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世界中のこの二人が為に
Saint Valentine’s Day
西暦三世紀のローマ、愛する者が居る為に兵士へと身を投じぬ若者を狩る為、結婚を禁じた時代。
バレンチノという神父が、居た。
あんまりな人間の仕打ちを、神の名が下、当時、迫害されていたキリスト教にて、こっそりと、内緒で、兵士達に婚姻を結ばさせて。花に水を愛に自由を。
露見すれば、ああバレンチノ、殺される。
だけれども彼の意思による行動は透明に継がれ、彼が処刑された日に、祭事の名はルペルカーリア。男の名前が書かれたカードをくじ引いたならば、その名の者と祭りの間、あるいは祭りの後に再び祭りが来る一年間供に過ごすという、
五百年くらいになったら、風紀の乱れを懸念して、クジに書かれる名前は聖バレンタインに変り、その名を引きしは、彼を見習い聖人らしく生きるようという、そんな儀式に変って、そして、
次第に、カードや贈り物を交換するようになる。愛と感謝に満ち溢れる日となり、
、
断じて、チョコの甘き夢を恋に託す日などでは無い。
◇◆◇
二日前。
1958年に製菓会社が仕掛けた計画は、失敗と挫折で練られた土に遂に実を結び、今ではサンタの服が赤いよう、二月は恋の季節となる。その実が商戦の為の収穫物ならば、商い、菓子メーカーのみならずイベントを利用するのは摂理であって、
それは、小さな花屋も、変らない。数藤明日菜のアーエンネルベ――
ただし別に大々的なセールを銘打つので無く、入荷する花の品揃え。恋の捧げ物も最近は、他の国を見習ってかチョコだけじゃなく、花を供する事も多いようで。だから、せつなる願いにはこの花だし、日ごろの感謝にはこの花だし、
「それでしたら」
女子高生、月にニ、三度、帰宅途中花を眺めていた彼女の、
細い糸のような《彼》への想いを、微笑みながら聞いた後、
「この花はいかがですか?」
そう言って、マフラーを巻いた女子高生に見せる蕾、決戦の日にその真なる色を咲かせ、きっと相手の心に、貴方の思いと同じよう映ると。
ソムリエのようにぴったりの選択だったのか、彼女は抱きしめるように受け取った。花はけして安くない、少なくとも、学生の身分にとっては。その値段よりも彼女の気持ちが勝ってる様子を、穏やかにみつめる彼女。代金を受け取ってから、レジで計算をしてる所に、
明日菜さんは、誰かあげる人は居るんですか?
唐突にそう聞かれると指はとまってしまうくらい。けれど、「……居ない、ですね」
そう、言葉を返す。けど。
頭によぎっていた。
彼の顔、姿、名前、……存在、
、
食われるにしか過ぎない自分との関係。
……けど、
だけど。
◇◆◇
それは何処の話だろう。
二日前の夜から、ある菓子作りの準備を始める。
頭の中によぎるのは、彼の顔と姿と名前と、存在。
◇◆◇
一日前。
例えばこの日が休日だったとしても、何かの事情で《学校帰り》というのは有り得る事であり、だからその事は道端の石として、
道端のシロツメグサのよう、気に留めておくべき事は、昨日訪れた少女よりもずっと常連な、
橘都昏について。
凡そ彼の少年というものは、端的に言えば中性的な、小難しくいえば性の範疇から抜け出した美しさを発している。けれど、神話の中で無く、学生としての日常に溶け込んでいる。日常なる暮らし、
この事が、自分に似つかわしくないというのは、惨劇のように理解してるのだけど。
それでも帰宅途中、都昏は明日なの花屋へ通っていた。まるでこの人の前だからこそが、人間らしくありたい理由かのよう。
花をつけないサボテンの、柔らかい針を触れず眺めている時だった。
「明日はバレンタインデーですね」
橘都昏はどう応えた。
少なくとも、
「……そうですね」
数藤明日菜には、その返事を供にした横顔が、とてつもなく興味無さげに映った。温度差がある。まさに明日がある者と、明日が無い者のような。ただ特別意識があるかって事なのだけど。
「都昏君は、いっぱいもらえるんでしょうね」
そう言って笑って、そこでこの話題は終わりにした。やがて彼も会釈一つして流れていく、帰っていく。
◇◆◇
彼女の居ない場所での話。
一日前の夕方、商店街のチョコ売り場を見て、
何処かの花屋の顔を思い浮かべて、紅潮する君。
◇◆◇
当日。
◇◆◇
朝、バレンタインデーの朝、テレビのスイッチを告げれば、今日は何の日か番組で否応無く知れる朝。数藤明日菜はテレビを付けていない、けれどエプロンを付けて、この日が何かを知っているゆえの事を、
(結局)結局、(作ったけれど)丁寧にラッピングまでした、甘い甘いチョコレート。スイーツは口の中で幸福となる、ビターはそっと大人を教える、飾りつけは胸にパレード、想いよ、歌のように伝われ、って、目前に置かれた物は唯の菓子じゃない事は。バレンタインが生み出した、千手でも数えられぬ意味を持つという事は、
でも結局、一本の角で数えられる想いを、込めているという事は。それは甘くも、実に厳しい、神の試練にも似た。
けれど、作ったけれど、
渡すには――数藤明日菜が迷う理由は、
勇気の、有無じゃなく。
「……私みたいな」
苦笑する、
「おばさんにもらっても、迷惑よね」
十年という年齢差は。
……それも、彼はまだ十四だ。二十と三十なら、愛という言葉が全てを埋めるかもしれない。十四と二十四。愛があるとしても、あの年頃の少年はまだ恋が相応しく。だから、
おばさんに恋するなんて、物語にも少ない話。
あげたって、戸惑うばかりで。都昏君は優しいから受け取るだろうけど、けど、
どんな顔でチョコレートを齧るか。
それを、想像したりする。そんな顔で、目の前の物をみつめる。時計の音が聞こえる。
時計の音が、聞こえる。
◇◆◇
学校にて。
それは本人とっては唐突で、だけど渡す者にとっては兼ねてより。幾つもの、幾つもの想いは、あるいは軽い気持ちで、もしくは渡すという行為で満足する為、けれど中には純粋なひたすらもあり、とりあえず少年は、
橘都昏は通常的な考えによれば、実に羨望の的であった。
いくらかの、まぁその多くかは俗に言う勝ち組なのだけど、いくらかの意見として、逆にあれだけ心を貢がれるのは辛いよな、とも言われて。
当人がこの事態にどう想っているかは、周囲は知れない事である。負け組の輩はそんな相手の気持ちを想うより、猛烈に嫉妬の火を燃やす事が本道な訳だし。
だけど、渡す者は、知りたい。
自分をどう想っているかを語れば、貴方がどう想っているかは、せつに、せつに知りたい事。宇宙の果てよりも貴方が気になる。
、
一人の少女が、今朝、“言いつけどおりに水をやってくれたら、また陽をあててくれたならば、貴方はこの日を選ぶよう”まるで誰かに言われたように、今朝、見事に咲いた花と供に、小さなチョコレートを少年に捧げる。
その花は、見覚えがある花だ。
そういえば昨日は見当たらなかった。そう、都昏の思考は飛んでいた。けれど、
目の前の人を無視していいとは、流石に彼も想っていなく、校舎裏での告白に対して、橘都昏は、彼は、
彼は、
◇◆◇
それは確実にこの世界での出来事。
この時の話。彼女は走っている。走るなんて、何時振りだろう。
私はなんで走っているんだろう。走って、走って、
◇◆◇
走って。
いた。
数藤明日菜は。
花屋の仕事も手につかなかった、客からも、そして並ぶ花達からも心配された。水をやりすぎるって、とても可愛そうな事をした。けれど頭によぎる、いいえ、もうよぎる事無く頭の中にずっとある、彼の顔、姿、名前、存在。どうしよう、この想いは。この気持ちは。
24歳に、恋は相応しくないのかもしれない。少なくともそう彼女は思った。
だからこの思いを愛にしよう、愛であるなら許されるはずだ。親を愛すように、隣人を愛すように。なればこそ、
手に抱えられる黄色の花束。このバレンタインデーの誕生花、アカシアの花。
花言葉は秘密の愛である。
だから、それを理由にして、それを渡す理由にして。ただ菓子を渡すだけの行為を、ここまで心を動かすイベントにした陰謀。
けれどその陰謀に、多くは怨嗟の声をあげようとも、多くは感謝している。
切欠への感謝。
◇◆◇
下校時刻は過ぎている。
校庭では、クラブ活動が盛んに行われている。校舎にはまだ幾つかが残り、バレンタインデーの風景が、少しずつ、少しずつ、行われている。淡い希望が絶望に変り始め、また、底知れぬ絶望が歓喜の希望にも変ったり。まるで、今までの青い空が、冬の夕焼けに変るような。
紅の下で、橘都昏も校庭に居た。といっても校庭と言うには、あまり他と繋がってない場所。ようは視線に晒されにくい場所。
誰かに呼び出された訳じゃなく、唯一人になりたかったのである。騒乱は余り自分には優しい物では無い。いきなりクラスの男子の大勢に、クラスの何人かを含め自分が裏切り者め! と叫ばれたのも慣れなかったし、お前らにはけしてラーメンを奢ってやらんとか言われ、彼らが涙ながらに走り去っていたのを眺めるのも、慣れなかった。
お祭り騒ぎというのは、本来、自分にとっては異国のようなもので。そう溜息を付く。
けど同時。
その異国に、憧れを、今持っていた。それは他愛の無い妄想だ、自分で自分が馬鹿らしく、許せなくなる想像だ。
(何を考えてるんだ僕は……)
興味の無い事だって、あの人に聞かれた時も思ってたじゃないか。……、
――いっぱいもらえるんでしょうね
あのセリフ、あの人はどんな顔で言ったんだろう。何時もどおりの笑顔? きっとそうに違いない、……なのに、橘都昏はもしそれ以外だったら、と、思った。もしそれ以外なら、もし苦笑であり、もしかして、
寂しい顔だったら。
(……考えるのを、やめろ)
自分で自分に命令する。そんな事は起こりはしない、彼女と僕とは。そう思って、今日はまっすぐ家に帰ろうと、歩き始めようとした時、
「みつけた」
完全に停止する、都昏。
けれど声は止まらない、息切れで弾む呼吸の音も、止まらない。それは聞こえる、鼓膜を揺らす、橘都昏に次のように思わせる。(まさか)
まさか、って、けど、
事実である。「明日菜、さん」
振り返れば彼女が居る。右腕に花束と、何か包みを抱えた彼女。
それがチョコレートである事は――
「あの、ごめんなさい、学校まで来ちゃって……」
「あの、今無理して喋らなくてもいいですから」
未だ苦しそうに息をしている彼女が、そうですねとまた言った後、胸に手をあて、二回か三回、深く呼吸をした。この凍てつくような冬で、汗を光らせている顔が、何時もの微笑みになる。
それは都昏の頬を、夕焼け以上に赤くした。
何時も通りの微笑みが、何時も以上に彼へと作用している。
今日が、この日だからか。
目の前の人が、「あの、都昏君これ」
少しはにかんで、多分彼女も顔を赤くして。そう、
「チョコレート、です」
アカシアの花と供に、彼へと捧げられたのは。
、
都昏、
差し出された物を、みつめる。自分へのチョコレート、ハロウィンじゃない、バレンタインデーにおけるチョコ、それは、その意味は、
常日頃の、感謝、か、
それとも。頭の中で言葉が連なり、思考となる中、それは不意、
「……もう他の娘に」
声がする。彼女の声が。
「都昏君」
――声の調子は何時もと変らない
もらったんでしょうけど、って、
彼女が言葉を漏らした時の表情。
、
涙ぐんでいる。
潤む瞳は二人とも、予想してなかった未来。数藤明日菜、だって、都昏君は優しい人、それに綺麗で、だから、私なんかより。私、より、
「もうもらって」
――橘都昏
「……違……う」
「………え」
「違う!」
まるで弾けるような声が、彼の喉から漏れて、
その刹那、
橘都昏は膝から崩れ落ちる。
「ッ!? つ、都昏君!」
突然の事、突然の彼の異変、明日菜は花束もチョコも足元に投げ、彼の身を支えようと。だけどその時には彼の片手は地面につき、もう片手は寒さを凍えるよう回し、
「どうしたんですか! 何処か、悪いんですか!」
もしかして、これは、あの――
数藤明日菜が、
自分が食料である事を、精という名のモノである事を早く伝えようとした、時、
「違、いま、……す」
震えた、声だ。
そして温まった鉄のような、熱を持った声、だ、違うって、精の事?
「もらってない」
――いっぱいもらえるんでしょうね
他の娘にもらったんでしょうけど――
その事への、否定。
「……もらってない、って、都昏、君」
彼の身体を労わりながらも、疑問は隠せない明日菜。彼が何ももらえないなんて、そんな訳、
何かに怯えるように震えながら、言った。
「断り、ました、」
何かに怯えるように震えながら、言った、その時の表情、
明日菜と同じように涙ぐんで、走ってない癖に、息も乱れていて、どうしたんだろう彼は、一体何が彼に起こって、
、
だけど、
その事よりも、
どうしてもその事よりも、「何故、なんですか」断ったって、「なんで」
橘都昏は、怯えているように震えながら、
今までの自分には存在しなかった自分を、余りにも弱く震える自分を、紙のように心臓が毟られそうなになった自分を。
勇者の剣も、賢者の杖も、彼の奈落のように深い力は、倒せるはずはない。
けれど、今は身を屈めている。それは苦痛ゆえだ、だけど、この苦痛を消せなんて彼は叫ぶはずはあらず、だから、この態勢で、この震えた弱い姿で、彼女の腕の中へ近づける。ほんの数センチだけ身を寄せる。今震えている理由が、怯えだとしたら、その怯えの理由は、
この自分の感情で――
◇◆◇
潤む瞳が二対あった。
それは何時もの顔とは違う。
けれど悲しみよりはひどく遠い、
だけど喜びと呼ぶには憚れる、
それは嵐の木の葉が如き惑い、
理由は、
その理由は、
「貴方が」
、
「好きです」
◇◆◇
恋はけして、人に優しい物では無く。
だけれど人は、人間は、焦がれてしまい。
「あ、」
、
「え、あ、」「……僕は」「私、私」「あの、……あ、」「都昏、君」
もう言葉は、必要ないかと、世界が、言ってるのだろうか、
彼らの口から、零れる物は、例えようのない、感情に見えて。
――Saint Valentine’s Day
それは本来、愛を与え合う為であり、恋の告白なんて習慣で無く、それは神の名の下に、バレンチノの死がゆえに、
けれど、
どうか、許されるよう。世界中の二人の為に、世界中の想いの為に、
、
世界中の、この二人が為に。
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