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目覚めと共に
もしかしたら、二度寝をした―――今朝は酷く冷えていていたし時間が早かった―――のが不味かったのかもしれない。
それとも、昨日夕食の後に冷蔵庫に残っていたプリン―――自分の分だと思っていたのだけれど―――を食べたのがいけなかったのか。
ひょっとすると、昨日学校の理科の授業中―――丁度昼食後の五時間目で陽光が暖かかった―――に、うとうとしてしまった天罰だろうか。
と、彼女は朝起きてから埒もなく思考を巡らせた。それにしては喜劇的だ、とらしくもなく自嘲的に笑みさえ浮かぶ。と、そのつもりだが、等身大の鏡に映る彼女は、それすら判別できなかった。
目を閉じて、いつもの自身の姿を思い描いてみる。
まず、青い髪。体型はどちらかというと細身で身長は高いほう。あまり日焼けしない体質なのか、白い肌に青い瞳。
いつも鏡に映るのは、そう言う姿のはずだ。そこで古いデザインのセーラーの制服に着替えるのがいつもの朝の風景。
しかし、今朝は違っていたようだった。
溜息を一つ。
壮絶な覚悟を決めて、彼女―――海原みなもは目を開いたのだった。
全体的に、若干身長が縮んでいるようだ。短い足が鳥類に良く似ているのは気のせいだろうか。全身をくまなく白い毛皮、否、羽毛が覆い、それは顔にまで及ぶ。顔はよく見れば人間に見えなくもないが、どう見ても、口元が嘴に見える。頭の上には赤いトサカ。髪は辛うじてある。その顔を触ろうとして手を伸ばすと、それは羽根だった。
どう見ても、すかしてみても、振ってみても、鳥類の羽だ。思い切って鏡の外でも見てみるが、羽以外の何者でもない。ちょっと後ろの向いて見返りで鏡を覗くと、腰からヒップにかけて、尾羽なんかが生えている。
直立二足歩行ができる。とりあえず、翼は手のように動かす事もできる。が、どうも勝手がわからないし、指のように細かく動かすことは出来ない。
ハンガーに掛けてある制服に目をやり、一応翼を伸ばした。が、その翼が袖に収まるとは到底思えない。さらに、スカートなどどうやって刷けばいいのか。実際の体型から大分腰の辺りがぽっちゃりとしている為、制服に着替える事は断念せざるを得なかった。
パジャマはどうしたのだろう、とベッドを恐る恐る振り返る。直ぐに彼女は後悔した。それらははぎれとも呼べない布屑に変化している。あえて利用しようというならパッチワークが無難なラインか。
どうも、寝ている間に体型が変化し、パジャマは耐え切れなくなり破れたようだ。深く考えたくなくなって、みなもはこの件を忘れる事にした。
制服が着れないのでは学校にも行けない。無断欠席は真面目な彼女の良しとする所ではなかったので、連絡を入れる事にした。嘘をつくのは躊躇われるが、取り合えず熱があるとでも言っておこう。こんな日に限って、家族は皆出払っていたりする。
とりあえずみなもはふすまに手を、否、翼をかけ―――
「コケッ!?」
羽根ではものはつかめない。とうぜん、ふすまも開けられない。更に、自分の口から飛び出した言葉にも驚く。
「コケっ!? コケケっ!?」
本人は、「嘘っ!? どうしてっ!?」といったつもりである。因みに第一声は「あれっ!?」であった。日本語が喋れない。それは結構ショッキングな出来事である。
ふすまは足と嘴を使い何とかあけた。足がつったのは秘密だ。何時もの風景が少し高い。その違和感を吹っ切って、みなもは電話に翼をかける。そう簡単に取れない事は解っていたので、両方で支えるようにして何とか取り上げた。電話台に置いて、すぐさま耳を添えられるように準備。次に連絡簿で学校の番号を確認、素早く嘴で番号をプッシュ、と。変に順応力の高いのも考え物だと思ったが、今は深く考えない。
プルルルルル・・・プルルルルルル・・
暫く電子音がして、「おはようございます」と爽やかな声が聞こえた。聞き覚えのある学年主任の先生の声に、みなもはほっとして挨拶を返した。
「コケッコッコ」
相手のリアクションを待たずに電話を切る。悪質な嫌がらせだと思われただろうが、今のみなもに相手の心理を省みて労わる余裕は流石になかった。
そうだ、喋れないんだった。
痛い再確認の瞬間。
ツー―――――……と事切れた音を響かせる電話に背を向ける。一瞬受話器を戻そうかとも思ったが、出られないならどっちでも同じだ。本来学校に行っていて、この時間にはいない予定である。重要な用事はかかって来ないはず。単純に割り切って、みなもは朝食を食べてしまう事にした。
が、如何せん料理などはもってのほかである。この姿でどうやって料理をするのか。パンを焼くくらいなら、と思ったが食パンの袋を止める針金に挫折。いっそ破いてやろうかとも思ったが、残ったパンが固くなる、と余計な理性が彼女を留めた。
仕方がないので、昨日の夕食の残りを食べる事にする。確か、作りすぎたパスタが残っていたはずだ。多少風味が落ちても、今は背に腹は変えられない。
「コケ」
よし、と呟いたつもりで彼女は意を決して冷蔵庫に立ち向かう。ふすまとは違い、冷蔵庫の扉は重い。扉にもペットボトルだとかドレッシングだとか、色々と細かいものが入っているから当たり前ではある。普段はまるで意識しないその事が、嫌に鮮明に感じられた。
とりあえず、普通に翼をかけて引っ張ってみる。
無理。
嘴で取っ手をくわえて引っ張った。銜えられない。
無茶。
足で引っ掛けて開こうとする。が、足が届かない。
無意味。
なんだが泣きたくなってきた。鳥類の体とはかくも不自由なものだろうか。と、そこでみなもは閃いた。彼女は、列記とした人間である。少なくとも、十三年間はそのつもりで生きてきた。ここは、過去禁断の知恵の実を食して身につけた、知恵を使うべきである。
みなもは早速リビングを見渡し、あるものに目をつけた。たまたままだ片付けられていなかった、洗濯物。それも、スウェットパンツ。嘴でつついて、強度を確認し、彼女は銜えて冷蔵庫の前々で運んだ。
それの片方を取っ手に引っ掛ける。慣れてきたのか、意外に簡単だった。丁度股の辺りで引っ掛かった恰好のズボンの裾をまとめて銜え、後は一気に引っ張る。
床に爪が擦れて、傷がついたのも秘密にしておきたい女子中学生の心。
パカ、とあっけなく開いた。努力の末の勝利。感動もひとしおである。閉まってしまわないように急いで中に頭を突っ込んで、目的の品を探した。
良く冷えて若干乾いたパスタが、ラップに包まれて真ん中の段に置いてある。これ幸い、とみなもは翼を伸ばし―――つかめないことを思い出した。
銜えて出す事は不可能。確実に落とす。いっそ朝食を抜くか、と思いもしたが、朝の食事が一番大切だと常日頃から言われているし、体はしきりに空腹を訴えてくるのだから、その選択は却下。
では、どうするか。実は考えるまでもなく結論は決まっている。ただ、その事実から逃れたいばかりに、思考を飛ばしているだけだ。
逡巡は時間にすれば短かった。観念したようにみなもはきっ、とパスタを睨みつける。パスタの鮮度と風味を守ってくれているラップが第一関門。
割りと広くなっている段に頭を突っ込み、ラップと苦戦した後、彼女はパスタを”啄ばんだ”。その姿を客観的に考えたくないので、意図的に思考をずらす。
冷蔵庫の中はすっかり常温になってしまった上、パスタの飛び散った後が残ったが、今の姿では掃除も出来ない。
「コケッコッコッコケケコケ」
戻ったらちゃんと拭きますから、と呟いて、彼女は冷蔵庫を閉じる。
戻れるのかどうかは、今は考えまい。
体を起こして二本足で立ち上がり、現状を再確認。
朝起きたら、鶏人間になっていた。
実際言葉にすると空しさが突き上げてきて、彼女の精神を蝕む。無断欠席。サボり。その辺の言葉は、彼女とはあまり馴染みがないものなため、実際サボってみるとする事も思いつかない。
予習を、と一瞬脳裏に浮かんだが、この状況で教科書開けるだろうか。答えは言われなくても否だと解る。
では、どうするか。
というか、何が出来て、何が出来ないか。
それの見極めが、問題であった。
洗濯物が溜まっていたので、やってしまおうと思った。思ったのはいいが、行動に移すのが物凄く難しい。いつもは指先一つの作業も、身長が足りないわ、翼が器用に扱えないわ、で、四苦八苦。第一、どうやって洗濯物を選別して洗濯機に入れるのか。嘴で銜えるには限度がある。他人の下着はもとより、自分の下着だって銜えている様は立派な変態さんである。
それを自覚すると作業をする気が一気に失せた。それでも奮い立って選択を続行しようとしたのは、他にする事がないからだ。
しかし、断念せざるを得なかった。
洗剤が、高い位置の戸棚に入っている。いつもなら、つま先立ちをして手を伸ばせば届く距離。その一メートルが絶望的に遠い距離だった。
「コケ……」
あぁ、ともれた嘆息も、殊更に彼女を沈ませる結果となった。
何時までも凹んでいたって始まらない。みなもは持ち前のポジティブを発揮して、立ち直った。少なくとも表面上は。誰も見ていないのだから、どんな失態を演じたとしても失笑を買うことはない。当たり前だが、その事実はとても彼女を鼓舞した。
そうとなれば、次は掃除だ。最近あまり掃除機をかける機会がなかったので、部屋の畳もしっかりと掃除機をかけ、良く絞った雑巾で拭いておきたい。時間があるなら、居間も―――と、そこまで考えてから、彼女は我に返った。
すなわち、「鶏人間」としての彼女に。
そんな事、できるわけがない。
どうしようもない事実に打ちひしがれながら、それでも果敢に掃除機へと挑む。掃除機だけでもかけれられれば勲章ものである。
押入れの下段に入っていたことから、掃除機は早々に取得。しかし、掃除機のコンセントコードは巻き取り式だった。抑えておかねば直ぐに戻ってしまうあれである。嘴と手の役割を果たすことの出来ない翼に、その障害はあまりに高かった。
結局、乾いた雑巾で―――蛇口が捻れなかったのだ―――床を拭き、心持ち窓も拭いて。
掃除を追えた事にしたのだった。
結論的に、人間的な文化生活は何一つ出来ないと結論し、みなもは酷い虚脱感に襲われた。座り込んでしまえば、何をする気にもならない。
時間はお昼前だが、昼食を準備できる訳もなく。場所は窓の傍で。
春を迎える日差しは温かい。
もう、寝てしまってもいいですよね。
口を開けば鶏の鳴き声に打ちひしがれるだけだと、彼女は既に学んでいる。
何もかも諦めたような表情で、彼女はその場にうずくまった。嘴がたたみに刺さりそうだったので、横に寝転がる。
そうすれば、後は全てがどうでもよかった。
こうなってしまった理由も。
そこにあった格闘も。
今はただ、静かな眠りだけを教授したい―――。
夕方、家族の帰宅で目覚めたみなもが、全裸姿で眠っていた事に気がつき慌てて部屋に駆け込むのだが。
今の彼女は、とても穏やかで、あどけない表情で眠っていた。
END
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