った事は彼には内緒だ。
「いったいいつになったら素直になるんだ、お前は」
 優しく撫でる髪の毛。肩。腕。そして――背中。
 本来ならキスマークの一つでも残しておきたいところだが、そうなったらそうなったで、また混乱させるだけだ。今はじっくり彼の気持ちを解すしかない。
「早いトコ素直になれ‥‥‥‥真実」
 呼んだ名に首が僅かに震えたのは――或いは、歓喜の為か。
(もう少し、待ってみるか)
 そう心に決めて。
 雅洋は葛井を抱き締めたまま、二人ともに眠りの淵に落ちていった――――。

【終】