|
雨が降っていた
切れかかった電灯の淡い光が、路を闇の中からぼんやりと浮かび上がらせている。
細く、細く、長く続く路――。
歩けば、湿った音が響いた。
ぴちゃり、ぴちゃり、からり、ころり――……ゆらり。
夕方まで降り続いた雨の残ったアスファルトに、小さな影が一つ。右へ、左へ、幻影のように揺れている。
まるで幻のような自身の影を、灯火は青い瞳で見つめていた。
彼女の両手に抱かれているのは、古びた木箱である。この中には木箱と同じく古びた壺が入っていて、それは灯火の雇い主の望みの品でもあった。
ふと、足を止める。
黙って見つめる先にあるのは、古びたビルだった。裏側だからかもしれない――もう長いこと手入れがされていないようである。
使われなくなったのは半年程前。元はデパートだった筈である。
灯火は袖口からハンカチを出してアスファルトに敷き、その上に木箱を置いた。
「………………」
ビルの壁を、指でなぞる。電灯の下で、ヌラヌラと光っている雨の粒を指でどかしていく――夜の空気を含んでいるせいか、コンクリートの壁と雨の組み合わせは、まるで粗目雪のようだ。
沈黙を破ったのは、ビルだった。
『構わないでくれ。どうせもう、壊される』
「……――」
灯火は眼を細め、わずかに首をかしげてみせた。話を聴こうという合図である。
本当はビルに聞くまでもなく、灯火自身、このビルが取り壊されることは知っていた。雇い主から、ちらりとそのような話を聞いたのである。
ビルを取り壊した後に出来るものは、やはりデパートだそうだ。古びた耐震性の低いこのビルで再び客を呼び戻そうとするよりは、いっそ壊して一から造りなおそうという考えなのだろう。
けれども、ビルに“一から”はない。いくらこの後に出来るものがデパートであろうとも、ビルにすれば命を絶たれることに変わりはないのだ。
『自分が壊されて、そこに、また新たに自分と似たような建物が建てられるのだ』
それはきっと、悲しいことだ。
「昔の……ことを……思い出しますか……?」
夜に呑まれるようなか細い灯火の声に、ビルは『ああ』と答えた。
『思い出すさ。といっても、そんなに昔のことじゃない。私からすればだが。ところで君は――そう、こんな建物が人間の女性に憧れていたことを知れば、笑うかい? 私はあの頃のことをよく思い出すのだ』
雨が喉を濡らしているような、湿った声で“彼”が問うてくる。
灯火は静かに首を横に振った。手を伸ばして、ビルの壁に触る。
むしろ、思い出を甦らせるつもりだった。
『あの日も、雨が降っていた』
“彼”はゆっくりと想起する――“彼女がここへ来るときは、いつも雨が降っていた”。
彼の身体はだんだんと濡れ始め、垂れ落ちた雨水がアスファルトの上に水溜りを作る。
「その方は……何処に……?」
『七階だよ。七階のレストランの……窓際…………ほぅら、あそこだ』
暗い夜の中に佇む、真っ暗なビル。
だが唯一、蜜柑色に照らし出された窓がある。そこに映っている細い影。あれがそうなのだと灯火は思う。
ビルの言葉で表すなら、その女性は当時の流行とは無縁の清楚なブラウスを着て、わたあめのように柔らかな髪をおろしていた。長い足にハイヒールがよく似合った。
どこからかオルゴールの旋律が聞こえてくる。ドビュッシーを知っているかい、とビルは訊いた。他に客がいないとき、彼女はオルゴールを流していたのだ。
そして、牛乳をたっぷり入れたホットココア。
ほらほらあそこだ、とビルの声にあわせて上を見れば、開いていない筈の窓から湯気が出ていた。夜の空気と戯れて、数秒程で消えていく。夜空には、湯気の白色がよく映えた。
――甘い匂いさえ、する。
嗚呼。
コンクリートの隙間から、ひどく捩じれた声がする。ビルは――彼は、泣いているのだ。
貴方に会いたかった。最期に貴方に会いたいと願っていたのだ。
『貴方が来るのを待っていた』
自分では捜していけないから、ここでずっと待っていた。
震えた低い声で、ビルは喋り続けた。
次第に灯火には聞き取れない言葉となり、ビルを濡らしていた雨粒も消えていった。
灯火は喋れなくなったビルを見上げた。そこには影も、湯気もなかった。
――爪先程の明かりさえ、ないのだ。
建物が壊される音というのは、とてつもなく五月蝿いものだ。
「本当に迷惑だな」
そう言いながら急いで通り過ぎていく人もいる。
夜になると、これほど寂しい場所はない。
あっけない程に、何もないのだ。
「…………」
灯火は眼を瞑った。眼前に広がる真の暗闇の中で、蜜柑色の明かりが灯った気がした。
いや、灯らなかったかもしれない。次の瞬間には元の暗闇に戻っていたのだから。
灯火はあてもなく彷徨い始める。
『貴方に会いたいと願っていた』
壊される前、確かにビルはそう言っていた。
(そう、会いたいから)
だから今宵も歩くのだ。
数え切れない程の夜毎――繰り返してきたように。
終。
|
|
|