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<東京怪談ノベル(シングル)>


願い星


 奏の頭の中は、大抵の場合、旋律と詞、音符と歌声でいつも一杯だ。しかし、深夜に車を走らせて、ある通りに差し掛かると、奏の脳裏に橙とマホガニーの思い出が割り込んでくる。そこは新宿のとある界隈で、車通りもさほど多くはなく、静かなところだった。まぶしいネオンも見当たらず、犬の鳴き声さえ聞こえないような。ドアベルの音色が、いやに強く響くような気さえする通りだ。
 高杉奏の祖母が、ここで小ぢんまりとした店を営んでいる。いつ頃からそこにあるのか、奏もはっきりとは記憶していないほど、息の長い店だった。『隠れ家』といういまの流行りのフレーズがしっくりと馴染むジャズ・バーだ。ステージには奏も立ったことがある。芸能界がらみの仕事がぼちぼち入るようになってからは、時間も取れず、自然と足が遠のいていた。
 この通りに差し掛かるとき、奏の脳裏を占拠するのは、そのジャズ・バーの思い出だ。暗い橙の照明、ブランデーの花のような香り、耳に残るジャズのフレーズ――きっとあの店は、自分が覗きに行かなくても、何も変わりはしないのだとぼんやり考えながら、いつも奏は通りを横切る。
 だが今日は、
 ――たまには、顔見せるか。
 大きな仕事も終わったところであったし、奏はハンドルを切っていた。


 高杉奏が少女を見つけたのは、少女にとって、まったく幸運以外の何ものでもなかった。
 近辺は住宅街ということもあって、さほど治安が悪いというわけでもないが、いまは深夜だ――それに、少女は、奏がいままさにドアを開けようとしているジャズ・バーの、周辺をうろうろしていたのである。何度も何度も小さな看板を見上げているところからみて、少女は、この知る人ぞ知るバーをようやく探し当てたという具合なのだろう。
 この店は、ジャズを聞き、オーナーや連れと会話を楽しみながら酒を呑むところだ。中高生が入るべき類のものではない。
「どうかしたかい? この店に用事かな?」
 ドアノブに手をかけ、『自分はこの店の関係者だ』といった口ぶりをわざと見せながら、奏は少女に話しかけた。少女はぎこちなく苦笑いをして、小さく頷いた。
「このお店のオーナーさんに……渡したいものがあって……。先日亡くなったおじいちゃんの頼みなんです」
「そうか。俺が預かってもいいけど……そのオーナーってのは、俺のばーちゃんでね。俺と一緒なら、中にいる大人連中にとやかく言われりゃしないさ。やっぱり自分で渡すのがいちばんだろ。さ、入った入った」
 奏がドアを開けた。たちまち、ピアノの音と歌声が夜の中に漏れ――
 ふたりを温かく包みこんだ。

  あの空の光は願い星
  夕日よりもつよく輝いている
  あなたの瞳のように輝いている
  わたしの瞳と心の光は
  あの願い星にもかなわない

 ドアベルの音とともに店に入った若すぎる客は、少なからず大人たちの視線を集めた。しかし、少女のあとに入ってきたのは(久し振りに現れたにせよ)オーナーの孫に違いない。髪の長い、若いようにも30代のようにも見える優男だ。
 ああ、であればあの少女も、オーナーの親戚か何かなのだろう――
 客の興味はたちまち失せ、かれらはオーナーの歌に意識を戻す。
「こいつはまた、長い歌だな」
 奏は笑って、音楽を邪魔しないよう、声を落とした。
「でも、永遠に終わらない歌ってわけじゃない。あの、歌ってるのがオーナーだよ。座って待ってるといい」
 彼は、少女をカウンター席に導いた。
 ここは、歌がよく聞こえる。

  でもね
  私は信じないわ
  あの願い星に向かって何度願えば
  あなたは帰ってくるというの
  私は信じないわ
  あなたが帰ってくることはない

 少女は、息を呑んでいた。オーナーの声は少し酒焼けしていたが、そのハスキーヴォイスがかえって歌に艶をもたせている。歌が終わると、すべての客が一斉に拍手をした。
 拍手を縫って、オーナーは孫と少女に向かって歩いてきた。新たな曲が始まり、店の中に細々とした会話が戻ってきた。
 少女は、携えていたハンドバッグから封書を取り出し、オーナーに手渡した。
「この子のじいちゃんの手紙なんだそうだ」
 久し振り、という挨拶よりも先に、奏は祖母にそう告げた。オーナーは手紙を受け取り、しずかに、文面に目を滑らせた。
「……そう。最近、顔を見なくなったと思っていたよ」
 読み終わると同時に、老オーナーは溜息をついた。
「知り合いだったのか?」
「そうだね。いつもカウンターやステージから、私は彼の顔を見ていたよ。そうなの、まだまだ長生きしそうだったのに……」
 彼女は、深々と少女に頭を下げた。
「ありがとうね。あのひとも、きっと空でほっとしていると思うよ。本当にありがとう。入りづらかっただろうにねえ……」
「お孫さんのおかげです。……素敵なお店ですね。お酒を呑めるようになったら、来てもいいでしょうか」
「もちろんだよ。待ってるからねえ」
 少女は、オーナーが呼んだタクシーに乗って店をあとにした。客の数もいつしかまばらになっていた。夜は、まだこれからだというのに。
 奏は、ふと気がついた。自分は、手紙の主がもう死んでいるとは伝えていない。だというのに、祖母は死を知っていた――手紙は、遺言状だったのだろうか――それとも、本当に、前もって知っていたのだろうか。
「……」
 奏は尋ねることもない。ただ、少女が去ったカウンターで水割りを飲んでいた。

「ねえ、奏ちゃん」

 がくり、と奏は首を項垂れた。
 カウンターの向こうで、老オーナーはにこにこしている。まるで悪気もなさそうに。
「ばーちゃん、俺、もう39だよ。そうは見えんだろうけど、もうさ、『ちゃん』付けで呼ばれるような歳じゃないって」
「歳を取ろうが死のうが生まれようが、あんたは永遠に私の孫だよ。孫をちゃん付けで読んで何が悪いの。……奏ちゃん、一曲弾いておくれ。『願い星』をさ」
「……」
 さっき歌ってたじゃないか、とは、奏も言わなかった。
 奏はステージを見る。そろそろこの夜の店も閉まる頃合だ。バンドは帰り支度を始めている。
「ピアノだけでいいよな? みんな、もう帰る時間だし」
「うん、それで構わないよ。奏ちゃんが弾いてくれるならね」
 聴くのは、オーナーただひとりになるのだろうか。この曲を、今夜のこの店の『別れの曲』『蛍の光』にあてるというのだろうか……。
 奏はまだ水割りが入っていたグラスを空けると、席を立った。
「しょうがないなぁ」
「ギターで弾いてくれてもいいんだよ」
「ばーちゃん、俺、ギターは――」
「冗談冗談、悪い冗談。ピアノでお願いよ。『願い星』……とうとうあの人は、聴きに戻っては来なかったねぇ……」


  すまない。『願い星』をまた聴きに来ると約束していたのに。
  わたしはもう聴けそうにない。
  もし毎日歌ってくれていたのだとしたら、あやまるよ。
  他に歌いたい歌もあるだろうに、もし歌ってくれていたのだとしたら……
  本当に、申し訳ない。


 ピアノの鍵盤に指を下ろす前、奏は頭の中で手紙の内容を巡らせた。オーナーがぽつりとこぼしてしまったのは、常連客と彼女の間にあった真実のかけらだろうか。そんなようなことが書いてあったなら、自分は泣いてしまうかもしれないと考えながら――奏は鍵盤に下ろした指に力を込めた。
 優しく、力を込めた。
「きっと代わりに、あの子が聴きに来るよ。……もう何年か後だろうけどさ」

 この歌は、恐ろしいほど優しい歌だ。




<了>