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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


□■□■ マイスタージンガーの楽譜<後編> ■□■□


「る、らら、るー……ぐつぐつシチュー、美味しくなぁれ♪」
「ああ、また歌っているのか、お前は」
「あらあら、おかえりなさい、あなた。今日はシチューよ?」
「知ってるよ、歌が聞こえた」
「あらま」

「お前はいつも歌っているな?」
「楽しいんですもの、毎日とっても楽しいわ」
「楽しいと歌うのか?」
「歌いますとも、楽しいんだもの」
「まったく――主婦マイスターだな、お前は」
「あらあら嬉しい、もっと歌わなきゃ」

「……楽しさ、か」
「んー? どうしたの、あなた」
「いや。それを、もっともっと残していられたら、きっと素敵だと思ってな」

 彼の手には、水晶が握られていた。

■□■□■

「……ちょっと、君達!!」

 アーケードの上で呆然としていた彼らを訝しげに眺める人々の中から、一人の男性が飛び出した。ばたばたと靴を鳴らしながら近付いてくる彼は、初瀬日和と笹倉小暮の腕を掴む。引っ張られるままに引き摺られる二人を一瞬見送り掛け、ハッとシュライン・エマは東條薫を見る。彼も我に返り、男性の背中を見た。

「ちょ、待って下さい!」
「こら、人攫いかあんたは!!」

 慌てて追い駆ける彼らの背中を見送り、人々が顔を見合わせる。

「今の、マックスか?」
「マクシミリアンだよな、連中、あいつの連れだったのか」
「なんだよ、驚いて損したな。さてと、教会に行く途中だったんだ、早くしないと」
「やれやれ、あいつも好きだよなあ」

 ずるずると引き摺られ、小暮はむぅっと顔を顰めた。革靴の底が擦れてざりざりと煩いし、このまま引っ張られるのに任せようと思っても、男性はそれほど身長も力も無い。うとうと眠り掛けながらも地面に転びそうになるのでは、どうにもこうにも――地面を蹴り、彼は体勢を立て直す。そしてそのまま、男性の背中に飛び込んだ。

「ッげふ!」
「こ、小暮さん!」
「どうせ走るんなら、こっちの方が好みー……」
「そういう問題じゃないでしょう、がッ! ああもうパンプスで走らせないでよ……」

 流石に重さに耐えられなかったのか、男性がべしゃりと潰れた。追い付いたシュラインと薫はぜぃぜぃと息を整え、潰れた男性を見る――薄っすらとした白い髭を蓄えた、それほど若くはない、男。べしゃりと小暮に潰されている彼に、日和は慌てて手を伸ばす。見れば辺りは、人通りの無い袋小路になっていた。

「だ、大丈夫ですか、あのっ」
「とりあえず起きとけ、小暮」
「……すぴ」
「って寝てるし、早ッ! おい、おっさん……」
「……い、いやはや」

 薫が小暮の腕を掴んで男の上から退かすと、彼はやっとその身体を起こした。日和が差し出した手を取って、ぱたぱたと上着から埃を払う。その姿はどこにでもいそうな町人なのだが――ふと、シュラインは彼の上着に付けられたカフスボタンに気付く。見覚えのある形のそれは、水晶だった。
 確かあの本にも、水晶が付いていた。多分魔力の要石として動いていたのだろうと思っていたが、もしもここが本当に十九世紀のニュルンベルクだとするならば、本がその時代に彼らを飛ばしたことになる。自分達の意図を知っていたのならば、それはきっと本が作られた時代であるはずで――やれやれ、息を吐いた男性は日和に頭を下げてから、彼らに向き直った。

「まったく、街中で魔法を使うなんてことがありますか! 見たところどこか異国の方々のようですが、何方が魔法を使われたのですか?」
「…………魔法?」
「突然街中に現れるなんて、魔法の成せる業でしょう? それとも四人方、何かに巻き込まれたのですかな?」

 シュラインと薫は顔を見合わせる。どうやら何か勘違いをされているようだが、この際はそれも好都合だ。薫は目配せをして、こくんと頷く。男性に向き直り、彼は、軽く頭を下げた。

「俺達は何かの魔術に巻き込まれたらしいんだ。本来はもっと東の方にある国の人間なんだが、どう言うわけかこの町に出ちまった。俺達の国では魔法を使う際に歌を歌うもんなんだが、どうも、何かの歌に惹かれてここに来ちまったらしい――良ければここがどこか、教えてもらえないか」

 即興芝居も芝居の内か、薫はすらすらとそんな台詞を滑り出させる。日和とシュラインもそれに置いて行かれないように、慌てて頷いて見せた。ちなみに小暮は絶好調居眠り中である。シュラインはぷにぷにと彼の頬を伸ばしながら、にこりと笑みを浮かべて見せた。

「何か、強い歌の気配に引き込まれたようなんです。この辺りで恒常的に歌の響いている場所はありませんか? もしくは、いつも歌っている方などご存知ありませんでしょうか――何か魔術の近い場所で、歌っている人とか。お見受けした所、貴方も魔術に親しいようですが?」
「ん? あ、ああ――そうですな。魔術に親しい場所でいつも歌っているもの、ですか……街にはマイスターの試験場所としての広場がありまして、そこではいつも歌っている人々がいますが、こと魔術の近くと言うと……私の家、でしょうか」
「あの、失礼ですが、貴方のお名前は?」
「私ですか、私はマクシミリアン・シュルツ――魔法使いのマイスターをしているものです」

 聞き覚えのある名前に、日和が、あっと声を上げた。

■□■□■

「ファーター? お客様ー?」
「ああ、ゾフィー。少し遠い国からのお客さんだよ」

 森の近くの小ぢんまりとした家に連れられ、日和は口元を押さえた。マックスを出迎えるために出て来た娘と思しき少女は、栗色の髪と濃い茶色の眼で彼女達を見ている。そこに感じる面影は、幼い頃に歌を教えてくれた老婆のものと酷似していて――彼女が、そうなのだと知れる。不思議そうに異人である自分達を見上げてくる眼には、それでも警戒心より好奇心が先に立っていた。魔法使いの子供らしい素直な仕種に、日和は屈んで、手を差し出す。

「ゾフィー、さん? 私は日和です。お父様の魔法を少し見学させて頂きに来たのですけれど、お邪魔しても宜しいですか?」
「ファーターの魔法見に来たの? ファーターの魔法凄いのよー! 皆で見て良いの、ね、ファーター!」
「ああ、そうだね。ムッターはどこかな、ゾフィー?」
「ムッターはお台所、今日はシチューなの、皆で食べるのーっ」
「そうか、なら丁度良いな。……どうぞ、こちらへ」
「こちらへーっ!」

 元気な少女の声に小暮はやっとぼんやりしていた頭を覚醒させる。その気配に、ずっと彼の腕を掴んで引き摺る形を取っていた薫が手を離した。解放された手で眼を擦り、んー、と、辺りを見回す。車の音がしない道には馬車が時折通って、人々の格好もどこか古めかしい。世界史の教科書で見るような風景に、彼はぼんやりと首を傾げた。

「結局、ここってどこ……?」
「……お前は前回のラストをどう読んで……」
「(前回?)えっと、本を読んでて、くしゃみでー」
「どこまで遡ってんだよ」
「……えーと」
「だから、ここは十九世紀のニュルンベルクなんだ。本が作られた時代に飛ばされちまったんだよ、俺達は」
「……タイムスリップ? ……おおっ、青狸もびっくり! もしかしてあのおじさんが、本を作った魔法使いさんだったりするの!?」

 やっと覚醒した小暮は目を輝かせる、子供のような様子に薫は思わず苦笑を漏らした。うわーうわー、と今更はしゃいでいる様子は無邪気で、突っ込む気にも怒る気にもなれない。呆れすらも通り越して、なんとなく頭をわしゃわしゃと撫でてしまった。マイペース過ぎる人間と言うのは少し苦手なタイプだが、ここまで自分の道を転がっていく相手だと、何も干渉する気力が無くなる。このままで良いんじゃないかと、いっそ諦めてしまう。
 撫でられる意味が判らないながらも、小暮は廊下をぐるぐると見回していた。電話機もクラシカルで、タペストリーも手編みらしく温かみがある。辿り着いたダイニングには赤々と暖炉に火が灯っていて、ひどく暖かい空気を作り出していた。そして、充満しているのは、シチューのニオイと――やわらかな歌声。

「ニンジンさんはお星様、ミルクはたっぷりぐつ・ぐつ・ぐつ♪ 隠し味は教えてあげない、くるくる掻き混ぜもう少しっ。ジャガイモ煮崩れイヤンですー、玉葱とろとろイヤンですー、ゆっくりゆっくりあったまれ♪」
「クリス」
「んー、あらあらあなた、お帰りなさいっ」

 振り向いてにっこりと笑ったのは、少女とよく似た面立ちの女性だった。
 彼女が、あの本を作らせた。シュラインはどこかあどけない夫人の笑みにつられて自分も微笑む。木製のおたまでくるくると鍋を掻き混ぜながら、おそらく即興だろう歌を歌っていた女性。とてもとても楽しそうに料理をしている彼女。
 時代を遡るほどに、女性の家事労働というのは辛いものになる。現代でこそ様々の調理道具や電化製品が生活の手助けをしてくれるが、過去においてはそのようなものはない。電子レンジもガスコンロも洗濯機も掃除機もない、全ては手作業だった。勘を鍛えなければ一人前にこなせない、こなせなければ仕方の無い女だと呆れられてしまう。だが、そんな仕事を、彼女は楽しんでしている。シチューだってそうそう手軽に作れるものではないが、彼女は心底から楽しそうに、笑っている。

「あら、もーお客様がいらっしゃるならそう言ってくれなきゃ困るじゃないっ。シチューは足りるけれど、パンが無いわよ? ゾフィー、ちょっとお使いに行ってくれるかしらー? マーマレードも買って来て」
「はーい、ムッター!」
「あ、私も一緒に行かせて下さいっ」
「日和のおねーちゃん?」
「あ、えっと……私達、暫くこの町に留まることになるかもしれないので、パン屋さんなんかの場所は憶えておいた方が良いと思って」
「そうね、それじゃあゾフィー、お願いね?」
「うんっ、行こうおねーちゃんっ」

 少女に手を引かれて日和が出て行く。魔法使いの娘だと言うのならば、おそらくはあの少女が日和に歌を教えてくれた『お婆様』という存在なのだろう――薫はなんとなく見当をつけながら、その細い背中が引っ張り出されていくのを眺める。シュラインはキッチンに向かい、夫人と何やら話し込んでいる様子だった。椅子に腰掛けたマックスに勧められて、薫と小暮もまた腰を下ろす。彼は、テーブルの下から、一冊の本を取り出した。
 見覚えのある革表紙、見覚えのある色合い。記憶にあるものよりも随分と薄いが、それは、レンで見ていたあの本だった。表紙の中央には窪みがあり、そこには水晶が埋め込まれるのだろうと予想される。彼の上着にカフスボタンとして付けられている、あの水晶が。

「妻はあの通り、いつもくるくると歌うのが好きでして。貴方達の国の魔術が歌と密接に結び付くものなのだとしたら、多分そこに干渉したのはあれの歌なのでしょうな――私はこのところ、このダイニングで作業をしておりますので」
「作業、って――何、してるの? やっぱりトカゲの黒焼きとか、藁人形とか、ぐつぐつにゃーにゃーとかッ」
「小暮、お前色々混じってんぞ」
「だって魔法使いだよ、魔法だよ? 流石バームクーヘンの国だよ、ネズミーランドだって真っ青だよー」
「……。えぇと」
「ああ、気にしないでくれ、時差ボケだ」

 絶対違う。

「……それで、その本が作業の主体と見受けるんだが、何を作ってんだい?」

 不意に薫は、彼の手の中の本を指差した。ああ、と頷いて、マックスは愛しげに革表紙を撫でる。その仕種は何か、心からの愛情を表しているようで、ほんの少し心に暖かい様子と映った。数度表紙を撫でてから、薄い髭に覆われた顔を上げ、彼は笑う。

「この町は、少し変わった制度がありましてな。親方、マイスターになるためには、その場で即興の歌を作らなければならないのです。それを高らかに歌って見せ、聴衆の喝采でもって、彼をマイスターと認証する――即興の歌とは残らないのが常です。私の妻が歌う、あのでたらめな歌の数々も、すぐに消えてしまう。でたらめで拙くて幼くて、それでも、私にはそれが尊い……」
「儚くて、すぐに無くなっちまう美しさ、だな」
「そうなのかもしれませんな。ちょっとした酔狂で、それを留めてみたいと思ったのですよ。あれが歌う色々な音を、留める事が出来たなら、きっと思い出が永遠になるような気がして、きっと何かが残せるような気がして」

 ふっと生まれた切なげな様子に、小暮は首を傾げる。
 どうして切なそうな顔をしているのか、判らない。したいことについて語っているのに、どうしてそんな悲しそうな顔をしているのか判らない。夢を語っているはずなのに、どうしてそんなにも陰鬱そうな表情を浮かべているのか、判らない。
 どうして、そんな顔をしているのだろう。愛しいものが愛しいから、残そうと思っている。それは別段責められることではない、写真を撮って怒られるのは舞台発表中と撮影禁止現場だけなのだから。彼も同じように考えてあの本を作ったのではなかったのか、何も、悪気など無かったはずなのではないか。だとしたらどうして、そんな顔をしているのだろう。どうして、そんな泣きそうな眼をして。

 んー、と小さく唸る小暮の動作に気付かず、薫は巨大な溜息を吐く。
 言っている事は確かに間違っていない、思い出として何かを記録したい、それは、良いだろう。構わない。だが、その結果が現状なのだ。消えるものを溜め込んだ矛盾によって魔力めいたものを所持してしまった本が、彼らをこの時代にまで飛ばしてしまった。悪気も間違いもないが、結果が全ての世の中とは言ったもので、ここで彼の動向を見逃すことも出来ない。
 水晶が魔力の中心になっているだろうことにはどうにか予測がついているのだし、ここはいっそ彼のカフスボタンを奪い取って壊すぐらいのことをした方が良いのかもしれない。だがそれはあくまで最終手段と考えるべきだろう。どうにか、説得で片付けておきたい。
 あの楽しそうな夫人に何か心配ごとを負わすのは、気が引けるし。

「……即興ってのは、即興だから輝くもんだと思うんだがな」
「と……仰いますと?」
「後にも先にもそれっきりだからこそ、美しくて尊いもんだろう? あんたが奥さんの歌を留めたいってのも、そこから来てる。二度と聞けない、そういう美しさを持っているからこそ、彼女の歌を取っておきたいと願うわけだ。ここで少し旋回する。マイスターの試験で歌うのは、なんでだろうな?」
「……その一瞬の尊さを作り出してー、人を感動させるため……凄いなーって、感激してもらう、ためー。でしょ? 確か」
「おう、その通り。さて矛盾に突き当たる。それを残しとくのは、果たして、歌の機能として正しいのか」

 マックスは、ふっと黙りこくってしまう。
 小暮は、ぽつりと、何気なく、
 本当に何気ない様子で――その言葉を、零した。

「忘れちゃうー、の?」

 ガタリ、本が木の床に落ちる音が響いた。

■□■□■

「ぐつぐつシチュー、美味しくなーれ、バゲットバゲット買出しにーっ」
「ふふ……ゾフィーさん、本当にお歌が好きなんですね?」
「好きよ、大好きーっ。日和おねーちゃんはお歌好きー?」
「好きですよ、音楽全般が大好きです。昔、歌を教えてくださったお婆様がいたんですよ」
「私はね、ムッターが教えてくれるのっ。いっぱいいっぱい、違う歌ばっかりだけどねっ」

 えへへ、と笑う少女と手を繋いで、日和は笑みを浮かべた。幼い日には同じように手を繋いで、だが自分が手を引かれる立場だったのが懐かしい。同じ構図を真逆で演じている状態に感じる軽い矛盾がくすぐったくて、なんとなく笑い出してしまっていた。
 少女は買い物籠を揺らしながら、たんたんっとアーケードを鳴らすスキップをしている。手を繋いでいる状態では幾分危なっかしさがあるものの、止めようとは思わない。転びそうなら自分が手を貸せば良いだけの事なのだから。昔、そうされたように。

 柔らかな色合いのレンガの道を歩いて行けば、何人もの町人が彼女達に声を掛けて笑みを浮かべた。随分好かれているのだな、と日和は心が暖かくなる。歩く先々で彼らはゾフィーの買い物籠に色々なものを入れてくれた、中にはワインビネガーを一本そのままくれた男もいる。お陰で目的地のパン屋に着く頃には籠には何も入らない状態になってしまい、籠をもう一つ借りる羽目になった。その籠を持ちながら、日和はふっと、疑問を浮かべる。

「あの、ゾフィーさん、いつもこんな風に皆さんが何か下さるんですか?」
「んー、ムッターとお買い物してるといつもそうー」
「どうしてでしょう……見たところ、他の皆さんにもそう、というわけではなさそうですけれど。特別にお得意様だからでしょうか、それとも、お父様が皆さんに好かれて?」
「んーん、違うの」

 ふっと、ゾフィーは陰鬱な表情を見せる。
 日和は咄嗟に、話題を変える。

「あの、良かったら、私の国の歌も教えましょうか?」
「おねーちゃんの国の歌ー?」
「ええ、日本という国です。そうですね、短いものが良いですから……ちょうちょとか、さくらとか。帰り道がてらに、憶えてみませんか?」
「うん、教えてっ!」

 ゾフィーは笑う、日和も、笑った。

■□■□■

「ぐつぐつぐつぐつ、お肉はいかが、いかがでしょう♪ ジャガイモとろとろ、もう限界? そろそろ助けて、とろけちゃう。さあさあどうしよどうしよう♪」
「本当に楽しそうに歌うんですね……何だかこっちまで楽しくなってしまうわ」
「あら、楽しくなってくれるなら、それは最高に嬉しいことなのよ?」

 くすくす笑う夫人を手伝いながら、シュラインは木製の皿を戸棚から取り出していた。何気なく会話を交わしながらそれとなく夫人の様子を伺う。御機嫌なのは良い事だが、その状態には、幾分の違和感めいたものを憶えさせられるのだ。何か不自然とまでは行かないものの、どこか、奇妙な感覚がある。これと断言できるわけではないが、何か、小さくちりちりとした。

 ぱらぱらと香り付けのハーブを散らしている後姿からは、歌が聞こえ続けている。くるくると回っていく歌詞、同じ音律のリフレインはない。即興のそれは、ただ過ぎていくばかりである。無限にゆったりと、ゆったりと、ゆったりと。頼りないほど細い線がふらふらと紡がれるようなイメージ。
 そして、それが、途切れる。

「――――」
「……奥さん?」
「あ。あー、そっか、今日はシチューを、作った、のね……お皿、出さなく、ちゃ」
「お皿は、もう出していますよ」
「ああ、そう、そうなのね、ごめんなさい、わたし、私」
「奥さん、どうし」
「るるるらら、今日はとっても寒いから、とっても熱いシチューにしましょ、楽しく楽しく作りましょ♪ あの人大好きあの子も大好き、一生懸命作りましょ」

 ぞくりと、シュラインの背筋に微かな悪寒が走った。何かとても怖いものを見ているような、そんな心地が一瞬だけ走る。ほんの一瞬だけ、走る。幽霊や祟りやそういったものと接した事は多々あるし、それらに対して恐怖を感じたことなど殆ど無かった。だがたまに、そう、そういった超常のものには感じない恐怖を、生身の人間に感じることがある。とてもとても壊れやすいものを眼にした時に、感じる、その悪寒。
 だが、それもすぐになくなる。ふわふわと紡がれる歌がそれを押し流し、また楽しい空気を作り出していく。背筋を伝っていった冷や汗の気配は、もう、遠のいていた。

「さー、みんなご飯ですよー?」
「ただいまー、ムッター!」
「はーい、お帰りー」

 シュラインは軽く自分の肩を抱いてから、食器をダイニングに運んだ。

■□■□■

「ぷひー……」

 ほむぽむ、学生服の腹を撫でた小暮は、差し出されたカップを受け取った。中に入っているのはホットチョコレートである。甘い味に満腹感を更に刺激され、暖炉の火の心地よい温度に、眠気すら誘われる。だが眠ってしまうわけにはいかない、らしい。テーブルを囲んでいるのはマックスと小暮達の五人だった。ゾフィーと夫人は、もう眠ってしまっている。時計は深夜の十二時を指していた。

「……あれは、忘れてしまうのです」

 ぽつりと、マックスが沈痛な面持ちで言葉を発する。

「あれは――妻は、生まれつき少しばかり変わった娘だったんです。ふらふらといつも楽しそうで、だけれどフッとたまに直前の動作を忘れてしまう。何もかも忘れて、そして、また生活に戻る……あれは色々な歌を歌いますが、何一つも、二度と歌うことは出来ない。憶えていられないのです」
「…………」
「だから、それを残したいと私は思っていた。楽譜という形にすれば、きっとそれを思い出せるだろうと思ったのです。ゾフィー、娘が生まれた頃も、子供を産んだと憶えさせるのが本当に大変だった。結婚した時もです。でも、私はあれを愛している。だから、せめて歌を留めたいと思っていた」

 ふぅっと、長い溜息が漏れる。
 顔を上げて、彼は苦笑いをしてみせた。

「それが、貴方達に迷惑を掛けてしまったのでは、まだまだ私もマイスターとは言えませんな。この水晶は壊してしまいましょう、本も、暖炉に投げ捨てて……そうすればきっと、貴方達は元の時代に戻れるでしょう。楽しく、過ごせましたよ。町の人々は妻を哀れんでくれますが、いつも腫れ物に触れるような扱いばかりだったので」
「待って、下さい……そんなに乱暴に、結論に急がないで下さいっ」
「日和ちゃん」
「日和ー……」

 本をぎゅっと抱き締め、日和は彼を見る。シュラインと薫もまた、苦笑混じりに彼を見ていた。優しい魔法使いを、見ていた。

「術を違うものにすれば良いと思いません? 思い出は残るものですから、それを形にする方法さえ間違えなければ良いんです。例えば、絵にしてしまうとか。その時のことを思い出せるアルバムのようにしてしまえば、矛盾は生まれませんわ」
「それを時々見せて、こんなことがあったと示せば良い。それを反芻させて、ゆっくり思い出にしていけば良いことだ。歌は失われても、『歌いだしたい楽しさ』があった瞬間を焼き付ける事は出来る。思い出を残すことは、出来る」
「そうです――歌が歌われた瞬間の情景、空の青さや、花の色や、流れるシチューの香り。思い出す切っ掛けを作り出すことが出来たら、きっと、良いんです。それが奥さまの記憶になります、だからっ」

 だから。
 言葉の続きは発せられない。
 それでも、魔法使いは、笑った。

「言葉はー……難しい……歌も音も、きっと、難しい。色んな音を作って、作り続けられるひと、なんでしょー? 奥さん、すごく、素敵……だねー。楽しんで、楽しくて、嬉しくて、ずっとそういられるー……思い出、いっぱいあげるなら、判り易い方が良い、よー。多分、きっと、そんな感じ……」

 あふ、と小暮は欠伸混じりに笑う。
 そして、魔法使いは――。

■□■□■

「蓮さん? それ、何の本なんですか?」
「んー? 絵本だよ。ちょっと面白い性質があってね……ほら、この水晶、光ってるだろ?」

 日和が本を覗き込むと、そこにはゆっくりと絵が浮かび上がっていた。どこかの広場で歌っている男性の姿が、柔らかい水彩のタッチで示されていく。花壇に植えられたゼラニウムが、明るい彩りを添えていた。

「ニュルンベルクって町を知ってるかい? 何処の国だかは忘れちまったけれどね――その町では、何か一芸に秀でたものをマイスターって呼ぶんだよ。まあ、英語で言う所のマスターってやつかな。大工でもなんでもね。そのマイスターの試験ってのは、即興で歌を作ることなんだ――なんとも、面白いだろう?」

 水晶が光る。
 ページが、増える。

「その場面を、無限に記録し続けるんだ。何月何日に誰が何になったかって詳細付きでね。どんな歌が聞こえた風景なのか、実に興味深いねぇ。誰かの思い出がずぅっと記されていくんだ」
「ドイツの親方制度ね。即興だからこその輝きを作る、か。前に翻訳した本に出てたわね、面白いことをやってるなーって思ったものよ」
「ふん。まあ、そういうのは演劇にも通じるからな……即興だからこその面白さ。その一瞬の本気勝負、ってやつか。確かに面白そうだな、劇団の入団試験に入れるとアドリブの強さが見れそうだ」
「んー……言葉って、難しい、からねー……あー、俺も後で友達に謝りに行かなきゃだなー……。でも、そういう凄い人達をずうっと記し続けるって、なんでー?」
「最初は、限定された地域で即興の歌が生まれる場面を記してただけみたいなんだけれどね。ほら、最初のページなんてどっかのおかみさんがシチュー作ってる場面ばっかりだ。段々楽しさや感動ってのが力になって、色々な楽しさを記録するようになったんだ。ふふ、優しい魔法が掛けられてんだね」

 ふぅっと、蓮が珍しく柔らかい笑みを浮かべる。

「ああそうだ、ちょっと厄介な品があってね。あんた達暇だったらちょっと片付けちゃくれないかい?」
「はいはい、蓮さんはいつもそればっかりですねっ」
「本当、たまには芸術鑑賞と行きたいところなのだけれどね……まあ、興信所も暇だから良いけれど」
「Zzzzz…………」
「こいつ寝てるんだが良いのか……って、むしろ涎、涎が!!」



■□■□■ 参加PC一覧 ■□■□■

3524 / 初瀬日和     /  十六歳 / 女性 / 高校生
4686 / 東條薫      / 二十一歳 / 男性 / 劇団員
0990 / 笹倉小暮     /  十七歳 / 男性 / 高校生
0086 / シュライン・エマ / 二十六歳 / 女性 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

<受付順>


■□■□■ ライター戯言 ■□■□■

 お待たせ致しました、後編のお届けを致します、ライターの哉色ですっ。ドイツ時間旅行純情編……旅行してないじゃん! との突っ込みは絶好調でお受け致します、はい(ガクリ) 歴史が修正されたので、今回の依頼は記憶には残りませんが、なんとなくぼんやりとした思い出が残っている、という感じで。長々としてしまいましたが、少しでもお楽しみ頂ければと思いますっ。それでは失礼致します。