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去年の残り火
――プロローグ
サンポールを片手に、棒タワシを片手に。
トイレに向かっている。
草間・零は毎日の習慣で、今日もそのようななりでトイレと格闘中である。
今日は何やら朝から騒がしいが、鶏さんのお世話とトイレ掃除は毎日の日課だった。それをやめる零ではない。
零は今日も、トイレに向かって棒タワシを振るう。
シュラインの提案でトイレ置くだけで! などの洗浄剤は使わないことにしている。もちろんトイレにドボンも同じだ。災害時にお風呂に溜めた水と同様重宝されることから、トイレタンクの水も清潔に……! とのことだ。よくわからないけれど、ともかく草間興信所のトイレを守っているのは零なのだ。
そういうわけで、冬晴れの本日も草間・零はトイレに向かって勝負を挑んでいる。
――エピソード
シュラインは窓際でマフラーを結びながら外を見上げた。
美しいと言ってもいいほどの空の色である。風があるからか、雲は一所に留まっていない。流れゆく白い影は、夏の眩しさとは違った清楚さを持っている。快晴だった。青空は絵の具では表現できないほど青い。たぶん、どんな絵の青空よりも透明な青だろう。
赤いトレンチコートを着てチェックのマフラーを首に巻いたシュライン・エマは、窓に手を置いて空を見上げていた。
草間・武彦は椅子の背に掛けっぱなしだったブルゾンを手に取り、座ったまま袖を通した。
「零、お前も用意しなさい」
草間が言った。
シュラインはその声に振り返った。
「あら、零ちゃんは?」
「……トイレだ」
草間が机に置き去りにされて冷めてしまっているコーヒーに手を伸ばした。
「トイレぐらいゆっくり」
シュラインが苦笑を洩らす。トイレぐらい待っていてもいいだろう。
草間はコーヒーが不味かったのか、それとも零の行動がよくないのか、渋い顔でシュラインを見上げた。
「トイレ掃除だ」
「え?」
言われてみれば、ここ最近の草間興信所のトイレはピカピカだった。シュラインが掃除をしようと思い立つことがないほどである。先に掃除がされていた……と言われれば、納得だった。なるほど。
「お前が来る前にいつもなら済ませてるんだが、今日は色々とゴタゴタしてな」
草間が苦い顔をする。
それはシュラインが興信所に入ってきたときに聞いていた。去年の春に買った交通安全のお守りを、零が手放すのを嫌がっていて、せっかくの左義長なのだからと注連縄を持った草間と口論になり、どこを似たのか草間のハードボイルドの執着に近い頑固さで零はお守りを守り通し、結局彼女はそのお守りを持ち続けることになった。とのこと。
シュラインも「お役目ごくろうさまってしてあげないと、お守りは今年もがんばらなくちゃなのよ」と説得を試みたが、どうやらそのお守り袋にはピーちゃんに混じった初めての白い羽根が入っているらしく、やはり愛着があるということで、今年もがんばってもらうことになった。
シュラインはトイレまで歩いて行って、トイレの床を雑巾で拭いている零に言った。
「今日はいいわよ、行きましょう」
「平気です、今終わります」
零は顔を上げて微笑んで、冷たい水の入ったバケツへ雑巾を突っ込み、ザブザブと洗った。よいしょと立ち上がって、バケツを持って洗面台へ向かう。
今日は左義長祭、神社へお守りやお札、注連縄門松などを持って行き、供養してもらう日だった。
毎年一週間前から準備がはじまり、大きな青竹が何本も狩り出されて、行事が行われる。左義長祭の差義長とはどんどのことだ。青竹に火を放ち、今年の家内安全、五穀豊穣、無病息災を祈る。
「零ちゃんも楽しみにしてたでしょう」
零が雑巾を絞ったのを見て、シュラインは雑巾を受け取った。
「日向に干しときましょう」
「はい。私、書き初めを用意したんです」
シュラインの後について歩きながら、零が嬉しそうに言った。
「コート着てらっしゃい、この間買ったのあまり袖を通してないんでしょう」
新春のバーゲンで零用に購入した白いダッフルコートがあった。彼女は本当に喜んで、もう箪笥の肥やしにしている。
「あんなに白いのに着たら汚れてしまいます」
「そうしたら、ちゃんとクリーニング出して染み抜きしましょうね」
クスクスとシュラインが笑うと、零は回れ右をしてクローゼットへ向かった。草間が立ち上がってコムサの白く大きな紙袋を手にしていた。その中に注連縄や門松などが入っている。
「俺もマフラーしよう」
草間がゴソゴソと零の後を追った。
同じくバーゲンセールで買ったものだ。マフラーは、一個千円で七万円分入っているという噂の夢福袋に入っていたものだった。やわらかいカシミヤでできていて、ベージュがかっている。草間のマフラーは、ロングマフラーが流行る前から変わっていなかったので、丁度よいだろうと彼に贈った。
他に入っていた物はさまざまだったが……さすが「望む物が入っている」と言われているだけあった。なんとその中には、デパート内の電気屋で自動洗濯機と交換できるチケットが入っていたのだ。夢のようだ……とシュラインが思ったのは言うまでもない。未だに二層式洗濯機を酷使していた草間興信所なのだ。
シュラインは日の入る位置にハンガーを使って雑巾を干し、準備万端の草間兄妹と共に、爽快な青空と冷たい風の待つ、外へ出た。
並ぶ屋台の誘惑を振り払って、神社に供養する物を届けた一行は、まず屋台の物色をはじめた。
シュラインは並ぶ屋台のそれぞれの位置が変わっていないのを確認して歩きながら、ほっと胸を撫で下ろしていた。
テキ屋の並ぶ位置は毎年決まった場所だという。
何のイザコザもなく、抗争もなく、力関係も破綻していなければ、毎年同じ屋台が同じ場所に店を出すのだ。だからなんとなく毎年変わらないことが望ましいような気がしている。
零は目を丸くしながら生クリームたっぷりのクレープを買い、草間はとりあえず腹ごしらえにタコ焼きを買っていた。シュラインは……毎年ここで仕入れる七味を買っていた。おいしい七味はなかなか手に入らないものなのだ。
ここの七味は汁に浮いたまま、真っ赤な色を散らしてきれいな美味しい七味だった。
例年通り、今年もそれらを買った三人は鮎の塩焼きを食べに行く。毎年変わらない主人の顔を見ながら、草間が注文した。
「鮎三本と、枡酒二つ」
去年は零が食べることをしなかった為、今年から、三本になっていた。
「あいよ、今焼いてるからね」
鮎の口には串が刺され、鮎は頭を下にしてジワジワ焼かれている。
草間達は鮎の屋台のすぐ裏にある、休憩所に席を取った。
テントが張られているだけで吹きっさらしの休憩所は寒かった。すぐに冷の枡酒と鮎が三匹プラスチックの皿に乗ってやってくる。
ここの屋台は冷しか出していないのだ。
小皿に日本酒が滴っているので、シュラインと草間は皿ごと枡酒を持ち上げて、少し掲げた。
「今年もよろしく」
二度目のよろしく、である。小正月なのだから、いいではないか。
「零ちゃん寒いわね、大丈夫? 後であったかいお茶買いに行きましょうね」
シュラインは冷酒を一口飲む前にそう言った。
零は鮎を手にとって、目を白黒させている。
「平気です。お魚と目が合いますね」
彼女はそう言ってシュラインと草間を見た。草間は酒をすすってから、鮎を手にとって腹にかぶりついた。
「こうして、頭以外食べるんだ」
ふむふむと零はうなずいて、果敢に鮎に挑んでいく。
ついふふりと口許を笑わせてから、ひゅうと冷たい風が吹いて、シュラインはくしゃみの前に枡酒に口をつけた。少し甘い日本酒だった。
身体があたたまるまで少し時間がかかる。
草間は枡酒を半分ほど飲んでから、小皿の酒を枡へ流し込んだ。
「今年も新年早々色々あったわね」
「ああ」
シュラインは酒を少しずつ口に含みながら、ふと思い出して草間に訊いた。
「そういえば、武彦さんいつからそんなに賞金稼ぎが嫌いになったの」
草間は酒を置いて、むしゃむしゃと鮎を食べている。シュラインの鮎を指して「冷めるぞ」と忠告してから、彼は言った。
「最初からだ、つまり制度ができた瞬間から大嫌いだ」
「あら……あの人だから、じゃないのね」
「あいつも個人的に嫌い」
草間の好き嫌いの激しさは今に始まったことではない。草間は続ける。
「賞金稼ぎってのは、俺達探偵の鞘なしってことだ。同業者だと思っても腹が立つが、あいつらには賞金を追うという目的があるだけで、信用問題とか責任問題がない。鞘なしってのはそういうことだな。探偵業で何が必要かって、信用だろうが」
言われてみれば、かの男も信頼度はほぼゼロパーセントに近い賞金稼ぎである。
「そうねえ……」
「その上粗野で乱暴、賞金がかかればなんでもござれだ。素人の探偵業じゃない、ヤクザのやる探偵ってわけだ。たまに仕事で顔を合わすことがあるが、あいつらに良識なんてもんはない。ああいう奴等と付き合ってると、了見を疑われるぜ」
シュラインはあの男を思い返しながら、草間の見解に何の意見もできないことを痛感していた。大抵草間の好き嫌いは変な偏見に満ちているのだが、賞金稼ぎに対する偏見は、全てが当たっているような……いや、そうではない誰かもいるだろうと進言はできるだろうが……。
困った末、シュラインは言った。
「悪い人じゃ、ないんだけどね」
それを聞き咎めるように、頭だけになった鮎を皿に戻しながら草間は眉をひそめた。
「そもそもだ、くだんのあいつは、凶悪凶暴な賞金稼ぎってぇ仲間内でも有名なんだぞ。その上小汚い、素性も知れない、天然パーマだし、気がつけば煙草ばっかり吸ってやがる」
どうして天然パーマが出てくるのかは謎だ。だが、彼はいつもそう指摘されている。
「最後のは武彦さんも人のことは言えないと思うけど……」
ブルゾンのポケットへ伸びようとしていた手を、草間がぎくりと止める。そして誤魔化すように、彼は枡酒をあおって飲み切った。
シュラインもつられるように日本酒を口に運ぶ。それから、鮎を一口食べた。外はすこし塩っ辛いが、肝も苦くなくさっぱりしていておいしい。
「あんな奴と付き合ってると、悪い目しかみないぞ」
もごもごと鮎を租借しながら、ありがたい草間のお言葉を右から左に流す。
そんなことはシュラインが一番承知している。だが、トラブルメーカーという意味では草間もあの男もあまり変わりないように思う。怪奇か、ドンパチか、の差はあれど。
「おいしかったです」
零が鮎の頭を持ったまま言ったので、シュラインも慌てて鮎を平らげた。
三人は立ち上がって休憩所を出た。いつものコースだと、この後おでん屋で熱燗とおでんを頼み、いい具合に外が暮れ切った頃、どんど焼きを見に移動する。あたたかいお茶も売っていたので、零に一本買って、三人はまったりと時間を過ごした。
ドンドン、カカカ。そんな太鼓の音が鳴っていた。
高い高い青竹に藁に火を灯した男達が火をつける。日の丸や五色の旗が括りつけられたどんどが燃え上がった。青竹の中には、供養する様々な物と薪が入っている。
火は紺色の空に舞い上がり、散った火の粉がはらはらと落ちる。
中に入れられた爆竹に火がついて、パンパンパンと小気味よく鳴り響いた。
シュライン達は係員に零の書き初めを預けて、人込みに紛れてどんどが焼かれていくのを見守っていた。
やがて男達が書き初めを竹の先に刺して、火の上を舞わせる。ひらひらと半紙は踊って、火が燃え移る。燃えた半紙は風にあおられて空に舞い上がる。
舞い上がるさまから、書き初めつまり字の腕が上がると言われている儀式だった。
シュラインは毎年のことながら、つい言った。
「きれいね」
「ああ」
草間が去年と同じように肯定する。
シュラインは家内安全、五穀豊穣を祈ってそのさまに手を合わせた。
零は嬉しそうに二人を見上げて言った。
「お餅ですね、次は!」
どんどは今年の方角へ倒され、男達にきれいに片付けられる。
男達はそれぞれ女物の長襦袢を着ていた。遠くから聞こえていた太鼓が、いよいよ近くで響いていた。
太鼓と男達を乗せた山車が近付いてきているのだ。早々にきれいになったここに、山車が乗り入れる。
そして祭は太鼓の音と共に終わる。
――エピローグ
今日は日の出ているうちはあたたかかったが、日が落ちてから急に冷え込んだので、三人はどんどの灰で餅を焼いたら、すぐに興信所へ帰って来た。
シュラインはキッチンへ入って、電気釜のスイッチを入れ、焼いてきた餅をレンジにかける。
途端、電気が落ちた。真っ暗闇になったのだ。
……ここで慌てるシュラインではなかった。
レンジ、電気釜、暖房、電気ストーブ、テレビ、もしかしたら他の電気機器。全てが同時にスイッチを入れられたとしたら、ブレーカーが落ちても不思議ではない。
「なんだ、一体何があった」
学習能力を欠いた草間がそう叫ぶ。
零が目をぱちくりさせながら、キッチンへ顔を出した。
「真っ暗です、ブレーカーですね、シュラインさん」
「……幸先真っ暗ね……ええ、ブレーカー、上げてきてちょうだい」
シュラインは苦笑をして零に頼んだ。
電気釜のスイッチを切ってから、草間の元へ行き、足元の電気ストーブを切らせる。
「寒いじゃないか」
「またブレーカー落ちたいの?」
口を尖らせる草間に釘を刺して、シュラインは再びレンジのスイッチを入れた。
この餅は無病息災をもたらすという。
ぜひ、全員で食さなければならない。
今年もなんとかかんとか、無事に過ごせますようにと。
――end
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0509/草間・武彦(くさま・たけひこ)/男性/30/私立探偵】
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■ ライター通信 ■
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去年の残り火 ご依頼ありがとうございました。
お気に召せば幸いです。
文ふやか
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