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<東京怪談ノベル(シングル)>


『破滅に至る病 〜“名前”〜 』

 女は、海中でもがきながら、神に祈っていた。
『もし、生き延びることができたら。
 本当のことを告白します。誓います。だから、助けて・・・』
 船であの男に出会ったのは、早く罪を償ってしまえと言うことだったのかもしれない。だが、女は幸福を逃したくなくて、揺れていたのだ。
 助かったら、すべてを言おう、夫にも警察にも。
『神様、お願いです・・・』
 やっと幸せになれるところだった。沖縄に新婚旅行に来て、フェリーの事故だった。非常口から救命ボートのある脱出口へと急ぎながら、自衛隊に対するテロだとかいう噂を耳にした。
 その事故は、女にボートに移る時間も与えなかった。爆音と閃光で女は気を失っていた。

 神に祈ることができるほど、女の手は綺麗では無いかもしれない。新婚の夫は、10年前に死んだルームメイトの名で、女を呼んでいた。
 女は、戸籍を盗んだのだ。

 両親が殺人者という重荷。噂かまびすしい日本は、女にとって住みやすい国では無かった。小さい時に、死刑囚となった両親を亡くし、働きながら勉強し、女は米国へ住処を求めた。そこでも働きながら学んだが、日本のような苛めも偏見も無く、手足を伸び伸びと広げて空気を吸うことができた。日本では、バイトを見つけるのも大変だったし、アパートを借りるのにも苦労したと言うのに。
 その時、やはり日本人のあの『彼女』と友だちになった。日本にいた頃殆ど友だちもいなかった女だが、彼女がやはり孤児で、親戚などの身寄りが無く、働きながら学ぶ境遇が似ていて共感したせいかもしれない。それとも、外国で心細くて、同国の人間が懐かしかったのかもしれない。
 実際、二人はよく似ていた。背格好も同じくらい。ふっくらと柔らかい顔だち、切れ長のアーモンドの瞳、尖った耳。姉妹とよく間違えられた。欧米人が、東洋人を見分けるのが苦手というのは、本当のようだ。
 裕福では無い二人は、一緒の下宿で暮らし始めた。少ない洋服を取り替えて着て、ワードローブを倍にする工夫もしたし、お化粧をし合ったり、お互いの髪を結い合ったりもした。時々、彼女の都合が悪い時に、バイトを代わってやったりもした。深夜のファースト・フード店のバイトだった。お仕着せのユニフォームは、紅白のサンバイザーを被る。少し深めに被れば、挨拶程度しかしない他のバイトに見破られることもなかった。
 その夜も彼女とバイトを代わり、明け方に帰路についた。焦げ臭いにおいと野次馬のざわめきにあわてて角を曲がると・・・下宿の建物が全焼していた。彼女も、大家も、他の住人も全員亡くなった。

 FDNY(消防士)やNYPD(警察官)が、女を『彼女の名』で呼ぶことに、数時間気づかなかった。頭が真っ白になっていて、何も考えていなかったのだ。だが、正気に戻って、自分が『彼女』だと思われていること・・・そして、女さえうまく立ち回れば、否定される証拠が何も無いことに思い当たる。
『彼女』は、罪人でない両親の戸籍を持つ。しかも、女は、結局は学費が続かず学び続けることはできなかったが、『彼女』は、既に日本で大卒資格を持っていた。
 このまま『彼女』に成り済まし、日本に帰国して『彼女』として暮らす。その考えに、女は膝が震えた。心臓が早鐘のように鳴り、気管が詰まって息ができなかった。

 息が苦しかった。喉に鼻に容赦無く塩水が入り込む。咳き込めば更に多くの海水が口に押し寄せた。
 煙が立ち込める中、彼女もこんな息苦しさの中で死んで行ったのだろうか・・・。
 
 意識を取り戻した時、女は何かの破片の板に掴まり、波間に浮いていた。多分事故から10分もたっていないだろう。
 疲労で、体が鉛のように重い。どうやって泳ぎ切ったのか。のろのろと周りを見渡すと、やはり船の破片の一部と思われる残骸が、細かく浮いている。無意識に一番大きな破片にしがみついたようだ。それは1メートルあるか無いかの板で、小柄な女の体重を辛うじて支え、海底へ沈むのを抑えていた。
 海難事故は、30分もしないで救助が出るに違いない。あとは、ヘリコプターか救助船が女を見つけてくれるまで、体力を温存すれば何とかなるだろう。
 夫は無事だったろうか・・・。

 船で会った中年男は、女の本当の名を呼んだ。『人違いです』と言って逃げたが、あの男は故郷の青年会の役員で、女を留学させるのに力を貸してくれた人物だった。帰国後、故郷にはもちろん帰っていない。だが、女が死んだ連絡は届いているはずだ。男は、おかしいと疑い始めるだろう。
 火事で死ななかったことも。今回の事故で助かったことも。神に感謝しなくてはならない。陸に上がれたら、一からやり直そう。すべてを告白して。
 10年の間、何度も何度も火事の夢を見てうなされた。自分が被害に遭ったわけでも無い火災だったが、夢では四方を炎に囲まれ、熱さでのたうち回り、煙で息が苦しくて喉を掻きむしった。いつも、起きたらシーツが汗でぐっしょり濡れていた。
 よく夢の中では、炎に少女の姿が浮かんでいた。黒髪の日本人形のような少女は、紅蓮の色の晴着・・・裾と袖に真紅の曼珠沙華が施された和服を纏い、蛇のようなきつい視線でじっとこちらを見つめ続ける。何かを言って責めるわけでも無く、ただ見ているのだ。
 
 もう、あんな酷い夢を見なくてすむように。
 例え・・・詐欺罪で罪に問われても。死刑囚の娘と知られ、夫に捨てられることになろうとも。

 遠く、黄色い豆粒のようなものが見えているのに気づく。救命ボートらしかった。女は安堵のため息をついた。人の頭も幾つか見える。
 女は、泳ぎは苦手な方では無い。疲れてはいるが、板に掴まりながらなら、あれくらいの距離なら泳ぎ着けないことは無い。
 その時。
 自分のほんの数メートル背後に。浮いたり沈んだりする腕を見た。
 それは、まるで、天から伸ばされた蜘蛛の糸でも掴もうとするように、宙を彷徨っては飛沫を上げて沈み、また水面に浮上しては空を切った。
 女は、すぐに、助けようとそちらへ泳ぎかけた。だが・・・波を掻こうとしたそのストロークは止まった。モスグリーンのナイロンのようなシャツに見覚えがあった。

 あの男だ。この世で一人だけ、女の本当の名前を知っている男。

 女は、どこかで聞いたことがある。海難事故の場合、『命の板』を死守しても罪に問われないということを。
 そうだ。体格のいい男だった。あの男を助けたら、この板は重みに耐えられずに、沈むかもしれない。沈むかも・・・しれない。
 女の思考が停止した。
 数分、いや数十秒、気づかぬ振りをすればいいことだ。あの男さえ沈めば、元通り。女は『彼女』の名前を名乗り続けることができる。
 女は、瞬きもせずに男がもがくのを見つめ続けた。沈め、早く沈めと、祈りをこめて。さっき神に祈ったのと同じ強さで。
 男の羽ばたきはやがて弱まり、腕は水の中へ吸い込まれて行った。泡は、男の最期を飾る白い花びらのように渦の周りで舞って、やがて少しずつ消えて行く。
 
 泡がひとつ。ふたつ。

 男が浮かんで来ないのを確認し、女は前を振り返り、黄色い救命ボートの方へ目を向けた。
そして悲鳴を飲み込んだ。
 少女が・・・夢で何度も見た赤い振袖の少女が、目前の波の上に立ち、こちらを見ていた。唇には笑みを浮かべている。だが、瞳は、夢のそのままに、まっすぐに女の罪を見据える。
「お主は、可哀相な人間よのう」
 風も無いのに振袖がはためいた。少女の細い腕が弧を描いた。板を握る女の手の甲に、赤い蚯蚓腫れが走った。
「その傷は消えぬ。お主は、水を見る度に今のことを、炎を見る度にあのことを思い出し、苦しみ続ける。毎夜、水と炎の夢にうなされ、魂の安らぐ時は無い」
 パラパラと、ヘリコプラーの音が頭上で響いていた。救助ヘリが女の姿を見つけたのだ。
 女は、その爆音も耳に入らず、晴着の少女から目を離すことができなかった。
「我は九耀・魅咲(くよう・みさき)。悪しき魂を破滅へと導く者」
 赤い幻はそう名乗ると、すうっと波間に溶けて消えた。
「あ・・・あ・・・」
 女は、初めて悲鳴を上げた。
「いやーーーっ!
 戻してっ!5分前に戻して!・・・助けるから!あの男を助けるから!」
 ヘリからロープが垂れ、波に迫る。救命胴着を着けたレスキューが下りて、錯乱して暴れる女を保護した。
 女の夫も、怪我も無く救命艇に保護されていた。この事故で亡くなったのは一人。あの男だけだった。
 
 それから数週間後。女は、バスルームで手首を切った。洗い場のタイルには、少女の晴着の模様のような、赤い花が点々と散っていた。

< END >