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<東京怪談ノベル(シングル)>


人めも草もかれぬとおもへは


 人里離れた名もなき山の中腹に、ぽつねんとたたずむ庵があり、そこに今日は牛車がとまった。
 牛車から降りたのは、艶やかな美をもつ女と、氷色の汗衫を身につけた童女だ。ふたりを降ろすと、従者もない牛車はいずこともなく消えていった。
 庵は林が終わるところに建っていた。一面に続く枯野が、庵の前に広がっている。しかしその枯野も、いまは真っ白な雪に覆われていた。そして、雪はいまも降り続いている――ちらちらと、奥ゆかしささえはらみながら。
 童女は冬の空のように冴えた蒼の目だ。その目をきらきらと輝かせて、彼女は飛び跳ね、歓声を上げた。
「きれい! きれいよ! かあさま、そらからわたがふってる! わたがつもってるう!」
「これは雪です。ああ、緋玻は、炎ばかり見ているものね。この景色を見るのは、初めてでしょう」
「うん。あのね、まえにあにさまとにんげんかいにきたときは、さくらがさいてたのよ。かあさま……にんげんかいって、おもしろいところね。くるくる、いろがかわるもの」
「おまえの兄からも聞きましたよ。ここが気に入ったのですね」
「うん!」
「緋玻がもう少し大きくなったら、自由に行き来できるようにしましょう。まだ、緋玻は小さいわ。さ、中に入って、暖をとりますよ。母のように身体をこわします」
「はあい」
 汗衫の童女は、聞き分けがよかった。
 というのも、久し振りに母といっしょの時間を過ごしているからだ。彼女の母は多忙であり、それゆえに体調を崩していた。母親はこの庵に養生に来たのだ。それでも、従者もないままの雪見であるから、身体の不調も、単なる口実にすぎないのかもしれない。
 ただ、娘と白い時間を過ごしたかった――
 母の思いを咎めるものは何処にもなかったし、彼女は確かに小さな咳をしていた。

 童女の母は、火鉢の炭に妖術で火をつけた。童女も覚えたての妖術で、炭に火をつけ、上手い上手いと母に褒められ、にこにこと上機嫌だった。
 しばらくは、火鉢を障子のそばに寄せ、ふたりで雪景色を楽しんでいた。
 しかし、旅の疲れが日頃の疲れに重なったせいだろう――牛車に揺られている間は、娘とずっと話していた――単の母親は、いつしか火鉢のそばで眠りに落ちてしまった。
 雪は降り続いている。
 童女は火鼠の皮衣をそっと母の肩にかけると、火鉢の炭を足し、庵を抜け出した。
 折りしも、雪と雪の間から、陽の光がさし始めていたのだ。細い陽の光は雪原を舐め、きらきらと輝かせていた。童女はその光景に目と心を奪われたのだ。彼女はきらめく雪をも、初めて見たのだから。
 彼女は雪原の只中に屈みこむと、雪をすくい上げた。手を切るような冷たさに、童女は恐るべき故郷を何故かしら思い出す。しかし、その痛みも、きらめく雪の結晶の存在に気づいてしまっては、きれいさっぱり頭の中から消えていた。
「すごい……すごぉい」
 結晶は、彼女の炎にも似た熱い息を受けて、たちまち融けていくのだった。
 びょう、と風が吹き――
 細かな雪は、枯野に立ち尽くす低木の枝からさらわれて、きらきらと宙を舞った。童女はまたしても歓声を上げ、雪をすくうと、放り投げた。結晶はやはりきらめいて、彼女は冷たい飛沫が顔にかかるのもいとわずに、飽かずきらめきを見つめ続けていた。
 びょう、と風は吹く――
 いつしか太陽は再び雲の向こうに消え、灰色の空があるばかりとなった。一旦はやみかけた雪も、勢いを増し、風に吹かれ――吹雪となり始めていた。


 吹雪の只中、ひとり、汗衫姿で遊ぶ童女というのか、如何なものか。
 只ならぬ気配と不条理な光景に息を呑むものがひとり。
 彼は若かったが、将来を有望視される陰陽師だった。生来、彼は鬼や霊をその目に見ることが出来る――氷色の童女に、彼は、炎のゆらめきを見た。


「もし」
 不意に声をかけられて、童女はびくりと飛び上がった。
 ――ここは人里離れているから、人間と会うこともないのですよ――
 母はそう言っていたはずだが、彼女に声をかけたのは、人間に他ならなかった。しかも、紫の狩衣に、烏帽子を頭に乗せている……。
 ――陰陽師と僧に会ってはならんぞ。ぶたれて、地獄に送り返されてしまうぞ――
 兄はいつも、童女をそう言って脅すのだ。
 鬼の彼女を、震え上がらせるのだ。
「斯様な空模様の日に、斯様な処で、如何なされました」
 吹雪をかきわけ、陰陽師は童女に近寄ってきた。若い彼は、緊張した面持ちだった。
 ――もし会ってしまったら、怖がって逃げてしまってはいけない。陰陽師や僧を恐れるのは鬼だけだ。人間は奴らを有り難がるのだからな。人間のふりをして、兄や大人のところに、奴らを連れてくるのだ。あとは、大人や兄に任せるのだよ――
「あ……ええと……」
 兄の言葉を思い出しながら、童女は立ち上がった。
「か、かあさまと、ゆきみにきているの」
「そうでしたか。雪も強くなって参りました。それにもうじき日も落ちます。お送り致しましょう」
「あ……うん……」
 彼女は、陰陽師と手をつないだ。
 つなぐ手がぴりぴりと痛いのは、雪に冷やされたためか、陰陽師の気にあてられたためか――。


 鬼の子は、母親と来ている、と言った。
 彼はまだ若く、師や兄弟子の付き添いをしているだけで、自縛霊のひとつすら祓ったことがない。
 この歳で鬼を滅ぼしたとなれば、将来は確かなものになる。
 つないだ手から感じる気は、まだまだ幼いものに過ぎず、容易くねじ伏せられそうなものだった。
 林が始まろうとするところまで導いたところで、童女が「あそこ」と指をさす。
 そこに佇む庵は、日頃から、師や兄弟子に「近づくな」と言い渡されているものだった――
「あ、かあさま……」
 童女が声を上げる。
 吹雪の向こう側、庵の戸口に、単を着た艶やかな女がすっくと立っていた。
 若い陰陽師は束の間息を呑み、つなぐ手の力さえ抜いてしまった。童女はその手を振り払うと、戸口に立つ女のもとへ駆けていった。


「あ、あのね、かあさま……」
「緋玻。怪我はありませんか?」
「う、ううん」
「それは何よりです。さ、中へお入りなさい。目玉でもなめておいで」
 母親は変わらず優しく微笑み、童女を庵の中へ入れた。
 あとは、
 す、と目を細め、吹雪の中を歩むだけだ。

「若造」
 童女の目が冬の空であるならば、
「何用かえ」
 その鬼女の目は、冬そのものだ。

「あ、あ、あ、」
 尻込みする陰陽師の周囲を、音を立てて焔が走った――ようだった。或いは、幻術であったのかもしれない。
 しかし確かなことがある。それは、女の単やその髪に、雪が一粒たりとも落ちてはいないということだ。雪は、女に届く前に融けて消えてしまっているのである。吹雪の中、鬼の姿ははっきりと浮かび上がっていた。
 鬼は、何も角を生やし、上に向いた牙を持ち、赤い肌を持つものばかりではない。
 恐ろしいほどの美しさを歪めることなく、人を裁き、苦しめるものもある――
 若い陰陽師が女の背後に見たのは、灼けつく焔の獣とあぎと。鉄さえ焦がす牙。鼻をつくのは雪の香りではない。これは、血と骨が焦げていく、悪夢の臭気だ。
「ああ! ああ! ……わああッ!」
 その叫び声は、山の咆哮にかき消された。
 そうだ、
 女の声は、叫び声でもないのに――彼の耳にしっかりと届いていた。

「去ね。妾は、疲れておるのじゃ」

 火鉢を抱えるようにして、目玉を齧っている童女は、陰陽師の悲鳴も足音も聞いていなかった。吹雪の中、一目散に逃げていく彼の背中も見ていない。
 ただ、母親が顔色一つ変えずに庵の中に戻ってきて、ほっとしただけだった。
「緋玻。雪遊びは、どうでしたか」
「あ、うんと……ええと、ごめんなさい。もう、あけは、かってにでかけたりしない……」
「それは、良いのです。雪はどうでしたか」
 優しく微笑む母親に、童女はさらに安堵した。そうして、雪の美しさに夢中になったことや、ますますこの世が気に召したことを、息つく間もないほどの勢いで、母親に離して聞かせるのだった。

 庵の明かりは、吹雪がおさまる頃に消えた。




<了>