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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


桜舞う日の幻想曲


 春は桜。花弁の淡い桃色が薄青の天を染め抜いている。
 幾つかの木は既に終盤に差し掛かり、はらりはらりとその花を落としている。
「桜ももう終わりかな……」
 手の平を上へ向けて、天音神は花弁を受け止めた。
 残念な気もする。けれど、桜は散らなければ桜じゃない。
 短い命だからこそ、日本人はこの花を愛するのだろう。散ることで完成する美も存在するのだ――、そんな風に思い、神は自分の中にも確実に日本の血が流れていることを実感する。
 桜は、散りながら歌を歌っているようだ。舞い落ちる花弁の一枚一枚が合唱し、神に優しい音色を聴かせてくれる。花の終わりはこれほどまでに儚いのに、その歌声の何と美しいことか……。神は、目を閉じてしばしその合唱の中に佇んだ。
 やっぱり桜は――皐月さんに良く似合うよな。と、瞼の裏に大切な人の姿を思いかべる。
 皐月さんはあまり琴を聴かせてくれないけれど、彼女が演奏を始めたら、街中の桜が大合唱を始めてしまうに違いない。例年よりも長く咲いていたら、きっと皐月さんのせいだ。
 ――早く彼女に会いにいこう。

 さくら、さくら、弥生の空は、
 見渡す限り、霞か雲か、匂いぞいずる……

 短調のメロディが美しい『さくらさくら』を上機嫌に口ずさみながら、神は彼女の家を目指す。
 両脇に並んだ桜の木がアーチを形作り、その下を緩やかな坂道が下る。坂を下りて数ブロック歩き、いつも眠たげな角の家の雑種権に挨拶。時々何もない場所で躓きそうになるが、これはいつものことなので気にしない。――さて、皐月さんは何をしているかな?
 茶菓子の包みを持ち直すと、神は翡翠皐月の屋敷の門を潜った。小路を抜けて庭のほうへ出る。皐月の姿は、探すまでもなくすぐに見つかった。
 風に揺れる艶やかな黒髪。背景の桜に溶け込んでしまいそうな薄紅色の着物。日本庭園に面した縁側に腰を降ろし、桜が散る音を聴こうとでもするように瞼を閉じている。
邪魔をしても悪いので、そろそろと足音を忍ばせて彼女の前まで歩いていった。
 と、目の前までやって来たところで、皐月はぱちりと目を開けた。神は驚いて跳ね上がった。
「神さんの不法侵入も大分板についてきましたわね」
 気配を感じ取れなくてよ? とのっけから顔に似合わず物騒な単語を口にする。
「不法侵入って……、まぁ、そうなんですけど。びっくりした、気づいているとは思いませんでした……」
「この場合驚くのはわたくしのほうではなくて?」
「一度でいいから、皐月さんをあっと驚かせてみたいですよ、本当に……」まったく、一筋縄じゃいかないんだからな、この人は。と内心で小さく溜息をついた。「順序が逆ですけど、こんにちは」
「こんにちは、神さん。良いお天気ですわね。思わずそんな月並みな挨拶をしてしまいたくなるほどに」
「本当に」
 神はにこりと微笑んだ。
 月並みで、平和で、欠伸が出るほど穏やかな日和だ。大好きな彼女と時間を共有するのに、これほどうってつけの日もない。
「今日は忘れずにお土産を持ってきましたよ、皐月さん」
 神は和菓子が入った包みを目の高さに持ち上げて見せた。
「よろしい」皐月はわざとらしく言ってみせてから、ちょっと悪戯っぽく微笑んだ。「それではお茶をいただくことにしましょう。少しお待ちになっていてね」
 神の手から手土産を受け取り、皐月は席を立つ。代わりに神が縁側へ腰を降ろした。
 先ほどの皐月のように、目を閉じて、方々から運ばれてくる甘い花の香をしばし楽しむ。桜のみならず、ありとあらゆる春の花が生き生きと歌っているようだ。
「本当に良い天気だな――」伸びをし、何気なく縁側を見渡すと。「……あれ?」
 何か見慣れないものが目についた。いや、神にとっては親しみ深いものだが、皐月の家にはあるはずのない――、ヴァイオリン? なぜ西洋の楽器が彼女の家に置いてあるのだろう。
 楽器をケースごと持ってくると、神はぱかっと蓋を開けた。一見してそれとわかる、おそらくは通販で購入したであろう入門用の安い楽器が収まっていた。なんとなく、表面の光沢がチープだ。
「皐月さん、どうしたんですか? ヴァイオリンなんて」
 ちょうど、お茶と落雁がちょこんと載った盆を手に、皐月が戻ってきた。
「おかしいかしら?」
「おかしくはないですけど、皐月さんがヴァイオリンを弾いている姿っていうのも……、うん、なかなか新鮮だ。弾けるんですか?」
「同じ弦楽器ですもの。少し西洋のものに興味を持っただけ」
 気紛れよ、といつものやわらかい笑顔で皐月は答える。
「へぇ……、皐月さんがヴァイオリンか。もう弾いてみたんですか?」
「ええ、少し」
「今年の桜は長持ちしそうだな……」
「なぁに?」
「いえ、こっちの話」
 神は盆から湯飲みを取り上げる。小さな皿には行儀良く落雁が並んでおり、花の形をしていた。
 皐月は湯飲みの代わりに、ケースの中から楽器を取り上げる。構えるでもなく楽器の表面を撫でている皐月を横目でちらりと見、
 ……もしかしなくても、俺のヴァイオリンを気に入ってくれたのかな、とそんな風に考える。
 ちょっと前に、縁側で眠りこけていた皐月にヴァイオリンの演奏を聴かせてやったのだ。このタイミングからして、神の演奏に感化されたのは間違いないだろう。そう考えると顔が綻ぶのを禁じ得ない。自惚れだろうか? 自惚れでもいいや。
 なんだか妙に嬉しくなってきた。桜と一緒に歌い出してしまいそうだ。お茶がいつもより美味しい。落雁の甘さが幸せな気分にさせてくれる。なんだって、彼女の何気ない行動の一つ一つで、俺の気分はここまで高揚してしまうんだろう? 風が吹いて花びらが舞い上がる。俺も一緒に舞い上がれそうだ。天まで。
「何をにやにやしているのかしら?」
 皐月は胡乱げな視線を向けてくる。
 神は自分の緑茶を飲み干すと、
「ピアノ、弾きたい気分なんです。付き合って下さい」
 立ち上がって、皐月を促した。
「え? ピアノって……」
 皐月がお茶を飲み終わるのを待って、彼女の着物の腕を取り、引いた。穏やかな性格の神にしては珍しいくらいの強引さだ。
「ちょっと、神さん?」
 案の定、皐月は戸惑っている。
「ほら、良い天気なんですから外に出ないと勿体無いでしょう?」
「神さんのご自宅まで行く気? 少し歩くのではなくて?」
「この近くでピアノがあるところは……そうだな」思案する。そうだ、この時間帯なら……。「うん、あそこなら歩きで二十分もかからない」
「あそこって?」
「まぁ、良いから。黙ってついてきて下さい」
「何が、まぁ良いから、ですか――」
 皐月は唇をすぼめて腹立たしそうに言う。縁側でのんびり日向ぼっこでもしているつもりだったのだろう。構わない。彼女もたまには散歩でもするべきなんだ。
 皐月の家を後にし、肩を並べて、桜の花弁が敷き詰められた石畳を歩いていく。途中で皐月の腕を握ったままであることに気づき、慌てて神は手を離した。まるで中学生同士のカップルみたいだな、なんて考えて、一人で赤面する。斜め後ろを歩く皐月には見えないだろう。彼女はどんな顔をしているのだろう? 結局一度も振り返れないまま、言葉少なに目的地へ辿り着いた。
 目的地――公立中学校の裏門に。
「ピアノがあるところって……」
 皐月は呆れたように溜息をついた。
「あらかた生徒は下校し終わった頃だと思います。音楽室に侵入しちゃいましょう、皐月さん」
「あのね、神さん? 侵入という言葉の意味をおわかりかしら?」
「まあ、まあ」
「まったく……仕方がありませんわね、神さんも」
 溜息をつきつつも、皐月は神の後へ従った。
 渡り廊下の横から靴を脱いで上がり込み、リノリウムの床をぺたぺたと歩いて三階の音楽室へ向かう。実は過去にも何度か上がり込んだことがあるので、場所はしっかり把握していた。
「今日は合唱部も練習していないみたいですね。それではお邪魔します、っと」一応周囲に人がいないか確認してから、扉を開けて中へ入った。「スタインウェイとはいきませんけど、なかなか良い音がするんですよ、このピアノ」
「……今までにも何回か『侵入』したことがおありなのね、神さん」
「……ええと、何か聞きたい曲はありますか?」
 咎めるような視線は軽く受け流し、彼女の機嫌を伺うように、神は訊ねてみた。皐月はこれ見よがしに一つ溜息をつく。
「……さくらさくら」
 皐月は、ぽつり、とリクエストを口にした。
「さくらさくら、ですね」
 神はにっこり微笑むと、椅子を引いて腰を降ろした。あまり音が響いても困るので、蓋は持ち上げないでおく。
「そうだ、『幻想曲』を弾きましょうか?」
「幻想曲?」
「はい。『さくらさくら』の編曲です」
 神は鍵盤に両手を添える。
 右手はDのオクターヴから。短いイントロダクションが終わり、短調のメロディが優しく奏でられる――
 皐月は視線を落として、神が弾くピアノの音色を聴いている。
 視界の隅に彼女の姿を捉えながら、演奏をつづける。穏やかな導入部が展開し、原曲からは想像のつかないような早いテンポに。
 皐月さんは――、
 俺の音を、受け入れてくれるだろうか?
 いつでも、どんなときでも、彼女の心まで届いてほしいと願ったこの音を、
 彼女は聴いてくれている?

 さくら さくら
 弥生の空は 見渡すかぎり
 霞か雲か 匂いぞ出ずる
 いざや いざや 見にゆかん

 いざや、見にゆかん。
 花が散る前に。できることなら貴方と一緒に。
 皐月は傍らで、やや俯いて、じっと演奏を聴いている。伏せた睫毛の下には金色の瞳が覗く。
 三分弱の曲が終わった。余韻が空気に溶けていくのを待ってから、神はペダルから足を離した。
「……だから人の音を聴くのは嫌なのよ」
 皐月は小さな声で言って、ほんの少し、表情を崩す。彼女の心情は読み取れなかったが、心持ち口元がやわらいでいるようだった。
「あの……、駄目でしたか? 俺の演奏」
 神は途端に自信なさげな顔になる。
 弾いているときはあれほど気持ちが良かったのに――音を通して彼女との一体感を覚えていたほどだったのに――いざ演奏が終わってみれば、不安が頭をもたげてくるのだ。
 皐月はちょん、と神の額を人差し指で突付くと、
「もっと勉強してらっしゃい」
 一言言い置いて、踵を返した。
 もちろん、彼女がどんな表情を浮かべていたか、神が知る由はない。神の音楽がほんの少しではあるけれども、確実に彼女の心に届いているということさえも。
「え――」神は慌てて立ち上がる。「あ、皐月さ――俺の演奏――ちょっと待って下さいってば!」
 さっさと音楽室を出ていってしまった皐月の後を、神は必死の体で追いかける。
 彼女の足取りときたら、まるでこれから桜でも見にいくような具合で――。



fin.