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緑のお留守番
「それじゃあ、行ってくるから」
太陽がゆっくりと中空に差し掛かる頃、レポートの入った鞄を抱えた持ち主が扉の前で振り返る。
「昼ごはんは冷蔵庫に入ってるからチンして食べてくれ。留守番頼んだよ」
「はーいなの〜まかせてなの!いってらっしゃいなの〜」
「きゅきゅ〜」
藤井蘭は新緑クマと冬色小鳥を頭に乗せ、一緒に手を振って彼女を学校に送り出した。
パタンと扉が閉まれば、この家を守れるのは自分ひとりだけになる。
俄然やる気もアップすると言うものだ。
小さな緑の守護者は、持ち主が残していったメモを片手にトコトコ部屋の中を歩き回る。
「カギよーし。ガスの元せんよーし。電気よーし。ルス電セットよーし、なの」
赤いクレヨンを握って、戸締りその他項目ひとつひとつをチェックしていく。その後ろをコクマと小鳥もトコトコ、トトトっとついて歩く。
藤井家に来て1年ちょっと。いまやお留守番の達人となった蘭に抜かりはない。
そして全部を確認し終えたら、今度は本日の大仕事に取り掛かる。
エプロンをして、シャツとズボンの裾をまくり上げ、一緒にいたいと言うコクマと小鳥は頭の上に避難させて、いざお風呂場へ。
「おっフロそうじ〜おっフロそうじ〜ぴっかぴか〜なの〜」
自前で作詞作曲した『おフロそうじの歌』を口ずさみながら、シャワーを右手、スポンジを左手に持って蘭は浴室を隅々まで磨きに掛かる。
何事も中途半端はいけない。
もわもわと湯気が立ち上がる中で、とことんキレイにするのだと夢中になってゴシゴシゴシゴシ……いつしか自分の頭に乗っているコクマたちの存在も忘れて、両手両足を床にくっつけて、ひたすらひたすらゴシゴシゴシゴシ……ツルッ
あんまりにも真剣になりすぎて、一瞬お湯に手を取られて転びかけたその瞬間、
「きゅっ」
「ふに?」
ころん。ころころ。ずずー……ずぼっ。
「ふにー!?」
蘭の頭から転げ落ちた新緑クマが、見事シャワーに押し流されて排水溝にピッタリと嵌り込む。
それはもうあつらえた様に隙間なく胴体が収まってしまって、後はただ哀しげにキューキュー鳴きながらジタバタ手を振って助けを求めている。
どんぐりが転がって池にはまる童謡が、どこからともなく聞こえてきそうなシチュエーションだ。
「クマさーん、クマさーん!だめなの〜!おぼれちゃうなの!助けなくちゃなの〜」
アワアワとシャワーもスポンジも放り出してコクマ救出に向かう。
泡まみれのお湯は流れ続ける。
水位はどんどん上がっていく。
どうしようどうしようと慌てながら、とにかくコクマの手を掴む蘭。
見かねたように小鳥がきゅるりと鳴いて、綿帽子をこぼしながらお湯の池に飛び込んだ。と同時に、コクマの首をくちばしでくわえてグイッと持ち上げる。
「ん〜ん〜ん〜〜!」
土に埋まった野菜を引き抜くように、蘭は小鳥と一緒になってコクマを引っ張る。引っ張る。引っ張る。
ずぼぼぼぼ……ばしゃんっ!
「ふにぃ!?」
勢い余って見事に後ろへ転倒。
無事救出したものの、蘭もコクマも小鳥も余すところなくずぶ濡れだった。
風呂掃除に入ったと言うよりも、まるで服を着たまま洗濯されたかのような濡れネズミ状態でへろへろと浴室を出る。
「あ、あぶなかったなの。大事件になるところだったなの……」
3名の後ろを点々と水が滴って道を作る。
こんな状態で部屋を歩き回れば、そこら中が水浸しになり、当然帰ってきた持ち主に叱られること請け合いだ。
それはいけない。
断じて阻止しなくてはいけない。
「着がえて着がえて、ふきそうじ開始なの〜」
ぐしょぬれの服をえいっと脱いで洗濯カゴに放り込み、バスタオルを棚から引きずり出して3名一緒に包まると、頭も背中も足も手も、とにかく思う存分手の届く限りお互いを拭き合った。
「ん〜と、しあげはブオーッてするなの〜」
表面の水滴がなくなった後は、洗面所に下がっているドライヤーの出番である。
「きゅきゅ?」
バスタオルで抱き込むようにして、蘭はコクマに熱風をむける。もともとクマの森の川で泳ぐ小鳥はきゅるっと小さく鳴いてすぐに鏡の方へ避難する。
自分達も床もすっかり乾き、新しい服に着替える頃には、世間はいわゆる昼食タイムになっていた。
風呂場の掃除と雑巾がけと言う大仕事を終えた蘭の胃袋も、きゅるるぅと空腹を訴えてくる。
首を傾げて新緑クマと冬色小鳥が自分のお腹を見上げてきたのがちょっと恥ずかしい。
「ご飯にするなの〜ご飯ご飯!」
照れ隠しに笑ってバタバタと台所へ走る。
小さい仲間が慌ててその後を追いかけて、色々な障害物を乗り越えてようやく辿り着くと、蘭が冷蔵庫から取り出した器を電子レンジへ突っ込んでいた。
本日の藤井家ランチメニューは『昨日のシチューを使った簡単ドリア』である。とろけるチーズを上に乗せて温めれば、立派な洋食の出来上がりだ。
熱々のドリアと小皿、スプーン、ミネラルウォーターをお盆に載せて、食卓代わりのコタツへ移動。
何か音が欲しくなってぱちんとリモコンで電源を入れると、テレビからは昼ドラの主題歌が流れ出してきた。
「いただきますなの〜」
「きゅきゅ〜」
「くるるん」
蘭にあわせて、コクマと小鳥も一緒に声を出す。
ずっと以前は、昼ご飯を食べるのはひとりぼっちだったせいでほんの少し淋しかったのだが、今はお留守番仲間が2名も増えて賑やかになった。
小皿に少しずつご飯を取り分けて、コクマと小鳥に振舞いながら、蘭は昼ドラに目を向ける。
ブラウン管の向こうでは、温泉旅館を舞台にしたサスペンス仕立ての確執がいよいよ本格化していた。女2人が男を挟んで火花を散らす様は、よく分からないけれどなんだか凄い迫力だ。
意味も分からないまま、純粋に興味を引かれてついつい見入る。
当然、ドリアを口に運ぶ手は疎かになる。
いよいよ激情に駆られた女将が、相手の女目掛けて近くに置かれた花瓶を振りかぶったその時、
ピンポーン。
ものすごいタイミングで、玄関から大きく来訪のチャイムが鳴り響いた。
ぴくんっと蘭の肩が跳ね上がる。
誰だろう。
誰だろう。
誰だろう。
泥棒とか悪い人とかだったらどうしようと少しだけ不安になりながら、そろりそろりと玄関まで足音を忍ばせて、うんと背伸びをしてドアスコープから表を覗き見る。
扉の前にはヤケに大きな青年がダンボールを抱えて立っていた。どうやら宅配業者のようだった。それに帽子の下から覗く犬歯にはなんだか見覚えがあるようなないような。
「藤井さーん、お届けものですよ〜藤井さーん」
しかもその声にまで覚えがある。
「誰だろう」
「きゅ」
勇気付けるように、下からコクマがぽむぽむと蘭の足を叩く。
「蘭、いるんだろう?」
「あ!」
自分の名前を読んでくれる、その相手が誰かを知って、蘭は今度こそ勢いよく扉を開け放った。
「よ。頑張って留守番してるみたいだな」
帽子のツバを軽く持ち上げてニヤリと笑ったのは、この部屋にいくつも美味しいものや素敵なものを運んでくれる、持ち主と自分の大好きなトモダチだ。
「どうしたなの?どうしておにーさんが『おとどけ』してくれるなの?」
「ん?ああ、今日の俺は宅配業者のお兄さんなんだ。トラック野郎と呼んでくれ」
そういって彼は驚く自分に軽くウィンクして見せて、一跨ぎで玄関に入ると、ダンボールを靴箱の前に置いて伝票とボールペンを蘭に手渡した。
「というわけで、こちらにお届けのサインをお願いしまーす」
「は〜いなの〜」
差出人は持ち主のパパさんだ。箱の中からは野菜や果物のよい香りがほわりと漂ってくる。
頑張って指で示された場所に名前を書けば、留守中の荷物の受け取りも完璧だ。
「じゃあな、蘭。アイツが帰ってきたらちゃんと渡してくれよ?」
「任せてなの〜」
「よし、任せた」
彼はもう一度ニカッと笑い、ぐしゃぐしゃと蘭の髪を掻き撫でるとアパートを後にした。
思いがけない訪問者についつい嬉しくなってしまう。
ワクワク感をそのままに重いダンボールを抱えて部屋に戻ってみると、いつのまにか昼ドラはお昼のトーク番組に変わっていた。
先程とは打って変わった軽快な音楽に合わせて、コタツの上では冬色小鳥が歌っている。
蘭も荷物を傍に置いて、一緒に歌った。
コクマも歌った。
それから残ったご飯をすっかり平らげて、食器を流しに戻したら、後は持ち主が帰ってくるまで蘭だけの時間だ。
ゲームをしてもいいし、ちょっとだけなら近所まで散歩に行ってもいい。お小遣いからお菓子を買ってもいい。
だが、今日はもう何をするのか決めてあるのだ。
「よーし。ニッキの続きかくなの〜!おーっ!」
「きゅー!」
ぐっと拳を上げて気合を入れる横で、コクマと小鳥も一緒に片手と片羽根を挙げて賛同してくれる。
「ではさっそくジュンビカイシなのー」
号令とともに3名は揃って隣の部屋へ突撃し、クレヨンと書きかけの日記帳、それから蘭専用のビーズクッションを分担して居間に運び込む。
そうしてザーッと全部を床にばら撒いて、自分もクッションをお腹の下に敷いて転がった。
コクマは蘭の隣に転がり、小鳥は蘭の頭の上から、色とりどりに描き出される世界を楽しげに覗きこむ。
「んーと、んーと、今日は巨大なお魚さんにお姉さんのねんがじょうわたしたトコを描くなの。クマさんたち、いっぱい描くなの」
新年早々、蘭は興信所の冷蔵庫からクマの森へ遊びに行った。
不思議なお茶やお菓子を食べて、美味しい御節も食べて、ぎゅっと抱きついてクマたち全員とご挨拶もして。皆とやった鬼ごっこもカクレンボも、そして新年が生まれる瞬間を丘の上から見れたのも、何もかもがすごく楽しかったのだ。
今年最初の思い出を全部しっかり残して置きたくて、蘭はここ数日ずっとこの大作に掛かりきりだった。
それでもまだまだ書ききれていないことが山のようにある。
「えーと、えーと……ここは何色にしよっかなー」
「きゅきゅきゅ」
コクマが散らばったクレヨンの中から桜色を握って差し出してきた。
「じゃあ、この色―」
にこ〜と笑って受け取ると、ぐっと握ったクレヨンでうんと広げた白い紙の上にぐりぐりと色を乗せていった。
お昼寝時間も取らずに、藤井蘭画伯とその弟子たちは、持ち主が帰ってくる日暮れまで芸術品の作成に没頭するのだった。
お留守番完了まであと4時間。
END
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