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<東京怪談ノベル(シングル)>


冷光と風姫


 戯れに重ねられた幼い唇が、見知らぬ悲劇とチカラの種を彼女の中に植え付けた―――



 凍えた月と棘のように光を伸ばす僅かな星の下、三雲冴波であって三雲冴波でないモノがふわりふわりと寝静まった住宅街を彷徨っていた。
 まるでたゆたうように、まるで重力など存在していないかのように、パジャマの裾に肌を刺す冷たい風を孕ませて、彼女は夢現の瞳で夜を漂う。
 長い髪が羽根の様に舞い踊る。
 手足が空を掻く。
 求めていた。
 風を。
 もっと心地よい風を。
 冴波の身体に潜むモノたちが、ザワザワとさざめき、飼い主である彼女を内側から動かす。
 腐臭が混じる淀んだものではなく、もっと、もっと澄んだ風をと彼女は望む。どこまでもどこまでも強く望む。
 誰もいないはずの真夜中。
 濁った水の匂いと遠くから聞こえる車の微かな排気音以外は何もないはずの河川敷。
 願う想いに応えるかのように遠くから流れてくる緑の息吹。それが鼻先を掠めると、彼女はふぅっと口元に笑みを浮かべた。
 誘いに乗ろう。
 いますぐにこの甘やかな囁きに身を委ねようと、両の手を伸ばした。
 だが。
 それを阻むように、不意に投げ掛けられる軽薄な声。
「ねえねえ、お姉さ〜ん」
「こんな時間にこんな場所でそんな格好でなにやってんの?」
 だらしなく洋服を着崩した若い男達が鉄橋の影から湧いて来る。
 そうしてニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、慣れた動きで彼女の退路を立つように円を描いて取り囲み、その輪をじわじわと狭めていった。
 格好の獲物を見つけた獣のような視線が、無遠慮に彼女の体を舐めまわす。
「お姉さんってば」
「ヒマなら俺らと遊ぼうよ」
「あったまること請け合いだからさ」
 あと一歩踏み込めば完全に自由を封じられる、そんな距離までじわじわとにじり寄ってきた。
 そうそう簡単には逃がさないと、ぎらついた目が語っている。
 けれど、彼女は彼らを見ない。
 彼らに耳を貸さない。
 内なる声が指し示すままに、ただ清浄なる世界だけを望んで意識の全てを向ける。
「あれあれぇ?なぁにをすましちゃってるワケ?」
「俺らが遊んでやるって言ってんだよ」
「シカトすんじゃねえって」
 嘲りを含んだ男たちの目に物騒な色が差す。嗜虐的な笑みを浮かべて、四方から手を伸ばし、標的の腕を、肩を、パジャマの裾を掴む。抵抗する気にもなれないくらいにがっしりと押さえつけるつもりでチカラを込める。
 動きを封じられ、初めて彼女は――サエハはキロリと彼らに目を向けた。
「――――ろ」
「は?」
「なになに、お姉さん?聞こえないよぉ?」
 わざと囃し立てて彼女の背後から回り込んで顔を覗きこんだのは、あどけなさの残る少年だ。
「何ならちゃんとお家まで送り届けてやるぜ?」
「大丈夫、大丈夫。俺ら優しいからさ」
「ホントにちょっと遊んでくれたらソレでいいんだって。な?」
 醜悪な欲望を滲ませて、腰を、足を、髪を掴もうと更に手を伸ばしてくる。
「―――退け、ろ―――」
 はじめてしっかりと顔を上げ、彼女は明瞭な言葉で拒絶する。凍りついた視線が、そう、まるで昆虫のように無機質な瞳が男達を射抜く。
「な、なんだ?」
 一瞬たじろぎはしたものの、なおも彼らは食い下がろうとする。
「消えろ」
 刃のように研ぎ澄まされた、低く響く絶対命令。
 そうして煩わしげに男たちの手を振り払い、振りほどき、彼女の中に巣食うモノは求めてやまない『風』を目指して再び歩き出そうとする。
「っざけんな――っ」
 脆弱だと思っていたものからの反撃に、カッと頭に血がのぼる。
 泣き喚いて許しを請うはずだった。それを嘲笑い、力で捻じ伏せていくコトで優越感を得られると疑いもしなかった彼らにとって、彼女は不愉快で不可解極まりない存在と成り果てた。
 端から抑制などという機能はない。
 泣き喚け。
 許しを請え。
 屈服させてやる。
 支配欲。征服欲。それらを突き動かすのが本能的な恐怖であることにも気づけず、男達は衝動のままに襲いかかった。
 今までそうしてきたように、その行動に迷いはない。
 若い女性の身体はあっけなく地面に押し倒されるはずだった。
 振るわれる暴力になす術もなく翻弄されるはずだった。
 勝利は当然のように自分たちの物になるはずだった。
 だが、予想は覆される。
 ざわざわと、ザワザワザワザワと、ソレ等は皮膚の下で共鳴しあい、惹かれ合い、そうしてサエハ自身を凶器に変える。
 凍てつく風が唸りを上げて、彼女を包んだ。
 瞬間、冷たい夜の世界に断末魔の咆哮が迸る。
 彼女のものではなく、男達の、引き攣った悲鳴。
 腕を押さえて転げまわる男のひとりは、手首から先が消えていた。
「な、な、な―――っ!?」
 何が起こった。何があった。なんなんだ。一体これはなんなんだと、目の前の光景に怯え、驚愕に目を見開いたまま、一歩、二歩と麻痺した足であとずさる。
 サエハは風を握っている。
 色を持たない剣となって、まるで中世の騎士のようにそれを緩く掲げる。
 残酷で優しい風の精霊たちの囁きが彼女を取り巻く。
 クスクスクスクスと、この世ならざるモノたちが哂う。
 応えるように彼女も嫣然と嗤ってみせた。
 そして。
 消エテシマエ。
 透明な刃が空を薙ぎ、紅い飛沫が無彩色の風を染める。
 自分の相手にしているものが何であるのか見抜けもせず、我が身に降りかかるだろう厄災にも気付けなかった、哀れなほどに鈍感な生き物達への洗礼。
 己らの浅はかさを悔いる間も与えられないままに悲鳴は風の中に掻き消され、男達の存在はこの世界から抹消された。
 全ては瞬きの間の出来事。
 夢幻の境で起きたこと。
 静寂は唐突に訪れる。
 赤く染まった霧の中をするりと抜け出して、サエハは骸が転がる河川敷から緑の香りを含んだ心地よい風を求めて空に舞い上がった。
 夜はまだ始まったばかりだ。
 さあ、今宵はどこまで飛ぼうか――――



 目覚ましが遠くで鳴っている。
 1回、2回、3回、4回……鼓膜を震わす無遠慮な大音量で鳴り響く。頭に響く。うっかり呼吸まで止められそうだ。
「ん〜」
 もぞりとベッドの中で寝返りを打ち、冴波はいつものように半ば寝惚けた頭で時計を引き寄せ、黙らせる。
 スヌーズ機能も、元を切ってしまえば役に立たない。
 大人しくなった時計を抱いて蹲ったまま、ほんの少し眠りの余韻に浸る。
 体がだるい。手足が妙に重い。昨日は日課のチャットも早めに切り上げて、ベッドへもぐったのは午前1時を迎える前だ。なのに何故か疲労が抜けていない。気のせいか、身体も芯まで冷え切ってしまっている。
 うっとうしげに顔に掛かってくる前髪を掻き上げて、身体を引き摺るようにベッドから這い出た。
 タイマーセットのおかげで、暖房がすでにこの部屋を温かく包んでいる。
「正月ボケかな」
 長い休みのせいで鈍ってしまっているのだろうかと、そんなことを考えながら、いつものようにケトルをコンロにセットして、テレビをリモコンでオンにする。ぱちんと始まった音を確認しつつ、自分は洗面所へ。
 顔を洗って、歯を磨いて、髪を梳かして、メイクして。
 決められた順番を守るように、仕事モードの自分を鏡の前で作り上げていく。
 背後からはニュースを読み上げるアナウンサーの声が聞こえてくる。
 自分にとってはどうでもいい内容ばかりのその中でふと気を引いたのは、あまり朝の番組にはふさわしくない不穏なものだった。
 今朝方、ジョギングをしていた老人によって人間のバラバラ死体が発見されたのだという。
 しかも場所はここからそう遠くない河川敷だ。
「世の中、物騒になったのね」
 事務的に紙面に書かれた情報を読み上げていくアナウンサーに独り言で返しながら、今度は洗面所から数歩離れたクローゼットの前に立つ。
 スーツに着替えたところで、ケトルが甲高い音を発して沸騰したことを知らせてきた。
 まだ完全には睡魔を振り切れていない冴波は、自分が洗濯カゴに放りこんだパジャマに汚れが付着していることに気づけなかった。
 袖口に残る黒とも茶色ともつかない奇妙な飛沫の痕跡。
 ソレが何を意味するのかも気付かずに済んでいる。
 だから、これまでそうしてきたのと同じように、マグカップにコーンスープの素をあけて湯を注ぎ、冷蔵庫からロールパンを引っ張り出して2つ皿に置く。
 何故かひどく空腹だった。
「ん〜……ま、いっか」
 少し悩んで、ヨーグルトとオムレツ、簡単な野菜サラダを朝食のメニューに追加する。
 そして今日も、三雲冴波にとっては何事もなく平凡で平坦な一日が始まった――――



END