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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


a bout of flu

 林檎の中には宇宙が詰まっている、と言ったのは何処の詩人だったか。
 今日も元気にバイトの帰り……肉体労働の汗臭さなど微塵も覗かせないスーツ姿で、けれど場所的には些かな違和感の拭えない食品スーパーの青果コーナーで、藍原和馬は丁度目線の位置にある、箱入りマスクメロンとは視線を合わせないようにしながら紅い果実を吟味していた。
 紅玉、富士、津軽……一言に林檎といえども一種多様、菓子作りに適して酸味の強い物、北国に産した物は甘みが強く、高地で陽をふんだんに浴びた品は艶やかだ。
 それらを前に、和馬は腕組みをして深く深く思い悩む……夕食時の買い物で客層に主婦を多く見る時間帯であれば邪魔っけ以外の何者でもない。
 ご自宅用なら、五個入り三百九十八円のお得な袋詰めで迷わない所だが、見舞いの品なら値が張るほどに良く効きそうな気がする。
「風邪には何が効くんだっけ……」
出来ればそれ以上の関係と呼びたいような気がするのだが照れと躊躇が邪魔をしてその一歩を踏み出せない、現状維持に相棒である所の、藤井葛が風邪をひいて寝込んでいるというのだ。
 昼過ぎ、メールで簡潔に頼まれたのは市販薬の購入だったのだが、やはり見舞いの品も入り用かと吟味している次第である。
 一昔前なら林檎やバナナがご馳走だったものだが。それから白い桃の缶詰……どうしても食べ物に思考が向いてしまうのは、甘味がご馳走であると同時に薬でもあった、そんな時代を引きずっているからだろうか。
 昔は干し柿なんてのが高級品、貴族しか口に出来なかったものだが……としみじみとしながら、和馬は奮発して一番値の張る林檎とバナナ、パックの苺、それに白桃がまるごとひとつ入ったゼリーをカゴに放り込み、果実の重みを確かめるように一度持ち直すと、ついでに野菜とレトルト食品のコーナーを覗きに漸くその場から離れた。


 正直に言えば、葛が風邪などという事態は、和馬の想像の範疇の外だ。
 翠の瞳は強い眼差しを持ちながらも澄み、正直な気持ちを隠さずに浮かべる様は口程にモノを言う、というのも頷ける。手足は細くて華奢なくせに動きはしなやかで、力でというより流れから繰り出されるハリセンの打撃は特筆すべき威力を持ち、戦況を見極めるに長けるくせ、上級魔法をぶちかまし過ぎるきらいがある……と、後半はネットゲームのキャラであって、葛自身が隕石を召喚したりするワケではない。その、彼女が風邪。
 どう考えても、その状況が重ならない、というか常の彼女の上部に疾病を示すアイコンが点滅している様しか思い浮かばない。
「……わかんねぇな」
呟きをインターフォンに紛れさせ、和馬は葛のアパートの部屋の前で、扉が開かれるのを待つ……ガタガタと室内から僅かながら聞こえる音に不在ではないのは確かだが、いつもならば直ぐに開く扉が沈黙したままなのに微妙に不安を覚える。
 ようやく扉がほんの少しだけ隙間を作って、室内の暗さに黒々としているばかりの空間を繋げるのを見守ると、チェーンを外す乾いた音に、人一人、招じ入れられるだけ開かれる。
「……和馬か」
聞き慣れた声は低く掠れて何故か、甘いような響きで彼の名を呼んだ。
「お、おぅ」
それに何故だか、高鳴る鼓動に思わずどもる和馬だが、葛は意に介した風はなく戸口の框に体重を預けてふぅ、と気怠い息を吐く。
「すまなかった、あったか? 風邪薬」
「あぁ、状態変化は厄介だからな。俺は白魔法弱いし」
ガサリと小さな紙包みを取り出し、市販の風邪薬を手渡す……因みに彼等がプレイするネットゲームでは、病気や毒などは薬か魔法かでないと回復しない。
 物憂く薬を受け取った葛がその場から動かないのに、上がるつもりでいた和馬が訝しみつつその間を沈黙で待つ事しばし。「あぁ」と呟いた葛は小さく頷いた。
「風邪の菌が蔓延してるから、上がって貰うワケにはいかないだろう」
和馬の身体を慮った言に苦笑する。
「病気の時に変な遠慮してんなよ」
言って強引に扉の間に身を滑り込ませ、手に提げたビニール袋の中身を取り出す。
「風邪にいいかと思ってな、色々と買い込んで来たんだ。バナナに苺……桃のゼリーもあるぞ。粥もある。レトルトだから食おうと思ったら直ぐ食えるし日持ちするしな。ネギと卵、それから牛乳……食欲はあるか? なくても何か胃に入れた方がいいんだが」
上がり口に行商の如く並べられる品々に、葛は弱々しく首を横に振る……が、袋の底の方に入っていた赤に呟きを洩らした。
「……林檎……」
「お、お目が高い。いいヤツだぞコレは。剥いてやろうか?」
こくりと子供のように頷く葛に、和馬は笑みを浮かべ、向けた掌、指の先をちょいと動かして奥へと押しやる動きで葛を促す。
「そうと決まったら寝ろ。横になれ。風邪の特効薬は一に睡眠、二に栄養!」
看病の許しが出て俄然張り切る和馬に従って、葛はふらふらと素直に寝室へと足を向けた。


 一度大きく開かれた窓に籠もっていた空気が入れ替えられ、弱火にかけられた薬缶がシュンシュンと快い音と湯気を吹いている。
 感染するといけないから、と人化を禁じられた折鶴蘭の鉢も所定の位置で心なしか嬉しげに葉を揺らしていた。
「風邪の時は乾燥が敵だからな」
程よい湿度は体感温度も保持する。軽い咳に吸い込む息も、ひたすら布団に潜り込んでいただけの先までと違って楽で、葛は寝台の脇、デスクの椅子を引っ張ってきて座り込んで和馬の手元を見るともなしに見た。
 スーツの上着を脱ぎ、肘までシャツを捲って小麦の肌の色を見せた手には小さいだろう、果物ナイフを扱って、林檎の赤い皮がするすると紐のように長く、片胡座をかいた膝の上に乗せた皿に落ちる。
 甘く、清しい香りが部屋に満ち、葛は深く息を吸い込む。
「紅茶も喉にいいんだ。アップル・ティーを入れてやるからな」
皮まで余さず有効利用をするつもりで、皿の隅に寄せて置いた和馬は掌の上で林檎を八等分に分けて芯を切り取る……その手際の良さを感心の思いに見詰めていれば、黒の瞳が笑いを含んだ。
「いいお婿さんになれそうだろ?」
問われて素直に頷き、葛は身を起こした。
 子供の時から、熱を出した時は母が林檎を摺下ろして食べさせてくれたものだ……その冷たさと甘さが、熱を取り去ってくれるような快さは、久しく出した事のない熱に終ぞ忘れていた。
「ホラ。剥けたぞ」
差し出された皿に手を伸ばす……が熱に均衡感覚が麻痺したのか、手を伸ばしたそれだけの重心の動きに上体が揺れ、それを支えきれずに葛は倒れた。
 と、思ったのだが。
 その途中、力強い腕と、広い胸とが葛を抱き留めた。
 体温が気持ちいいなと、そのままぼんやりしがみついて、熱に浅い眠りととりとめのない夢を繰り返していた疲れにうとうとと、快い眠気に身を任せる事しばし。
「お、おい……」
困惑の声が頭上から振るのに、はっ、と葛は我に返った。
 顔を赤らめて困ったような、和馬の表情を至近に見て慌てて……けれど思い通りに動かぬ身体をどうにか引き剥がす。
「ご、ごめん……」
困らせてしまった事が居たたまれず、葛は穴、この場合は布団、の中にごそごそと潜り込んだ。
「体が……熱い……」
言い訳めいた呟きで熱に責任を押しつけて、和馬に背を向ける。
 事実、身体は熱いのだが、それ以上に顔が熱い。火照る頬の必要以上の赤を自覚して、葛は隠れるように身を縮こまらせた。
 その肩を、布団越しに手が叩く。
 一定の拍で、眠りを促すような手の、重みは優しいぬくもりで安堵を誘う。
「ついててやるから」
甘えを許す声に、葛はごそ、と布団の中で向きを変えると、脇から手を差しだした。
「手……」
ん? と疑問を示す鼻音に強請る。
「手、握ってて……」
幼子がぬくもりを求めるように、請うたそれを微かな笑いで握り締めてくれる手を、葛は両手で包み込んで目を閉じた。
 力強く確かなぬくもりに、守られた眠りに沈む為に。