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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


閉ざされた目蓋


 返せ……返せ……それは、わしの…………
 返せ……、わしの……、
 …………。

 返せ、と囁く声は、日増しに大きくなってきている。近づいている、と言うべきか。しかし、何処から沸いて出てきているものなのか、まったくもって見当がつかない。鬱々とした暗い声には、深い憎しみと怒りがあった。恐るべき声は、顔の広いバルコフ・クロガネにとっても、聞き覚えのないものだ。彼は夜な夜なこうして、暗闇の中、見知らぬ何ものかに脅かされ続けている。

 返せ……返さぬか、返せ……。
 わしは……
 おまえをとり殺す。

 返せ。

 暗黒の牙が黒く輝く。バルコフの身体は、動かそうと思っても動こうとしなかった。彼の身体はもはや彼のものではなく、何ものかの意思に自由を委ねられている。今や牙は容易くバルコフを捕らえ、噛み砕き、飲みこんでいた。宇宙の無へと、還していくのだった。

 しかし、バルコフ・クロガネは朝の光に救われる。
 彼は汗みずくになって目覚め、ベッドの中で、今日の夢がようやく終わったことを知るのだった。


 バルコフを苛む悪夢は、数日前から始まっていた。ちょうど、日本の自宅に戻ってきてからのことでもある。
 自分の邸宅に住む使用人や子供たちが、いわゆる普通人ではないことはバルコフ自身よく心得ていることだ。ここに普通人が住めば、悪夢のひとつやふたつは見るかもしれない。しかしこれまで、バルコフが夢見の悪さに悩まされることはめったになかった――この家は紛れもなく彼の自宅であり、世界の中で、彼が一番安らげる空間なのだ。
 何かが、バルコフ・クロガネの周囲の環境を変えたのは間違いない。それも、つい最近に。
「おはよう、花霞……」
「おはよ、パパさん! わあい、まだ出かけ……てなかったん……だね……」
 寝巻き姿のバルコフを出迎えた彼の娘は、すぐにその顔色を変え、声の大きさを落としていった。
 血は繋がっていないが絆は固い親子だ。賈花霞は、父の様相に息を呑んでいた。
「ど、どうしたの、パパさん?」
「どうした……とは?」
「えっと、何か、や……やさぐれて……ちがうや……何だっけ……」
ふさわしい日本語がみつからない。バルコフは自ら助け舟を出した。自分のいまの状態はよくわかっているつもりだ。
「ひょっとして、やつれた、かね」
「あ、うん、そう! パパさん、すっごくやつれてるよぅ」
「そうだろうな……そうだろうよ……」
 バルコフは肩を落とし、猿人ばりに背を丸め、のろのろと広い食卓につく。食卓には、朝食にしては豪華な食事(一般家庭から見て豪華なものということで、この家ではいたって普通の朝食だった)がすでに用意されていた。
 ――あ……。
 父の背を見送った花霞は、思わず目を細め、眉根を寄せた。はっきりとしたものではなかったが、彼女には見えたのである。父の背に絡みついた、ゆらり、と揺らめく赤紫の煙が。それは、妖気というものだ。
「ねえねえ、パパさん……」
「……ん?」
「今日はおしごとお休みしたほうがいいとおもうな。すごくかお色わるいもん。おきゃくさんと会って、おはなしするんだよね?」
「ああ、今日は……そうだね」
「今日は土よう日だよ。おやすみしてもいい日なんだよ、パパさん」
「うん……うん」
 生返事をしながら目玉焼きをつついていた(まさにつついていた「だけ」だ)バルコフは、ぴくり、と突然静止した。電池が切れたロボットのようなストップモーションぶりに、見ていた花霞も凍りつく。
「お客さん……。そうだ、客と会ったんだ……。日本に帰ってきて、すぐに――」
 バルコフの脳裏に、その日の記憶は鮮明によみがえる。


 東京郊外の、知る人ぞ知る高級料亭の席でのことだ。
 バルコフの前に差し出された壷は、なるほど、見事なものだった。古い歴史を持っているのは疑いようもないが、日本のものとも、半島のものとも、大陸のものともつかない面妖なつくりと柄の壷だ。しかも、蓋がついている。
「これは面白い。長いこと生きてきたが、見たことのない柄だ」
 壷を差し出したバルコフの知人は、少しばかり誇らしげに胸を張った。
「そうでしょう。しかし、収集家の間ではまぼろしの逸品として噂だけは流れているのですよ」
「ほう!」
「クロガネさん。あなたには先日、たいへんお世話になりました。お礼にこれをお譲りしましょう」
「いいのかね! あの件のことは、何もきみが気に病むことなどないのに」
「わたしが持っていても、宝の持ち腐れというもの。クロガネさん、あなたはこの壷を持つだけの『器』をお持ちですよ」
 バルコフは嬉しかった。壷はすでにうなるほど持っているのだが、目の前の壷にはえも言われぬ魅力があり、バルコフはそれにすっかり憑かれてしまっていたのだった。彼は手を伸ばし、壷の蓋を取ろうとした――
 そのとき、ふたりの席に、料理が届いたのである。


 考えてみれば、いくら仕事で助けてもらったからといって、まぼろしの逸品と謳われる壷を他人に譲ったりするだろうか。思わずバルコフは疑心暗鬼の銘にとらわれた。
「……壷だ……」
「え?」
「あの壷を貰ってからだ」
 バルコフあてに仕事がらみの連絡が入ったのはそのときだ。花霞の父は、携帯を片手に、青い顔で出かける支度を始めた。電話の応対に追われながら、父は花霞への挨拶もそこそこに、自宅を出ていってしまった。
 クロガネ邸には、主の身を案じる使用人たちと、父の身を案じる花霞が残された。
「だいじょうぶかな……パパさん……」
 いつもなら頼れる兄も、合宿で明後日まで留守だ。
 今にも倒れそうな顔色で出かけていった父の背中を思い出し、花霞は顔を曇らせた。

 宿題を終えたあと、花霞はそっと父が収集した骨董品がおさめられている部屋に忍びこんだ。父が食卓で「壷」と呟いていたのを、彼女は聞き逃さなかったのだ。普段、特に厳しく入ることを禁じられているわけではないが、花霞とその兄がなるべく近づかないようにしている部屋がある。いくつかある父の私室が、それだ。
 その中でも、この収集物が並ぶ部屋は、もっとも花霞にとって縁遠い部屋だった。この中にあるものがどれもおそろしく高価であり、どれもが父の宝物であることを、よく知っているからだ。
 父は、「壷」と呟いた――きっとそれは、この部屋にある。
 花霞は目をこらした。父の背中に絡みついていた赤紫の妖気。それを見出すのはおそらく容易い。囁き声、恨み節、怨嗟の唸り、その何もかもが、花霞の運命にこれまでずっとつきまとってきたものであるからだ。
 ――あった……。これだね。
 つい最近手に入れたものなのだろう、壷は比較的入り口の近くに置いてあった。ぬらぬらとした妖気をまとい、それはじっと声を殺している。
 花霞はごくりと固唾をのむと、蓋に手をかけた。
 開けた。
 壷の中からの視線が、花霞を射抜いた。


 バルコフは、夕方には自宅に戻ってきた。彼の帰宅時間にしては異例の早さだ。顔色は戻っておらず、彼は使用人に夕食は梅干粥でいいと伝えると、すぐに自室に篭もろうとした。
 そんな父を呼びとめたのは、花霞だ。
 彼女は強張った顔で、疲れ果てている父を引っ張り、自分の部屋に連行した。
「パパさん、おねがいがあるの」
「……何だね?」
 疲れてはいたが、父は娘を無碍に扱いはしなかった。彼女の視線に、ただならぬものを感じていたし――それが彼の性分だったからだ。
 娘は背伸びをして、身体をわずかに屈めた父に、ひそひそと耳打ちした……。


 草木も眠る丑三つ時に、招かれざる客がクロガネ邸に近づきつつあった。警備はそれなりに厳重だが、その存在は容易く門をくぐった。動く影を目で追いながらも、門衛は何もしなかったのだ。
 黒い影はドアをすり抜け、クロガネ邸に侵入した。
 足音すら持たない影ではあったが、鬱々とした囁き声が、常にかれの周囲についてまわっている。
 かれは、返せ、返せと訴えている。
 這いずるようにしてクロガネ邸の広いロビーを徘徊し続ける影は、不意に、ひたと止まった。
「かえしてあげる」
 囁くかれに、囁きかけるのは、もの言う手蘭・賈花霞。
 バルコフ・クロガネが、不可思議な文様の壷を抱えて、彼女の後ろに立っていた。
「これはきみのものだな」
 彼は、苦笑いを浮かべて言った。
「私に悪気はなかったのだよ。だからきみに返さないつもりはない。ただ、返すから……これ以上私を祟らないでくれたまえ」
 かぱっ、とバルコフは壷の蓋を開けた。
 壷の中の視線が、影を射抜く。

  おお……おお、

 影は頷き、声を上げる。

  わしの……わしの……。

 影は手を伸ばし、壷の中に手を差し入れた。


 首のない影だった。


 壷の中のものは、随分と長い歳月を経ていたようだ。影が探し求めていたものは、すっかり干からび、縮んでいた。壷におさまってしまうほど、それは小さくなってしまっていたのだ。

  まさしく……わしの……わしのものだ……。

 すでに影は、渇望するのみの存在と化していたらしい。身構えていた花霞は、徐々に表情をやわらげていった。
バルコフと花霞をそれ以上恨むことも、礼を言うことさえないまま、囁く影は静かに消えていった。
 バルコフは壷の蓋を閉め、溜息をつく。
「しかし、花霞。おまえは優しいね」
「そうかな?」
「おまえなら、あんな幽霊も、ばっさり斬ることが出来るだろうに。とり憑かれて疲れてはいたが、私だって――ああ、いや、ともかく、おまえは力で解決はしなかった。それは優しい証拠のようなものだよ」
「ちがうよ。やさしく『なった』の」
 花霞はふるふるとかぶりを振った。
 自分で自分の首を壷に入れることが出来るだろうか。いいや――どんな奇術師にも出来ないことだ。
「二回も殺されること、ないよ……」
 目を伏せてそう呟いた彼女は、くるりと表情を変えて、父の腕にしがみついた。
「コレクション、ひとつ増えたね」
「そうだな」
 父は娘の頭を撫でた。そうして、親子は微笑みあいながら階段をのぼる。
 バルコフはけして、その壷を手放さないだろう。




<了>