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<東京怪談ノベル(シングル)>


風のまち


『風とくつろぎの3日間 おひとりさまから  秘境・諏訪峡の旅』

「諏訪峡? どこよ、それは。――はあ、群馬……」
 旅行案内の二つ折りパンフレットを覗きこみながら、独り言を呟いたとしても、東京の雑踏はとまらないのだ。それを自由ととるか無機質ととるかは個人による。いまの三雲冴波にとり、その心遣いは、少しありがたいものだった。このパンレットを前にしてしまったら、独り言を呟きたくもなってしまうから。
「群馬ね……そんなに遠くないか……あ、でも電車乗り継ぎか……」
 一度はラックに戻そうとしたそのパンフレットを、冴波は結局、バッグの中に入れた。
 彼女は、群馬県にさほどの思い出と思い入れがあるわけでもない。温泉旅行の趣味もなかった。パンフレットに載っている地には、行ったこともなければ、テレビや雑誌で見かけたこともないのだ。だからこそ、秘境と銘打っているのかもしれない。たとえ地元の人間にとっては有名どころなのであっても。
 ――……。
 奇妙な衝動だった。
 行ったことも聞いたこともない地の写真に、冴波はどうしようもなく惹かれてしまっている。胸の辺りで、何かが首をもたげ、緑につつまれた山稜の光景に、狂喜しているような感覚があった。ここに吹いているのは地下鉄のホームを駆け抜ける生温かい風だというのに、冴波は、緑と水の風を感じている。
 ――風を見たいのよ。
 風を渇望する心は、冴波のものとはまったく異質なもののようだ。
 まるで、風を好む何かが、自分の中に巣食っているかのようだ……。

 パンフレットを持ち帰った翌日、冴波はチケットの予約をして、それから有給を取った。「もう予定入ってますから」「もう半年有給使ってませんから」と、渋る上司を説き伏せて、彼女は東京から旅立った。
 何をするにも、あの上司は渋るのだ。半年以上ぶりに、3日間以上、あの上司に会わずにすむ。やたらと声が大きい向かいのデスクの先輩に注意されることもない。定年間際のあの社員に、下ネタを披露されることもない――
 ――ああ、私、ストレス溜まってたんだなぁ。
 ぼんやりと考えながら見つめる車窓の向こうの風景は、徐々にさびしくなっていく。灰のビル街の背はどんどん低くなっていって、まばらになり、ついにはなくなってしまった。
 今は、緑の光景が続いているばかりだ。
 列車はどこかのんびりと進む。
 車窓の向こうの畑は、青々としている。何が栽培されているのか、都会人の冴波にはわからない。だが、一面の緑が、風に撫でられて色を変えるさまを見て、彼女は知らず微笑んでいた。
 ――群馬には、天狗がいるんだってね……。
 そこにはいい風があるのだろうと、どうしてその考えに至ったのかわからないまま、冴波は車窓からの風景を楽しんでいた。


 パンフレットで大々的に取り上げられていた宿は、最近改築したばかりの老舗であるらしかった。初めて行く地で、どの宿泊施設に泊まるのが吉かなど、冴波にわかるはずもない。自由に出来る金はそこそこあったし、彼女は迷うことなく、その老舗旅館の部屋をとった。
 水上峡と諏訪峡の中間地点にある宿で、ローカル線を乗り継ぎ、冴波が女将に迎えられたのは、午後も3時をまわってからだった。
 老舗というわりには、さほど流行っているふうでもない。冴波の他に、ほとんど宿泊客はないようだった。ホテルのように、ロビーにかすかな音楽があるわけでもない――静かな空気の中で、鳥のさえずりがある。
「少し登れば水上峡、下れば諏訪峡になります。ご案内致しましょうか」
「いえ、今日はもういいです。明日、丸一日ありますし」
「そうですか。では今日のところは、ご移動の疲れを取ってくださいね」
 それなりに歳をとってはいるが、生き生きとした笑顔の女将だった。自分の笑顔はどうだろうか、と冴波はぼんやり考えた。案内された部屋は、ひとりが泊まるには広すぎるほどだった。

 ――不思議なところね……。
 相変わらず、胸の奥がうずうずする。
 何かが風を感じて喜んでいる。
 温泉めぐりをして各湯を批評する趣味もないので、この宿の温泉につかった冴波は、ただただ満足するだけだった。露天風呂からは夕焼けが見えた――山が焼けているようだ。秋になれば、きっともっと激しく燃えるのだろう。紅葉が風に揺れるさまを想像すると、またしても、胸がうずいた。涙が出そうになるほどに。
 ――だめだ、風景見て泣くなんて、笑い話にもならない。
 彼女は、火照った体を風が撫でていくのを感じながら、いそいそと露天風呂を出た。夕焼けが藍に変わる頃、日常よりもずいぶんと早い夕食が、冴波の部屋に運ばれてきた。どうやら彼女は、かなり「高いプラン」を申し込んでいたらしい。当の本人が驚くほど、豪勢な食事が運びこまれてきた。おからの突き出しに、山菜おこわ。地元の和牛のステーキは石焼きで。メインで出された山菜と川魚の天ぷらは、冴波がこれまでに食べたどの天ぷらよりも美味しかった。デザートは何故か焼きプリン。山の中の料理にしては、妙にカロリーが高そうな取り合わせだったが、冴波はすっかり最近ダイエットを始めよう決意したことを忘れてしまった。
 ――来てよかった。何だかわからないけど、自分の勘に感謝するわ。
 しかし、果たして、自分は自分の意思でここにやってきたのだろうか?
 風を求めているのではなかったか? わけもわからないほどに。
 ぺろりと料理を平らげて、食器は手際よく片付けられていった。
 あとには、広い部屋に、冴波独りだけが残された。夜はすでに始まっている。仲居が布団を敷いていってくれた気がする――冴波の記憶は、曖昧なものになっていく。
 とけていく。
 風の中に、蜘蛛の糸のように。
 蜻蛉の薄羽のように。
 蝶と蛾の鱗粉の如く。
 或いは、小さな蟲の息吹のように。


 夜の山の風は強く、彼女を翻弄する。
 彼女は、パンフレットの写真にあった秘境の風景を、上空から眺めた。過去にいちどだけ、バンジージャンプが行われたという、錆びた橋を彼女はくぐる。虫たちの鳴き声が、彼女を迎えた。
 彼女は、風をまとっているのだ。セロファンの翼を持った少年のように飛んでいるではないか。
 彼女の胸の奥から、奇妙な、鈴を転がすような、小さな鳴き声が響く。鳴き声は風にたちまちとけて、ごおうっ、という唸りに変わった。
 わたしは、これをもとめていた、
 彼女の奥の意志が歓喜する。
 わたしは、このかぜをまっていた、
 清清しい空気を吸い込んで、彼女はふたつの渓谷を行き来した。
 だからわたしは、まっているのだ。
 風は――何も語らないし、何も歌わない。ただ、虫たちと包みこんでいる。今宵は、三雲冴波をも、山の風は優しく荒々しく包んで、彼女に付き合うのだ。
 月に自分の顔がうつっているのを見た。


 は、と彼女は目を覚ます。


 冴波は、都会では聞いたこともない野鳥のさえずりに呼び起こされた。彼女は、座卓に伏して眠ってしまっていたのだ。しかし、髪は何度も寝返りをうったか、或いはテーマパークのアトラクションを満喫したあとのように、ひどく乱れていた。運動をしたあとのような倦怠感もある。
「ああ……こんなところで寝ちゃったんだ……」
 冴波は鼻声で呟くと、目をこすりながら、白々と明るくなっていく山の朝を見た。それから、時計を見た。まだ午前5時になったばかりだ。
 今日も明日も、休みなのだ。もっと眠ったところで、誰にも叱られることはない。それが休みというものだ。冴波は寝ぼけまなこで、布団の中に潜りこんだ。布団の中は、ひんやりとしていた。
 彼女の髪に挟まっていた紅葉の葉が、座卓のうえに取り残されていた。


 そして彼女は、その日丸一日巡る山の風景に、ことごとくデジャ=ヴュを抱くのだった。




<了>