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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


best days of one's life

 ヒュン、と鼻を鳴らした細い泣き声は、久住良平の耳でなければ捉える事が出来なかっただろう。
 良平は、今時現金支給のバイト料が入った封筒をジーンズの裏ポケットにねじ込むと、ひょいと転がるポリバケツを跨ぎ越して路地へと足を踏み入れた。
 込み入った路地と路地その間を抜けて、ビルの間を渡る風の悪戯か、耳に届いた微かな声の元を探して奥へと進んで行く。
「……お〜い?」
呼び掛ける声に反応したのか、キュ〜ン、と弱々しい鳴き声によし、と頷いて、良平は声から図った位置……生ゴミが溢れて蓋も閉まっていないバケツの中、左右の留め具でしっかりと蓋を固定された一つに手をかけた。
「見つけた!」
ポリバケツの底、踞る茶色の固まり……が、もぞと動いて良平を黒い瞳で真っ直ぐに見上げた。
 如何なる偶然でも、直立したポリバケツの中に子犬が入り込んで、中からしっかりと封をするなど有り得ない。
 人に捨てられたのか。
 よろ、と足を踏ん張って良平を見上げる子犬の瞳は、それでも人に対する敵意も憎しみもなく、ただ悲しいような黒に、彼の姿を映し込んでいる。
 閉じ込められてどの位になるのか……陽の差し込まぬ路地裏の寒さと、閉塞した空間の息苦しさ、そしてひもじさを思うと胸が詰まるようで、良平は痛ましい思いにポリバケツの底に手を入れる。
 その身体は片手で掬える程に小さく柔らかく、短く茶色い毛並みは足先だけ手袋を嵌めたように黒い、雑種の子犬だ。
 胸に抱き上げれば、ピスピスと鼻を鳴らして黒く濡れた鼻先を顎下に押しつけ、暖かい舌で喉を舐める子犬に、良平は笑い声を上げた。
「ハハッ、おいこら俺はお前の母ちゃんじゃないって……舐めてもおっぱいなんか出ないってこら」
ペロペロと良平の顎を舐め続ける子犬に笑って正せば、子犬はヒュゥン、と短く鳴いて首を竦めた。
「お前、頭いいなぁ」
その小さな頭を指の腹で撫ぜ、良平は貰ったばかりのバイト料の所在をポケットの上から確かめる。
「よし、腹減ってんならおにいちゃんが奢ってやるからな。ここで待ってろよ? 直ぐ戻るから!」
良平は子犬の脇を手で支え、家の犬にそうするように、しっとりとした鼻先を自分の鼻をすり、と擦って約束と好意を現わし、そっと子犬を地面に下ろすと、一転ハードル走の選手のように華麗なフォームで転がるポリバケツの群れを飛び越え、食糧を求めて駆けて行った。


 至近のコンビニで、良平が買い込んだのは幼児用のビスケットと牛乳である。
 パックのそれを電子レンジで温めて欲しいと頼んだのだが、そのままだと破裂すると固辞されるのに、店内にあったレンジ使用可のマグカップを併せて購入する羽目にもなったのだが。
 暖かな湯気を上げるカップを両手で包み、中身が零れないよう慎重に歩を進めて元の路地へと戻った……良平を迎えたのは、散乱する生ゴミ、転げるバケツに先以上に荒れた路地の風景だった。
「なんだよ……チビ? おいチビ何処行った?」
無自覚に嗅覚の精度が増し、腐りかけた有機物の匂いを捉えるのに良平は鼻の頭に皺を寄せた。
 それに混じる、人の……複数の男の体臭、その中に僅か、花のような香が混じるのに気付くがそれよりも姿の見えない子犬の安否が気にかかる。
「上手く逃げてろよ……!」
祈るような気持ちを声にし、良平はカップの天を片手で塞いでそのまま駆け出した。
 子犬の匂いを追ってあちらこちら、入り組んだ路地から、また路地へと抜けて行き着いたのは袋小路。
 其の乾いた地面に僅かに残った黒い沁みの前に、良平は無言で膝をついた。
 子犬の匂い……血の、匂い。そして死が持つ特有の、香。
 骸はないが、半ば野生の確信で以て、良平は子犬の死を知った。
 手の中のカップのミルクは冷め、掌を濡らすミルクが冷める、それだけの間に失われた命の重さが良平の心を沈ませる。
 何故、という思いと、連れて行けばよかったという悔恨と、そして子犬を誰が持ち去ったのだろうかと、疑問に彼は袋小路から遠ざかる子犬の血の匂いを追う。
 心ない人間の手で、骸すら悲しい目に遭っていなければいい、と願いながら薄まる匂いを追って行く……子犬を持ち去った人物は、結構な距離であるというのに交通機関を使わずに居たらしい。
 それが幸いして、ほとんど消えかけていた匂いを最後まで追う事が出来た良平は、緩やかな傾斜が暖かな陽を浴びる、土手にたどり着いた。
 緑が香る中に濃い、土の匂いと……子犬の匂いが混じって、片隅に小さく盛り上がりを見せる柔らかな土に気付く。
「……そっか、ちゃんとして貰えたのか」
暖かな日差しと土と、緑と。
 眠りを守る場所を選んで、与えてくれた見知らぬ誰かに感謝しつつ、良平はその墓標もない小さな墓に、ミルクの入ったマグカップとビスケットを供えてもう一度、子犬にそうしたように暖かな土を指の腹で撫でた。


 小さな出逢いに覚えた哀しみは、日常に追われる中にもふとした折に疼く。
 悲しいと思う自分を否定しないがそれに囚われる事はせず、良平はバイトに追っかけにと以前に増して忙しい日々を送っていた。
 追っかけ、とはいえ芸能人ではない。
 否、ある意味この上なく正しい芸能人か。
 追いかけているのは伝統芸能である能、それを生業とする家筋……同じ高校の上級生、氷川笑也。
 古典芸能など人生と無縁と思っていた良平だが、全校参加の文化祭の舞台発表で笑也の舞に一目惚れして以降、彼の人と為りを知りたいというファン心理に憧れの先輩の周囲をうろちょろしている次第である。
 が、憧れという言葉で一括りにしてしまうのは難か。
 人の中に居ても独りでいるような。表情の乏しさがそうと感じさせるのか、赤い瞳に時折過ぎる、痛むような色がそう思わせるのか……そう、放っておけないというか。
 拒絶されても懲りず、相手の迷惑も顧みずにひたすら押して押して押して……頑なな態度が人を嫌っているのではなく困惑に近いのだとか、意外と動物に優しいとか、年の離れた妹に甘いとか。
 そんな他愛ない秘密を一つ一つ、見つける度に笑也に一歩近付けるようで嬉しい。
 けれどその距離を一息に。
 互いを知らぬ頃よりも更に遠ざけたのは、良平の右腕だった。
 笑也の舞は魔を退けるという退魔の技……そうと知ったのは知り合って間もない頃、偶然知り得た真実だったが、態度を変えない良平を不思議そうに見た笑也の瞳が印象的だったのを覚えている。
 そして笑也が仕事に出ると知れば、叱られようがまかれようが。生で笑也の舞で見れる……基、何か手伝える事があるかも知れない。彼に万が一にも危険に陥らないとも限らない、と自慢の鼻を活かして影に日向につき従う所存の良平であったのだが。
 その日も、退魔に出向く笑也に同行を申し出て、いつもの如く断られても、めげず懲りずにこっそりと付いて行くのもまた常の倣いで、笑也の舞を堪能……否、邪魔に為らないよう、且つ有事に直ぐ対応出来るよう、良平は木立の高い位置を陣取って成り行きを見守っていた。
 けれど、笑也が舞の所作を取る、それよりも先に黒い影の固まりが風の素早さで笑也を突き倒し、体勢を整える間も与えずに幾度もぶつかっていく。
 相手の速さに翻弄される笑也に、良平はたまらず隠れていた木立の枝を蹴り、その反動を使って笑也の前に飛び降りた。
「笑也先輩!」
突如として割って入った良平に、笑也が何か言おうと息を詰めたのを気配で察するが、それに先んじる。
「俺が盾になるから早く!」
声と同時に飛来する影を、良平は腕で弾き飛ばした。
 ……その腕。
 切り裂く為に鋭利な爪は、引き裂く為に強固な指、決して人では有り得ない血で染めたように赤い豪腕へと軋みを上げて変じた右腕は、良平自身が常の姿と変わらぬだけに禍々しさが濃い。
 けれどそれで笑也が助けられるのだ、と異形の腕を振う内、背後で笑也の舞が術として完成し、水面に拡がる波紋を思わせて清い……花が香るようにあえかな温もりを伴って清浄な気が穢れを払う。
 そのぬくもりに抱かれるように消えて行く影に、良平は笑也を手助け出来た誇らしさに喜色満面で振り向いて、いつもの……否、それ以上に表情を欠いた赤い眼差しの眦のきつさにたじろぐ。
「笑也……先輩?」
邪魔をしたと怒っているのかと、思ったのだが、笑也の視線は良平の赤い豪腕へと注がれているのに気付き、慌てて身体の後ろに隠すが今更である。
「……人間ではなかったのですか」
その動きに腕を見詰めていた笑也の目が良平の、きょとんと丸い金の眼に据えられる。
「人間じゃないって……」
問いではなく断定……しかも侮蔑と敵意を含んだ声に、良平は眉尻を下げた。
 良平の出自はある機関の研究体……ワーウルフの遺伝子を人為的に埋め込まれた実験体、しかも失敗作として処分されそうになった所をすんでの所で逃げ出してきた身だ。
 人であるのかと問われれば、そうと胸を張れない。
 けれど。
「この世ならざる者が、何の目的で人に紛れているのですか?」
詰問の口調が悪意のみを断定して、人が好きで、今の生活が好きで……笑也が好きな、気持ちすら否定されるのがただ悲しく、良平は後ろに隠していた腕を支える力すら抜けて身体の脇に下げる。
 声を出そうと吸い込んだ息が、ヒュ、と喉の奥で鳴った。
「……人間じゃないかもしれないけど、生きてるだけで否定されなきゃいけないのか?」
言葉の間に涙が零れなかったのが……そして渦巻く感情に、叫ばなかったのが自分でも不思議な位に、静かな声が出た。
 息を呑んだ笑也の声をそれ以上聞きたくなくて、良平はその場から駆け出した。


「お〜い、良平よー」
「んあ〜?」
秋の日溜まりを求めて窓際に集る、級友に紛れた良平は呼ばれて答える。
「お前……なんかあったの?」
「何かって……何」
椅子に座ったままで桟に顎を乗せ、ぼへぼへと答える良平に手すりに肘をかけた友人はチラリと視線を流した。
「あ、氷川先輩」
何気ない一言に良平が動かないのを見て「ホラ」、と肩を竦める。
「飛んでかねーじゃん。ちょっと前まで尻尾ぶんぶん振って行ったのに」
「……」
聡い友人から顔を背けて、頬を桟につけて頭の重さを支え、笑也は物憂い息を吐き出した。
 あれからずっと。
 良平は笑也を追うどころか避けまくっているのだ。
 それより以前は探さなければ遭遇出来なかったというのに、会わないと決めた途端に曲がろうとした角の向こうに居るのに気付いたり。度々姿をみかけたり……人生って本当にままならない、と桟を涙で濡らしてみる良平である。
 そんな良平を気遣ってか、もしくは相手にするのが辛気くさいのか、友人は黙って隣に立っていたのだが。
「あ、氷川先輩」
と、彼が再び上げた声に良平は流石にかちんと来て顔を上げた。
「しつけーよ、お前……」
しかし其処に在ったのは手招きをする友人と他ならぬ笑也の姿で、良平は酸素の足りない金魚のように、口をぱくぱくと開閉させる事でしか驚きを示す事が出来ない。
 笑也が良平の教室まで出向くなど、初めての事で。
「……久住君。今から少し、私に付き合って頂けませんか?」
初めての笑也からの誘い……しかしそれはこの間の話の続きをするつもりなのだろう、と。
 断罪を覚悟した良平は、同意のついでにしゅん、と頭を下げた。


 笑也に伴われた道中は終始無言、良平は売られていく仔牛の風情で先を歩く学校指定の革靴の踵ばかりを見ている。
 電車に乗る間も俯いたまま、目的の駅からまた歩く際の沈黙に良平が仔牛から生殺しにされそうな蛇になりかけた所で漸く笑也は足を止めた。
「着きましたよ」
言われて初めて、水と草の香が強い場所に来たのに気付く。
「知人に教えて頂いた場所なのですが、久住君に見せたくて」
淡々とした声の誘いに顔を上げれば、眼下の斜面、川へと緩い傾斜を作る土手一面に彼岸花が咲き誇っていた。
「すげ……壮観」
 赤い、赤い花の群れは水面を渡る風に揺れて焔のように、けれど瑞々しい香を纏って熱はない……時に不吉と呼ばれる花であるのは知っているが、それは地獄の情景というよりも天上のそれであるようだ。
 その良平の思考を呼んだ訳ではなかろうが、笑也は水面の照り返しに彼岸花と同じ色の瞳を眩しげに細めて言う。
「知人からの受け売りなのですが……曼珠沙華は紅い花の他に、天上に咲く花の意味もあるそうです」
「へぇ……物知りですね。おじいさんですか?」
良平にとって、博識な存在は祖父……であるとされる、彼を拾ってくれた老人と同義だ。
「血縁ではありませんが。老人です」
何故かきっぱりと言い切って笑也は、真っ直ぐに良平に向き直った。
「先日、私は大変失礼を申し上げました……謝罪をさせて下さい」
言って深々と頭を下げる笑也に、何故か良平の方が慌てる。
「やっ、そんな俺の方が気が効かなかったってゆーか、こんなのが傍にいたら気持ち悪いの当然ってゆーか……」
そのしどろもどろな良平の言葉を、笑也が遮った。
「やはり、悲しませてしまいましたか」
自嘲的な良平の言葉に、笑也は更に深く頭を下げる。
「知人……私の武道の師なのですが。先日の件を話したら非道く怒られました」
笑也が頭を下げたまま語る顛末を聞けば、その老人は言ったのだと言う。
 身体を張った相手の腹を気にして、礼を欠くなんざとんでもねぇ。裏だのなんだのくだらない事に気を取られてねぇでその場で感謝するのが人ってモンだろうが、と。
 その物言いと頑固さに、良平は脳裏に禿頭なのに何故か白く長い髭を蓄えた強面の、筋骨隆々とした何故かトップレスな武道家の老人が腕を組んでいる様を思い浮かべる。
「そして人であるかどうかが重要なら、貴方に花を見せて……相手が心を動かすようなら私が全面的に悪いのだと。許しを貰うまで頭を上げるなと、申し渡されました」
笑也は深礼を保ったまま動かない……許さなければこのままなのかとちょっと悪戯心が起きもしたが、良平は慌てて笑也の肩に触れてその身を起こさせた。
「俺が勝手にした事なんで……許すも何もないですって」
謝罪を承けた良平に、笑也は真っ直ぐに立つと僅かに眼を伏せた。
「けれど、あなたが私を庇った事に、怒りを覚えたのは確かです……以前、未熟な私を助けて命を落とした子犬が、この、河原に眠っています」
 その言葉に、はたと記憶が蘇る。
 花の印象の強さに気付かないで居たが、ここは確かに……あの小さな犬が弔われた場所。記憶の場所を求めて視線を走らせれば、確かに其処には野晒しに古びたマグカップが、半ば地に埋もれるように茎の間に在るのを遠目に確かめる事が出来た。
 そうか、と良平は胸の内、記憶に小さな子犬に呼び掛ける。
 好きだと思ったヒトを、守れたのか、チビ。
 痛みと苦しみで生涯を終えず、あの子犬は、満足して笑也に看取られたのだ。
「その子犬とあなたが重なりました。わたしが術の未熟で傷を負うも、命を落とすも……それは自分の責任でしかありません。ですから今後一切、手は出さないで下さい」
その要求は、笑也が良平に初めて見せる矜持で、良平は一度肩を竦めた。
「そりゃ無理な相談ですって」
拒んだ良平を説き伏せようと、口を開きかけた笑也を制する。
「だって……多分、チビと一緒で。俺やっぱ笑也先輩好きですから」
声にした言葉は、良平の思いにかちりと嵌る。
 怒ればいいのか、笑えばいいのか……そんな複雑な表情を浮かべる笑也に小さく吹き出す。
 嫌われても、憎まれても……人でもそうでなくても自分の気持ちには逆らえないと、通した我を何れ花開いて実が出来るかも知れない。
 そんな思いを決意に、良平は憂いを払った心からの笑みを、笑也に向けた。