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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


それは夢 夢のまた夢 それは夢


 誰そ彼を過ぎ、逢魔の時を迎えた山の最奥は、雲間から姿を現した月の光で夢幻の世へいざなわれたかの如く茫洋と霞んでいた。その虚ろな世界に、ただ凄艶と色づいた紅葉の葉だけが色鮮やかに浮かび、夢と現を結ぶ階(きざはし)となっていた。

 はら…   はら… はら…

 舞い落ちる紅葉の中、一人の女が居た。
 しかし、ただ「女」と言い切ってしまうには、その女、余りにも風変わりだ。
 純白の小袿の上、扇のように広がった豊かな髪は黄金の絹糸のよう。薄化粧だというのにその肌は処女雪の如く白くきめ細やかだ。そして、広げた檜扇の陰から覗くその瞳は、全てを凍てつかせてしまうかのような冷たい蒼。
 女は、男ならずとも振り返らずにはいられない、とても美しい容貌をしている。しかし、それこそが異形とも言える数々の特徴と併せて、彼女の恐ろしさを引き立たせていた。
 この排他的な島国ではその容姿も能力も、異形の「鬼」としか称されることはなかった。
 たが女はそのことを恨んではいない。むしろ、好ましいとさえ思っていた。それは、自分の本質が「鬼」であることをよく知っていたから。先日も鬼は己を討ちにきた名のある武人の魂を喰らったばかりだった。
 だがしかし、鬼はまた、退屈も感じていた。猛々しい益荒男の魂は確かに鬼にとって美味である。だが、最近はその味にも慣れ、むしろ美味であるが故に、ほんの少しの魂の穢れですら許せなくなってきたのだ。
 だから、鬼は今回も、特別期待していたわけではなかった。
「今宵は珍しきことに客がある様子」
 鬼はくすと檜扇の陰で微笑する。
 その言葉に、幾分迷うかのような気配。だが、意を決したようにその気配の持ち主は鬼の目前に現れた。
 嘲笑うかのようにまた雲間に隠れてしまった月の悪戯に、その者の容貌は隠されて見えない。だが、その影法師から推測するに鎧武者の出で立ち。しかも、身のこなしからすると未だ二十ばかりの年頃の若武者のようだ。
「そこな女に問う。そなたが噂に聞く戸隠山の鬼か?」
 若く、張りのある声音がそう問うた。
 鬼はぱちんと手にした檜扇を閉じ、さやさやと衣擦れの音を響かせて立ち上がる。
「いかにも、私が戸隠の鬼」
 鬼の言葉に若武者の影は俄に腰を落とした。ちき、と刀の鯉口を切る音が嫌に耳についた。
 その時、強い風が吹き、雲間に隠れていた月が再た、姿を現した。暗闇に慣れた瞳には月の光ですら刺すように眩しく、二人の視界を奪う。だが、次の瞬間、月の光の下で見た若武者の姿に、鬼は思わず息を飲んだ。
(なんて、美しい子だろう!)
 若武者はとても美しい青年だった。萌黄匂の威(おどし)と鎧直垂が映える若々しい肌。きり、と高く結われた艶やかな黒髪と、強い光を宿した黒い瞳。引き結ばれた唇。整った鼻梁。だが、何よりも鬼にとって綺羅々々しく映ったのは、その魂の美しさ。清廉潔白そのものの純白の魂。鬼は今までに幾人の魂を喰らったか解らない。しかし、その数多くの中でも間違いなく一等の美しさを誇る魂だ。
(欲しい!)
 それは今までになかった感覚。
 鬼にとって男とは、美味なる魂を奪い取る相手でしかなかった。
 だというのに、この若武者に対して鬼が感じたのは、美しいものを側に置き愛でたいと望む気持ち。この若武者を側に置き、そして共に暮らしてみたいと…強烈にそう思ったのだ。
 それは、恋に似たものだったかもしれない。
 だが次の瞬間、鬼は瞳を閉ざし、ゆるくかぶりを振った。
(何を考えている。私は皆が畏れる鬼。そこらの生娘ではあるまいに、叶うはずもない願いに一瞬でも心奪われるなど…)
 次に鬼が瞳を開いた時、その瞳は決意に冷たく凍っていた。
 この若武者の魂も喰らわなくてはならない。だが、今のままの魂は喰らうには眩しすぎる。まずこの魂をほんの少しでもいい、穢さなくてはならない。
 さっきまでは少しの穢れでさえも許せなかったというのに、なんと因果なことだろう。
 鬼は自嘲的に微笑んだ。
「…私は噂に聞こえる戸隠山の鬼、つまりそなたを討ちに参った者! いざ尋常に勝負!」
 若武者はすらりと刀を抜くと、そう名乗りを上げる。
 尋常に勝負? 鬼はくすりと嘲笑った。
 次の瞬間、勝負はついていた。鬼は神の如き素早さで若武者の背後をとると、その長く鋭い爪を若武者の首に添えた。若武者が少しでも動けば、鬼の爪は容赦なく彼の咽を掻き切るだろう。
「…ぐっ…」
 若武者が咽を鳴らす。
 鬼はその様子にころころと微笑うと、その耳元に囁きかけた。
「どうした、私を討つのではなかったのか?」
「………………」
 若武者はきりと唇を咬み、視線だけで鬼を睨め付ける。
(そうだ、生に執着しろ。醜くも生き残れ!)
 鬼はそっとその指で若武者の滑らかなおとがいをゆるりと撫ぜ、そして、甘く誘うような声で再た囁きかけた。
「そなたは未だ若く美しい。だというのに無駄に命を散らすこともあるまい? そなたがもし私のものとなるならば、その命、助けて進ぜよう」
 これは一種の賭けであった。ここで若武者が鬼の誘いにのり醜く命乞いをしてみせれば、鬼は躊躇うことなく、その首を掻き切り、魂を喰らうことが出来るだろう。
 若武者はしばらくじっと鬼を睨め付けたまま、ぴくりとも動かなかった。だが、ふとその視線を外し、構えていた刀をだらりと垂れる。そして、こう曰った。
「…鬼よ、そなたも美しいではないか…」
「!?」
 若武者の言に、鬼は酷く怯んだ。
「か様に美しいというのに、何故鬼の道に堕ちたのだ? もし、そなたがその手を血に染めておらずにいたなら、私はそなたを…」
 若武者の拳が震える。思いもかけぬ言葉に、鬼は小さく首を振った。
(もし私が鬼になっておらなんだら、そなたは私を愛してくれたとでもいうのか? この異形の姿の私を?)
「だが、そなたが鬼である限り、私はそなたを討たねばならぬ!」
 次の瞬間、若武者は身体を思い切り撓らせて、鬼を振り返った。鬼の爪が咽を掠め、血が吹き出るが、若武者はそれをものともしない。そして、その回転に合わせて閃いた若武者の刀は、鬼の胴を逆袈裟懸けに斬りつけた。
「!!」
 その衝撃と痛みに、鬼はよろよろと後ずさる。胴から胸にかけて負った傷により、純白の小袿がじわりと紅く染まっていった。そして、仰け反るようにして地に倒れる瞬間、鬼はふと微笑ってみせる。
(ああ、魂は穢れなかった…)
 若武者の魂は穢れなかった。鬼の誘惑に屈することなく目的を遂げた魂は、ますます眩しく光り輝いていた。その上、鬼が彼に惹かれたように、彼も鬼に惹かれていてくれたという。
 これ以上の僥倖があろうか?
 音もなく舞い落ちる紅葉のようにふわりと地に倒れた鬼を見て、若武者はかくりとその膝を折った。
 項垂れるように鬼の顔を覗き込む。
 果たして、鬼の最期の貌はとても美しく、微笑んでさえいるようだ。

 はら…   はら… はら…

 鬼の亡骸の上にも降り積もる紅葉が鬼の赤く染まった小袿を彩り、まるで綾錦のようだ。
「…鬼よ、許せ。だが私たちが再た、輪廻によって巡り会うときがきたならば、その時こそは…」
 若武者はそう呟くと、鬼の冷たい手を握り、ゆっくりとその瞼を閉じた。


   ※         ※


「…の…めさん…」
 泥濘み始めた意識の隅で、「鬼」はその声をきいた。
 優しいけれど力強い、その声の持ち主を、ずっと待っていた気がする。
「…東雲さん」
 控えめに、優しく揺すられる体に、東雲・飛鳥(しののめ・あすか)ははっと身を起こした。同時にバサバサという音がして、自分の腹に乗っていたものが滑り落ちる感覚。その感覚に反射的にあっと声を出して脇を見ると、リノリウムの床の上にしなりとひしゃげて古びた文庫本が落ちていた。どうやら腹の上から滑り落ちたのはこの読みかけの文庫本だったらしい。
 半分凝り固まっていた体をぎくしゃくと動かして、床に落ちてしまった本を取り上げたところで、はたと気がついた。状況から見て、自分が店番中に本を読みかけたままうたた寝していたのは間違いない。その自分を揺り起こしたのは誰なのだろうか。
 ずり落ちかけた眼鏡を指で押し上げ、その人物が立っているだろうカウンターの向こうを見ると、そこには東雲を揺り起こしただろう手もそのままに呆然と立ち竦んでいる黒い服の若い女性。
「と、斗子さん…」
 丘星・斗子(おかぼし・とうこ)。この古書肆「しののめ書店」の常連である。
「あはは、みっともない所見せちゃいましたね」
 照れを誤魔化すように明るく言うと、斗子はふと口の端を弛め、くすりと笑った。
(あ、笑った…)
 表情の少ない斗子には珍しい笑顔に、東雲の頬も弛む。
 斗子の魂はとても美しい。若く美しい女性の魂は美しく美味なるものだが、特に斗子はそのまっすぐな心持ちのせいか今まで東雲が見てきた魂のなかでも一等の美しさを持っている。
 東雲はその斗子とその魂に恋に似た感情を持っていた。
「ごめんなさい、とても気持ちよさそうに眠っていらしたのに起こしてしまって」
「いえ、本来なら店番中なんですから」
 斗子が差し出した本のレジをうちながら、そんな軽い会話を交わす。
「それじゃあ、私はそろそろ失礼させていただきますね」
 買った本を胸に抱いて斗子はそう言うと、軽い会釈をしてきびすを返した。
「あっ…」
「えっ?」
 思わず、だった。何故かそのまま斗子を帰してはいけない気分になって、引き留めるように声をあげたのだ。斗子は不思議そうに東雲を振り返る。だが、東雲はその後に続く言葉を見いだせない。
「えーと…その…本、大切に読んであげてくださいね」
 口をついてでたのはどこか陳腐な気もする言葉で。
 それでも斗子は柔らかく微笑んで、頷いてくれた。
「…はい」
 その斗子の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、東雲ははあと大きくため息をついた。不自然な体勢で眠っていたためか、体が重い。心なしか肩も凝っている。小さく首を捻って体を解していると、ふと思い当たったようにさっきの午睡の中で見た夢に思いを馳せた。
(そういえば、不思議な夢だったな…)
 夢らしく、起きた途端に朧気に霞んでしまって細かいところまでは思い出せないが、とても懐かしくて、そしてどこか切ない、そんな夢だった気がする。
 夢の中の自分は何かをずっと待っていて、待っていて。
(そう、何かを待っていた)
 ひたすらに、一途に。何かを待っていたのだ。
 東雲はもう一度、ほ、とため息をついて、その蒼い瞳を閉じる。
(…夢の中の私は、今頃、待っていたものに逢えただろうか…)
 瞳を閉じたまま、東雲は願った。

(どうか、夢の中の私が今頃はその大切なものに出逢えていますように…)


<了>