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◆◇ くちつぐむ歌姫 ―ver.A…tear― ◇◆
独り暮らしの人間にとって、料理なんて手間でしかない。
ことに、いまは街に出掛ければ幾らでも、安価な夕食が転がっている。自分だけの食事製作にいくら時間を使ったとしても、口に放り込むのは一瞬。
だから、気付くのが遅くなってしまった。
もし、透己がもう少し器用だったら、もっと気付くのが遅れたかも知れなかったけれど。
「痛ッ」
大きめに切ったじゃがいも。細かくスライス出来なかった玉葱。無残に粉砕された人参。
そんなものが転がるまないたを前に、新見透己は小さく、悲鳴をあげた。
使い慣れない包丁で、指先を切ったよう。そんなマンガみたいなこと、絶対しないと思っていただけに、少しばかりショックだ。
「……もう」
舌打ちをして、指を持ち上げる。すっぱりと削がれた指の皮。ぱくぱくと口をあける赤い傷口。
――透己が異変に気付いたのは、そのときだった。
「嘘」
ぽつん、と呟いた言葉に、ひやりと腹の底が冷たくなる。
「なんで、血が出ないの?」
ぱっくりと開いた、指先の傷。いつもならあれよあれよと云う間に鮮やかな血が溢れだすはず。
なのに、肉の赤い色は見える。だけど、そこから零れる液体は、一滴も出てこない。ほんの少し濡れているのは、水道の水のせい。
反射的に、透己は背後を振り返る。
狭い、ワンルームのアパート。壁に掛けられた制服。足元に転がるのは薄い革の学生鞄。
先日、学校で拾ったもの。音が出なくなったそれを哀れんで、透己はそっと、鞄のなかに仕舞い込んだ。
嫌な予感がなかったわけではない。呪術に関わるものの匂いを、それは確かに発していた。だけど、壊れて放り投げられたそれのくすんだ色が、なんだか透己に似ているように思えたのだ。
家から放り出されて、独りで暮らしている小娘。いま、ここから消え失せても、誰も気付かない。
そんな感傷が、透己にそれを拾わせた。
「こんなことになるなんてね……」
一滴たりとも血の流れない傷をひらひらと振って、透己は独りごちた。
気持ちが悪いと思う。でも別に、このままでも構わないと思う。身体中の血がそうやって、どこぞに消えたか固まって腐っていくのか。想像すれば、胸が悪くはなっても、心配はされない。
だが、なにかの力が発しているのなら、そこには意思がある。歪められて、撓められた心が。
「取り敢えず、音楽室かな……」
透己の嫌いな、女っぽい女教師の姿を、思い浮かべる。心霊現象全てを忌避する彼女に、こんな話を聞かせればさぞ、怯えるに違いない。意地悪な、気分転換にもなるだろう。
ましてや、この代物を拾ったのは、音楽室でのことなのだ。彼女とて、無関係ではいさせない。
気を取り直して包丁を握り、透己はうっすら唇を歪めた。我ながら、根性が曲がっている。
「でも、ほんのちょっと愉しみかも」
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
なにかが床にぶつかる鈍い音を聴いたような気がして、羽角悠宇は思わず、音楽室のドアを開けた。
「またお前か。……なにやっているんだ? 透己」
顔見知りの女生徒が、椅子に座り醒めた目で床を見下ろしている。
そこには、ぱったりと倒れた、音楽室の主の姿。
「カスミ先生?!」
悠宇は駆け寄って、しゃがみ込んだ。頬を叩いても、いっそ安らかに気を失ったカスミの意識は回復の見込みなし。低い位置から透己を見上げれば、透己は薄笑いを浮かべている。
彼女の片手には、刃をしっかりと出したカッターが握られていた。
「お前……本当になにやったんだ?」
僅かに、悠宇の声に呆れが滲む。透己は抜き身のカッターを振り回す凶暴な生き物ではないが、それを肴にパフォーマンスを披露して、女教師を怯えさせる真似はしかねない。
彼女は、女くさい音楽教師をあからさまに嫌っていたのだから。
「別に、ちょっとご相談に乗って貰っただけです。先輩が心配するようなことは、なんにも」
嘯いて、透己はひらひらとお留守の片手を閃かせる。女にしては少し大きめの手のひら。その上に躊躇いなく走るのは、真っ赤な傷口。
とっさに息を呑んで、次に、悠宇はその奇妙さに気付く。ぱっくりと、赤い肉を見せた十センチ弱の傷。結構深そうだ。なのに、傷口からは一滴たりとも血が流れない。
悠宇の顔色の変化に、悪戯っぽく透己は口許を歪めた。
「ここで、拾いものをしたんですよ。そうしたら、こんなになっちゃって。一応、音楽室の責任者って、そこで逝っちゃってるそのひとじゃないですか。だから、ご相談させて頂いたんですけどね」
荷が重かったみたいだと、醒めた目でカスミを見遣る。
「お前なあ……カスミ先生を卒倒させて遊ぶの、よせ」
「別に、普通に先生らしいこと、して欲しいだけですよ」
小憎らしい台詞を付け足して、透己は片手で器用にカッターの刃を仕舞う。足元の鞄を引き寄せて放り込み、話を続けようとするのを悠宇は取り敢えず止めて、カスミの弛緩した身体を抱き上げる。
「取り敢えず、俺が相談に乗るから。ちょっと待っていろよ」
気を失った女性を放っておくわけにはいかないからと云った悠宇に、透己は肩を竦めた。
「先輩、紳士ですね。別に、その辺に放り出しておけば?」
「お前も、ちゃんと手、しろよ! 手はなにかと、大事なものだろ!」
しれっと吐き捨てた透己の椅子の足を蹴って、悠宇は身を翻した。
月夢優名が音楽室を覗いたのは、小さな好奇心からだった。
音楽室の前の廊下で、顔だけは知っている男子生徒と擦れ違った。それだけなら普通のこと。だけど、彼は両腕に音楽の先生を抱えていた。
――お姫様だっこ。
不謹慎な単語が頭を過ぎる。少しだけ、顔が赤らむ。でも、顔だけしか知らない彼に声を掛けるのは憚られて、優名は取り敢えず、ドアが開いたままの音楽室に目を向けたのだ。
真っ黒なピアノ。半端にカーテンの引かれた窓。そして、ピアノの傍らには椅子。
訝しげに、椅子に腰掛けた女生徒が優名を見返す。
「ご……ごめんなさいッ」
反射的にぺこん、と頭を下げ、踵を返そうとしてふと、優名は彼女の片手が、奇妙に力なく吊り下げられているのに気付いた。
好く好く目を凝らせば、ほんのりと赤い色が手のなかに見える。
「怪我、しているの?」
「別に、なんでもありません」
固い口調で遮られる。いつもの優名ならそこで引き下がるところだが、近くに来て目にした彼女の傷口は、優名の人見知りを凌駕して余りあるものだった。手のひらをすっぱりと横切った傷。ぱっと飛び付いて、スカートから出したハンカチで押さえる。
「保健室! ううん、病院? 病院に行かなきゃ!」
「別に要らないです」
そっけなく返される。それでも強引に彼女の片手を掴んで外へ飛び出そうとしたのは、かなり頭が混乱していたからだろう。いつもの優名なら、そこで怯んでおしまいになっていたはず。火事場の馬鹿力だ。
「ちょっと……」
「駄目!」
切り裂くように、叱り付ける。
迷惑そうに振り払おうとする彼女が、ぎょっと顔を強張らせた。
ふっと、力が緩んで時間が止まる。
ぽかん、と。
困ったように、彼女が顔を顰める。
「別に、こんなのどうでも好いじゃないですか? 他人のことだもん。ましてや、あなたのは関係ない人間じゃないですか。例えば……あたしがいまこの瞬間に消えたって、あなたには関係ない」
「そんなことない!」
ひく、と喉が引き攣る。こんな大きな声、久しぶりに出した。
「あなたが、そうやって傷付いているのを見たら、傷付くひとがいるから。絶対に」
肩が、勝手に上下していた。息が切れていた。一気に感情が登り詰めて、スローモーションで落ちていく。徐々に自分が戻ってきて、涙が滲むほど喚きたてた自分が恥ずかしくなってきた。
「ごめんなさい、怒鳴って。でも」
手当て、しましょ? と小さく付け加えたら、彼女は溜め息を吐いた。ほんの少し、顔が赤くなっている。目が逸らされる。
手持ち無沙汰に無事な手で髪を漉いて、彼女はぽつんと呟いた。
「……あんまり、意味ないと思います」
きょん、と目を丸くした優名に彼女はハンカチを一旦返して、もう一枚、今度は別のハンカチが差し出す。彼女のものらしい、タオル生地のダークカラー。
「涙、拭いてください。取り敢えず」
「……ありがと」
彼女のハンカチで涙を拭って、ふと、優名は自分のハンカチに目を落とす。
あれだけ酷い傷を押さえたのに、それはまっさらなままだった。
取り敢えずハンカチを巻いた手で、透己は鞄を探る。
「痛くないの?」
「全然。そんなに気遣われると、逆に困ります。痛がった方が好いですか? 月夢先輩」
素っ気無く云われて、優名は意味なく視線を足元に彷徨わせる。
「お前、云い方きつい」
そう云う彼――羽角悠宇と名乗った男子生徒もまた、優名の緊張を助長する。そもそも、人見知りで他人が苦手なのだ。それが見知らぬ、しかも男の子らしい弾けんばかりの明るさと圧して来る意思を持った男の子なら、なにを云わんをや。彼がほんの少し身じろぐだけで、びくびく身体を強張らせていた。
そんな優名の心境を知らずに、悠宇は透己から受け取ったものを日に翳す。
真ん中からくしゃりとひしゃげた、古びたハーモニカ。小学生が持つような、ちゃちなもの。
悠宇が口を付けたけれど、ピーともプーとも鳴らない。
「おかしいな。壊れていても、ここまで鳴らないはずねえけど」
「そりゃあ、おかしいでしょう。あたしは、こんな状態だし」
ぷらぷらと振った透己の手に、優名はまた、びくりと身を震わせる。
「確かに、血は出ていないけど……そんな乱暴に扱わないで」
触った透己の手はあたたかくて、だからこそ、いますぐ傷口から血が噴き出してもおかしくない。不自然で、ひどく怖かった。
「悪化、しちゃうかも知れない」
おずおずと云うと、透己はバツが悪そうな顔をする。なにか悪いことを云ったかと、優名はまた怯える始末。
――帰りたいかも。帰って、ゆっくりお風呂に漬かりたい。
憂鬱な優名を置き去りに、ふたりはなにやら話をしている。
「踏み付けられたのかな?」
「かも知れない。取り敢えず、ここの床にぽつん、と転がっていたから」
「誰が放り出して行ったんだが」
「捨ててった、の間違いじゃないですか?」
何故か自分が傷付いたように、透己が吐き捨てる。そんな透己の頭をぽん、とひとつ叩いて、悠宇が立ち上がった。
「取り敢えず、置いてった奴を探そうか」
「どうやって?」
「音楽系部活の人間と、音楽室使用者を探す。ハーモニカを拾ったのは、何曜日だって?」
「水曜日」
「……水曜日は、音楽室空きだと思う。放課後。……多分」
優名が思わず口を挟む。
「なるほど」
悠宇がにっこりと笑う。ぱっと、ひかりが散るみたい。なんだか、どきどきした。ちょっとでも役立てたのかな、と思うと、嬉しくて頬が赤くなる。現金だ。
「じゃあ、授業で使った奴を潰そうか」
軽く悠宇が立ち上がって、壁に貼られた表を指差す。
「……うちのクラスが、使いました。五時間目」
優名が手を上げる。どうやら、この件と優名は元々、縁があったらしい。
――別に、怪奇現象なんてどうでも好いんだけどな。
胸中で溜め息を落として、ちらりと、透己を横目で見遣る。
余り感情の表れない、無表情。
――でも。
なんだか、彼女を放っておきたくない気が、した。
いなくなったって誰も哀しまないなんて、云わせておきたくはなかった。
潰されて捨てられたハーモニカを可哀想だと胸を痛める、同じ重さで。
時刻は、四時少し前。
部活に入っている生徒ならすでに活動に勤しみ、帰宅部の学生なら帰路についているかも知れない、微妙な時間。
意味がないと知りながら似非怪我人・透己を保健室に押し込めたあと、悠宇と優名は優名のクラスに足を向けた。
「あいつ、カスミ先生にちょっかい出さないかな」
曖昧に、優名が首を傾げる。
今更、狼と子羊を同じ檻に閉じ込めたことに気付くも、もう遅い。取り敢えずカスミの無事を祈っておこうと、悠宇は無責任なことを考えた。
「男女、どちらかな?」
さらりと、長い髪を靡かせて優名が呟く。可愛いけどどこか不安定な、空気みたいな女の子だと、明後日なことを悠宇は考えてみる。人間っぽい生ぬるさを、感じない。
窓の外は、薄暮。
そんな半端時に相応しく、優名のクラスには人影がほとんどなかった。
足の速い悠宇に少し遅れて、優名が小動物のように首を伸ばし、自分の教室をしげしげ観察している。
悠宇は取り敢えず、と足を踏み入れた。
「ちょっと訊きたいんだけど」
ひらり、件のハーモニカを高く掲げてみせる。
はっきりとした悠宇の声に、教室に残っていた全ての視線が集まった。
「これに見覚えがある奴、いないか?」
「ごめんなさい、水曜日の放課後に、音楽室に落ちていたの」
何故か敬語になりながら、つっかえつつも優名も声を張り上げる。と、云っても悠宇の十分の一の声量でしかない。
それでも一生懸命さは伝わって、悠宇は頬を緩めた。
生徒たちの視線が、お互いの間を行き交う。好奇心、怪訝さ。そういうものがミックスされて、奇妙な按配。ここで名乗り上げたら、吊るし上げじみた雰囲気になりそうだった。
「別に、いまじゃなくって好いから、知っていたら取りに来てくれ」
頃合を計り、悠宇は優名に目配せをした。
「あたしのところでも、好いから」
優名が云い添えて、そっと教室を出て行った。
二人でなんとなく向かったのは、校内のミルクホールだった。
マンモス学園に相応しく、神聖都学園は飲食関係の充実はめざましい。聞けば、優名は完全に校内で衣食住を賄えているとのこと。他校では信じられなくても、この学校ならありえることだった。
「考えてみれば、何故、血が出なくなったんだろ」
ストローの袋を千切り、いまさら優名が呟く。
「疑問点をあげるなら、もうひとつか」
テーブルの上に置かれたハーモニカの傷だらけの表面に触れながら、悠宇も応じれば。
「このハーモニカの音が、何故、鳴らないのか……よね」
アイスココアをゆっくりと掻き混ぜながら、優名も答える。
「ハーモニカの持ち主の血も、ハーモニカ自身の音も、出なくなる」
何故、と視線でお互いに問い掛けたところで、問答は敢えなく停滞してしまう。
悠宇はテーブルに突っ伏して、こつん、と指先でハーモニカを突付いた。
「音の出ない楽器って、嫌だよな。なんだか、凄く我慢している感じがする……」
ちらりと頭を掠めたのは、楽器を抱えて微笑む、誰かさんの顔。悠宇のランキングの、常時一位。
だから。
壊されて、歪められてしまった楽器であっても、黙りこくって堪えたりしないで欲しい。
「あの……」
そこに、遠慮がちに声が掛けられる。
ぱっと、悠宇は顔を起こした。振り返って、悠宇の勢いに負けたかたちの声の主を、見返す。
茶褐色の髪をひとつに括っている、地味な印象の女生徒だった。
「鈴原さん?」
優名が、小さく名前を呼ぶ。それに後押しされたように、彼女は、ずい、と手のひらを突き出した。
「それ、わたしのです。返してください」
云うなり、渡されるのを待たずにテーブルのハーモニカを掴み取る。
「ストップ」
そのまま大きく振り被ったところで、ようやく、悠宇は立ち上がって彼女の腕を掴んだ。
ぎん、ときつい目で睨む彼女に一瞬怯みつつも、ゆっくりと、噛んで含めるように言葉を紡ぐ。
「悪いんだけど、そう簡単に捨てられちゃ敵わないんだよな」
「捨てたものをわざわざ拾って来てくれて、ありがと。凄い親切、凄いお節介!」
吐き捨てて、鈴原と呼ばれた女性とは、乱暴に悠宇の腕を振り払う。もう一度同じ動作を繰り返そうとしたところを、今度は優名の声が押し留める。
「あの……鈴原さん。それ、捨てられてしまっては、困るの」
「持ち主に返しに来てくれたんでしょう? ご親切にありがとって云っているの。もう、好いでしょう」
逆上して、鈴原は優名に食って掛かる。余裕がない、追い詰められた風情。怯えたように目を瞑った優名を庇い、すっと差し出された腕があった。
「頼む。こっちも、ちょっと困っているんだ。それを拾った奴が、ちょっと変なことになっている。どうしてなのか、わからない」
優名を庇って、悠宇が穏やかに云い添える。優名が、縋るように鈴原を見詰める。
「お願い」
二対の眸がそれぞれの強さで、鈴原に注がれる。
押されたように、なんとか云い返そうとするかのように、鈴原が口をぱくぱくする。
数瞬の、対峙。
「わかったわよ」
鈴原は深く、諦めの溜め息を吐いた。どっかりと座り込んで、頬杖を着く。
「貰いものだったのよ。でも、もう持っておく謂れはないから、捨てたの」
不貞腐れて素っ気無く、鈴原が云う。
「……何故?」
優名が、微かな声で訊ねる。
「なんの価値もないものだったみたいだからね」
「そんなの……」
「あるのよ。だって、くれた本人が云ったんだもの」
「どういうことだ?」
悠宇が、問いを差し挟む。条件反射のように、鈴原が刺々しく悠宇を睨んだ。
「そう、聞いたのよ」
「……それじゃ、わからねえよ」
埒が明かないと、悠宇は頭を抱える。鈴原はそっぽを向いた。
「聞いたんだもの……」
水曜日の、放課後。
音楽室に忘れ物をした鈴原が、偶然、聞いてしまった会話。
「あんなもので満足するなんて、安い女だよな」
鞄のなかには、声の主から貰ったハーモニカ。
彼が祖父から子供の頃貰ったものだと話していたもの。
受け取ったときは嬉しかった。彼の思い出を、分け与えられたようで。
でも、錯覚だった。
彼にとってはそれはガラクタで、そんなものを欲しがる鈴原は、安い女。
すっと、胸の奥が冷えた。とっさに、鞄を引っ繰り返した。引っ繰り返して、ちゃちな銀色の楽器を、引っ張り出して床に叩き付けた。叩き付けて、何度も踏み躙った。
最後に見たハーモニカは、胴体がくしゃりと歪んで、みじめな姿になっていた。
鈴原自身みたいに。
「別に、悔しくなんてないわ。そんな奴を選んじゃったあたしが、馬鹿だっただけよ」
蓮っ葉に、鈴原は嘯く。
悠宇は、ゆっくりと手元のコーヒーカップを揺らした。ほとんど中身の残っていないカップ。底に、コーヒーで奇妙な模様が生まれる。
「馬鹿みたいだっただけよ」
鈴原の独白。
壊れたレコードのように空回りしている。
「もう、どうでも好いことよ。終わったことよ。だから、捨ててしまって好い」
己に鍵を掛けるように、繰り返す。
言葉で潰して、黙って殺す。まるで歪み撓んで音を飲み込んだハーモニカみたいに。
――苦しい気持ちは、そこに存在するのに。
一連のからくりを、悠宇は理解した。
泣けない持ち主と、鳴かないハーモニカ。声を上げるようなことなんてなにもなかった。そう彼女が否定する限り、ハーモニカはこのまま。血を流すようなことはなかったと云い張り続ける限り、透己もあのままだ。
悠宇は思わず、つかつかと鈴原に歩み寄り、腕を伸ばした。俯いて、暗い顔。なにもかも見ない振りの彼女の鼻先で、両手を打ち合わせる。
――ぱん、と。
意外と大きな音がした。
優名が、びくりと飛び上がる。彼女の華奢な手が、氷が残るグラスにぶつかった。
鈴原が、鈍い動きで悠宇を見上げる。
本当は、鈴原の頬を張りたかったのかも知れない。女の子に、そんな暴力は奮わない。だけど、もどかしくて堪らない。でも、それは彼女の振る舞いのせいだけではなくて、色んな躊躇いや嘘が、当たり前に自分の裡にあるからだ。
でも、そんなものがわだかまっているからこそ、悠宇は、強くいたいと願う。
「なかった振りなんて、するなよ」
逃げてしまうなんて、赦したくない。悠宇の、わがままだ。
「なかった振りしたって、哀しい気持ちはあんたを蝕んでいる。悔しいんだろ? 詰りたいんだろ? じゃあ、そうすれば好い」
「勝手なこと、云わないでよ」
ぎゅっと片手に壊れたハーモニカを握り締めて、鈴原が悠宇を睨む。
「なにも知らないくせに、勝手に、正しげなことを云わないでよ。偉そうに。別に、あんたには関係ない」
火を噴きそうな口調を、悠宇に浴びせ掛ける。
悠宇は、余計苛立つだけ。もどかしい。どうしたら――。
――どうしたら、彼女を、ハーモニカを、素直に泣かせてやれる?
そうすれば、全部が終わる気がするのに――。
ぎゅっと唇を噛み締めた瞬間、視界の隅をふわりと、掠めた影があった。
「……月夢、さん?」
空気のような軽さと儚さで、彼女が鈴原に近寄る。
白い手が、彼女の頬に、触れる。
「……なんで、泣いているのよ」
鈴原の、毒気を抜かれたような声に、悠宇は彼女の顔を覗き込んだ。
女の子らしい、線の細い横顔。大きな眸。ふっくらとした頬のラインをゆっくりと、透明な雫が伝っていく。
ふるふる、と優名が、首を振る。
風に紛れそうな微かな声で、囁く。
――泣きたいなら、泣けば好いのに。
傷口から溢れた血は、確かに肌を汚す。でも、いずれは傷を塞ぐのだから。
「そうやって、苦しいって想う気持ちは、絶対に無駄じゃないって、思うもの」
たどたどしく、言葉を紡ぐ。
「貰ったものも、貰った想いも、鈴原さんのもの。他の誰のためのものじゃない」
魅入られたように、鈴原は優名の涙を見詰めている。
その眸は乾いたまま。だけど、いままでのとげとげしさは払拭されていた。
ばさり、と長めの前髪が、鈴原の額を隠す。それをかき上げて、なにか云い返そうとして、唇を噤む。俯いたら、また髪が零れる。
「綺麗事」
くしゃくしゃと、鈴原は前髪をかき混ぜる。
「そんなに、簡単に思い切れるものじゃないよ」
溜め息のように、吐き出す。俯いた眸には、敵意ではなく濃い憂いが漂っていた。
それもまた涙なんだと、悠宇は思った。
「でも……ありがと」
小さな、独り言めいた囁き。
鈴原が、そっと席を立つ。ひらり、と片手に握ったハーモニカを、翳す。
全然、割り切れていない。飲み込めていない。そんな、複雑な顔。でも、笑みを浮かべた。
「ありがと」
今度は、少しばかり大きな声で、ハーモニカを掴んだ手を振る。
吹き抜ける風に、ハーモニカの音が紛れていた、気がした。
一方、保健室では。
「う〜……」
突然痛み出した傷に、ベッドを占拠した透己は七転八倒していた。
一気に、やる気なく巻かれた包帯が血に染まる。
「新見さん?」
そんな修羅場を知らず、ひょこん、と優名がドアから顔を覗かせる。
「……あのハーモニカ、持ち主に帰ったみたいですね……」
なんだか暗くなった視界にぐらぐらしながら、透己が視線だけで優名を捕える。
「新見さん? どうしたの?!」
駆け寄ってくる優名に、透己は首を振ろうとして、ぱったりベッドのシーツに懐いてしまった。
「うっわ、流血沙汰……」
続いて入って来た悠宇が、パニックを起こし掛けた優名の代わりに消毒薬やガーゼ、それに新しい包帯を取り出して、血で湿った包帯を巻き取る。
「大丈夫? 大丈夫?!」
涙目で、優名が透己を見詰める。
「大丈夫……に見えます?」
「ご……ごめんなさいッ」
「嘘です。大丈夫ですから」
「苛めるなよ、バカ」
調子に乗っていたら、後頭部を悠宇にどつかれた。
「そんな……大丈夫? 新見さん」
でも、優名は意地悪な透己の言動など物ともせず、心底心配そうに透己の手当てを見守っている。……わたわた慌てて、余り役にも立ってはいないけれど。
悠宇は手早く透己の傷を包帯で巻く。病院に行けよ、すぐに、と告げる顔は、僅かに曇っていた。
――価値がないひとなんて、どこにもいません。
音楽室で、優名が透己に、云った台詞。
――価値って、なに?
そんなの、透己は知らない。
それでもこうやって、心配をして貰えること。自然に、透己の傷を慮ってくれること。
それだけで、嘘でも、誤魔化しでも、幻でも、騙されてみたい気がした。
この世界は、どこかで、ひとかけらでも誰かに優しい。だから。
――価値がない人間など、どこにもいないんだ、って。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 3525 / 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生 】
【 2803 / 月夢・優名 / 女性 / 17歳 / 神聖都学園高等部2年生 】
【 NPC1859 / 新見・透己 / 女性 / 16歳 / 高校生 】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。不束ライター・カツラギカヤです。この度はご発注、ありがとうございました。
今回は、羽角さまの「血を流すような思いなどしなかったという逃避」と、月夢さまの「いなくていい人間はいないことを証明したい」のふたつをメインにして、物語を作ってみました。力不足の面は多々あるかと思いますが、少しでも愉しんで頂ければ幸いです。
繰り返しになりますが、ありがとうございました。また機会がございましたら、お付き合いの程宜しくお願いします。
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