|
誰がために降り
乙女に託された一つの箱。守り通すには脆弱なその腕はあっけなく箱の中身を開放してしまった。降り積もる災厄の中、乙女は再び箱を閉じる。たった一つ、最後に残った希望を閉じ込めたまま。
――だからってこの世に希望がないと思うか?――
いくらだってあるさ。希望も……絶望も。
結局、人間の思いなどは留まる事を知らないのだから。
酒以外は飲み物ではない。それは少なくとも狩野宴にとっては真実だった。だからどこに行っても、たとえ雨宿りの為に立ち寄ったカフェでも頼むものは酒類と決まっていた。
ウェイターの持ってきた、この店唯一の種類である赤ワインのグラスを傾け、その芳醇な香りを楽しむ。意外に悪くない。カフェテラスにあるようなワインにさして期待していなかったのに。ここのマスターは酒にうるさい人間なのだろうか。
突然の雨は不運だったが、ある意味幸運だったのかもしれない。
そのおかげで可愛い女の子とお茶――宴の場合は旨い酒――が飲める訳だしと、宴は目の前でホットココアを飲むあやかし荘の管理人、因幡恵美をグラス越しに見て、そう思った。
「雨、止みそうにないですね」
ココアのカップを置いて、恵美は残念そうに窓の外を見た。雨は小降りながらも止む気配を見せない。灰色の雲に覆われた空に、風景は一気に暗くなっていく。
そうだね、と同意しながら窓の外に目をやった宴は、いつの間にか恵美の視線が自分に注がれているのに気付いた。振り向くと、恵美は慌てて視線をココアに移す。
「どうしたんだい?」
心理学博士・催眠学研究家の肩書きを持つ宴は人当たりのいい爽やかな笑顔で恵美をそっと促した。
「あの……」
恵美は意を決したように顔を上げた。気のせいか、その頬が僅かに赤く染まっている。
「もしかして……眼帯、逆じゃないですか?」
そういえば、ずっと恵美は左側に見えている。
「ハハハ、またやってしまったようだね」
己の両目に宿る能力を覚えられない為に眼帯をつけているのだが、どちらに眼帯をつけるのかを忘れてしまう。
「また、ですか?」
「よく間違うんだよ」
宴はそう言いながら金の髪をかきあげ眼帯を付け直す。
「前の時と違うからもしかしてって思ったんですけど……」
眼帯を付け直した宴を見て、恵美は安心したように微笑んだ。
本人がそれと気付かぬうちに宴の催眠攻撃に晒されていたので、緊張したのだろう。
「そんな些細なことまで覚えていていただけたとは光栄だね」
「些細、ですか?」
「現に私は忘れてしまうよ」
そう言ってグラスを掲げれば手首の催眠用のネックレスがその白い肌に添うようにすべり落ちる。
宴の言葉に恵美は少し困ったように微笑んだ。
「そういうの忘れちゃうの狩野さんぐらいですよ」
「そうかもね、おかげで今日の予定も覚えていない」
「えっ!狩野さんこれから何かあるんですか?」
「うん、確か約束はしてたんだよ。でも、どこでだったかな」
「電話した方がいいんじゃないですか?相手の方、携帯持ってるんですよね?」
のんびりとした宴とは対照的に、恵美は立ち上がって店内を見回す。今時にしては珍しく、入り口の脇に公衆電話がある。
「だけど誰に電話していいか……」
「忘れちゃった、んですか……?」
おずおず、と言った風に問いかける恵美に宴は笑顔を見せた。
「だーいじょうぶ、そのうち相手から電話してくるから」
「えー、大丈夫なのかな?」
そう不安げに呟くが、恵美にはどうしようもない。当の宴が気にしていないのだからと、恵美も諦めて椅子に座った。
「狩野さん、そんなに忘れるといろいろ困っちゃいませんか?」
さすがに驚いたのだろう。恵美はそう言って可愛らしく首をかしげた。
「大丈夫だよ」
安心させる為と言うより純粋に恵美の可愛らしさに、宴は頷いた。
「大抵の事は何とかなるし、それに……自分にとって本当に大切な事は忘れないものだよ。だから、それだけ覚えていれば私の人生抜かりなし、オールOKというわけだよ」
ハハハと笑いながら宴はワインを煽った。
「狩野さんの大切な事、聞いてもいいですか?」
「構わないよ」
減るもんじゃなしにと、宴は恵美の申し出を軽く受ける。
「私の大切な事はやっぱり美味しいお酒と可愛い女の子かな……愛は必要だよ」
「つまりー……『愛』って事ですか?」
女の子、の下りは聞き流す事にしたのだろう。恵美はその年代の少女らしく、『愛』という言葉を柔らかく口にした。
「もちろん、それだけに偏るわけではないけどね……」
グラスの縁を細く長い指でなぞりながら、宴はそう言って怪しげな笑みを浮かべた。
「あとは……パンドラかな」
ぽつりと、何気ない風に呟いた言葉に恵美は目を丸くした。
「パンドラ?……パンドラ、ってあの?」
「そう、あのパンドラ」
同じ物語が頭を掠めているであろうと、宴は簡単に恵美の記憶を補足した。
この世界に災いをもたらした人類最初の女。彼女が神々から贈られた物――。
自他共に認める古代フリークで古代品コレクターである宴は、種別宗教文明を問わない。悪食、と呼ぶものも居るが。そのきっかけが何だったのか、もはや自力で思い出すのは不可能だ。それは遠い記憶の彼方に行ってしまった。
けれど、ただ一つ求めて止まない『パンドラの箱』だけは誰にも譲れない。
「本当にあるんですか?その、パンドラの箱って」
「どうかな」
確かなことは誰にも言えない。
「でも、どうして狩野さんはパンドラを?」
あるかどうかもわからない不確かな物を?と、恵美は問う。
「古い友人との約束でね……どうしても見つけなければならないんだよ」
その答えが意外だったのか、恵美は「えっ」と言葉を呑む。
「意外かな?」
「ちょっとだけ……でも、その方は狩野さんの大切な人なんですね」
「……そうかもね」
フフ、と笑って宴はグラスに視線を移した。
友人とパンドラへの思いは、宴の胸に突き刺さっている。忘れることの無いそれはまるで楔だ。
だが、決して不快ではない。
「あっ!狩野さん、雪ですよ!」
恵美は小さな声で歓声を上げ、窓を指差した。
導かれるように視線を送れば、冷たい雨はいつの間にか霙交じりの雪に変わっている。
「積もるかなぁ」
喜んで、と言うよりは、おおかた明日の庭掃除の心配でもしているのだろう。恵美は不安気に呟く。潔癖気味の少女に、宴は目を細めた。
見る者が喜ぼうが悲しもうが、躊躇いなく雪は静かに降り続ける。
それは誰の為でもない。
ただ、降り積もる理由があるだけ。
それこそが必然。
遠い過去を懐かしむように、宴はそっと目を閉じた。
終わり
|
|
|