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音の迷い子
儚さも醜さも知っている。
醜いからこそそれは儚く、その儚さのひと時だけ美しい。
指先でただ爪弾けば、妙なる音色を奏でるその器。強く爪弾けば指を傷つけ、しかし代わりに妙なる音色を響かせる。何もしなければただの糸を張った木の塊。あるだけの無骨で醜い塊。
――同じだと。
そう思っていた。
人もまた同じだ。あるだけではただの醜い肉の塊。ただ散る瞬間のみが美しいと。
こんな醜いものは壊しても構わない。壊すことでそれがひと時美しくなるのならそれで構わない。いらない醜いものを美しく散らせることの何が悪いのか分からない。
酷薄に笑みながらいつもそう思っていた。
いっそ感謝されてもいいのだと。そう、思っていた。
何故そこまで人を憎むのかそう問われるたびそう答えた。
憎んでなどいない。ただ醜いから。不要だからそうするのだと答えた。
それが存在そのものを深く憎んでいると言うことなのだと更に答えたのは――その後己がその灯火を消した、消してしまったあの僧侶だけだったかもしれない。
醜くなど見えなかった。見えなくなっていたその灯火を。
張り詰めた音色が夜風に乗って流れる。ぴいんと張ったその音色はあまり世間に満ちない。それは世相と言うものだろう、時と共にそうした音色の主流も変わっていく。
冷たい鉄筋コンクリートのビルが立ち並び、地にはアスファルトの蓋がされ、着物は洋装に変わった今、この音色は夜のしじまを支配するものでは無くなってしまった。
それさえも最早今更のことだろう。指先でその弦を爪弾いていた時代さえ最早遠い。指の痛みと引き換えに奏でられていたその音色は無粋な人口の爪から引き出されるもっと高いもっと澄んだものへと取って代わられた。指の痛みと傷が生み出したあの繊細な音色はもう遠かった。今尚こんな爪弾きを繰り返しているのはもしかしたら自分だけなのかもしれない。
それを雅と呼ぶ生き物を、嘲笑したい気持ちは今も尚ある。
それを醜いともやはり思っている。
けれど、
「あの方の魂魄の行方を存じませんか?」
どれだけ時が流れようとその音色の力は変わらない。陽の支配から解き放たれた闇でそれを爪弾けば、死者の霊が音色につられて集う。
集まってくるその醜いものの成れの果てに問う。その問いかけをすることに、矜持は痛まなかった。
どうしようもないほどに知ってしまったから。
人は醜いと思っていた、醜いものなど要らぬと思っていた。
人だけが醜いと、そう、思っていた。
――けれど思い知った。
「わたくしも同じ――醜い生き物なのだもの」
それは人だけではないと。そう。
思い知ったその時それに支払った代償。
『人間を本当の意味で愛する事ができるまで』
仮の宿りの醜い姿に留められた。そして己を憎み蔑むその醜い仮の宿に留めた、何より憎むべき相手を自分は殺めたのだ。既にそれに留まらなくなっていた相手を。
本当の意味で、人間を、愛した。
人間であったというだけのこと、敵であったというだけのことだったかもしれない。ただそれは蔑み憎み己を害した相手だった。
だからこそ認められなかった。そして殺めた。
醜い己が己を認めれぬままに最愛のそのものを。
問いかけに答えはいつも無い。無いからこそそれが胸を抉る。
安らかに、どうか安らかに。
咎は全て私にある、彼の最愛の存在にはなんの咎も無い。
「――どうか、安らかに――」
700を疾うに過ぎるほどを過ごしたその生き物――翡翠・皐月 (ひすい・さつき)はそっとそう呟いた。
はじめは夢かと思った。
それほどにその音色は現実離れして聞こえた。丸みと柔らかさを称えた幼い少年は自分の耳を疑いながらもその音色に引かれて庭に降り立った。
普段日の光の中で見る庭とはその場所はまるで違う場所のようだった。
冴え冴えと地上を見下ろす月の光はそれでも帳を下ろした夜の帝王に打ち勝つには弱く、闇と白い光とが覇権の争ってそこには混在している。まるで男と女のようだが、幼い少年――天音・神(あまね・じん)にはその比喩も感覚もまだ分からなかった。ただそのなんともいえない艶かしい光景に微かな恐れを感じた。
だがその恐れよりも、響いてくる音に心が引かれた。
弦楽器の音であろう事は神にも分かったが、それがどんな楽器のものであるのかは分からなかった。
絶え間なく響くその音が幼い足を一歩、また一歩と進ませる。一歩ごとにそれは早くなり、神の幼い足が庭の奥へと入り込むのに然程の時間はかからなかった。
綺麗だと、思った。
こんな綺麗な音は聞いたことが無かった。
幼い語彙ではそれを綺麗としか表現することが出来なかった。綺麗なのに、こんなに綺麗なのに聞くことが出来て嬉しいとも思っているのに。
どうしてこんなにも胸が苦しいのか、分からなかった。
そして音の主と、少年は艶かしい夜の庭で出会う。
700の時を閲した狐と、涙を流す幼い少年は。
「泣いてらっしゃるの?」
狐は涙を流す少年に問いかける。
言われて初めて気付いたというように、神は己の頬を濡らす涙を拭った。そうすることが出来たのも問いかける時に皐月が爪弾きを止めたからだ。音色が途絶えなければ、神は未だ涙をこぼしながらもその音色を聞く以外のことは出来なかっただろう。
そして泣いているというその問いかけが、神に己が理解することの出来なかった『綺麗』の本質を教えた。
「……どうして、そんなに悲しい音が出るんですか?」
少年がまろやかな高い声でそう問いかける。皐月は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが直ぐに笑顔に戻った。
「さあ? どうしてかしら」
幼い少年の感動を可愛らしく感じながらも、皐月は勿論その心情を吐露するようなことはしなかった。それきり少年に言葉を与えることなく、弦を爪弾く。
艶かしい庭に切ない音がまた満ちる。
再び溢れそうになる涙を必死で堪え、神はその光景を見つめた。奏でられる音色ごと見つめた。
その音色に包まれる。綺麗だと、もう不思議も何もなくそう思えた。
「……俺も、ピアノを弾くんです」
ポツリと、そう漏らした。
積を切ったように、言葉が後から後からあふれ出る。
こんな風に自分もまた音を操りたい。けれど操れない。ただの綺麗な音ではなく、吐露するような泣くような、或いは微笑むような幸福なような――何かを表す音がどうしても出ないと。
皐月はふと手を止め、幼い真剣な楽師の顔を覗き込んだ。
この幼さも真摯さも、決して醜くは見えない。それはこの胸の苦しみと悲しみが自分に与えてくれた一つの心だ。
「ただ爪弾くのではそれはただの音でしかないんですよ。誰かの事を強く想って弾けばその気持ちが音になるんです」
「誰かを……?」
頷きだけを返し、皐月は再び弦を爪弾いた。
――誰かを、今はこの哀れな音の迷い子を思って、ただ優しく包むように。
神は黙ってその音色を聞いていた。先ほどまでとは違う綺麗で優しい音色を。
その女が何を言ったのか、その意味は分からない。分からないがこの音色は自分を慰めている。それは分かった。
――これが伝わると言うことなのだろうか?
音の邪魔をしないように、小さな声で神は呟いた。
「また、ここに来てもいいですか?」
音は止まない。そして爪弾きを止めないまま皐月は言った。
「自分の音を見つけたら、またいらっしゃい」
と。
艶かしい月夜の、清かで厳かなそれは誓いだったかもしれない。
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