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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


ハプニング



 優しさをもって相手をいじめるのは、好意の表れらしい。
 だから安心してね、と生徒は言う。「みなもちゃんを嫌っている訳じゃないのよ」
「は、はぁ……」
 みなもは小首を傾げつつ、言葉に詰まった。
 前回では思い出すのも憚れるような目に遭い「もう生徒さんにかかわるのはよそう」と思った矢先、再び呼び出されたのだ。
 ああ、とため息一つ。
(文句を言おう、断ろうと決めても、かわされちゃう……)
 ――仕方ないのかな、勝てないんだもの。
 諦めようと努力することも、案外大切なことかもしれない――とみなもは再び小さな息を床に落とす。諦めるというのは、他人が思うよりも当人にとっては難しいことなのだ。
 みなもが項垂れているのを余所に、生徒はホットミルクを飲んでいた。甘い香りと、教室を包み込む白い湯気。
「お砂糖少しに、タピオカがたくさん……みなもちゃんも飲むでしょう?」
「………………はい」
 どうして生徒たちはこんなにもマイペースでいられるのか。
 それにこの笑顔。騙されても、からかわれても、本気で怒りをぶつけることを出来なくする――ずるい表情。
(こうやって、あたしは流されていくんだね……)
 大人しく白旗を上げて、ふぅっと息を吹きかけながらカップに口をつけた。
 熱いミルクが喉を潤してもまだ、舌の上では弾力のあるタピオカが踊っている。息を吸えばお砂糖が香って――。
「おいしいです……」
 どことなく優しい気持ちになって見上げれば、穏やかな生徒の目が近くにある。
(ずるいなぁ、もう。逆らえないもん……)

 前回…………“あのとき”。
 海原みなもは海原みなもでなくなりかけた。話をしようとしても、話せない。みなもの中に別の生き物が入ってきて、意識下にある唇を塞いでいた。
 無意識に口をついて出た言葉は、
「くーん、くーん」
 ……そう、あのとき、海原みなもは犬だった。
(あれはきっと、何かの間違いで……)
 言い訳をしたくなる。あれはきっと自分ではなかった。気のせいだ。
(フリスビーさえなかったら)
 白くて、丸くて、生徒の掌から遠く離れていく物体。あれさえ出てこなかったなら。
(だって飛ぶんだもん!)
 そうなのだ、フリスビーは飛ぶのだ。風を切って、楽しそうに。みなもの理性を吹き飛ばして、宙を移動するのだ。
 …………ハッハッハ、ハッハッハ、ハッハッハッハ!
 息を荒くして、四つの足で地面を蹴って、勢いをつけてジャンプして、それを咥える。
 歯と歯の間でカメラのシャッターを切ったような、小気味良い音と感触があった。(フリスビーは歯を傷つけないために作られた生徒お手製のものである)
 一瞬、喉が詰まるような気がしたが、次の瞬間からは吠えたくなるような満足感が広がっていた。とは言え、本当に吠えて獲物を地面に落とすような真似はしない。
 そして頭を撫でられる喜び。
 触ってもらえることは、どんな褒め言葉よりも勝っていた。くすぐったいような、心地良いような――もっと撫でて欲しくて、尻尾を振る。あの気持ちよさを……。
(あああ)
 記憶を振り払うように首を左右に振る。
 あれはきっと気の迷い。人間が尻尾を振るだなんて、人間がワンと吠えるだなんて、まさか、まさか。
(気持ち良い、だなんて)

「恥ずかしいことなんて何もないのよ」

 声が後ろから聞こえてくる。覆いかぶさるように、羞恥心をなだめるような口調で……辱めることを。
「みなもちゃんはこれから犬になるんだから。犬としては普通のことなのよ、それって…………」
 顔が火照るのを感じて、みなもは身体を硬くする――だがそれよりも先に、生徒の手が後ろからみなもの腹部へと伸びてきていた。一番下のボタンが音もなく外されて。
「な、何しているんですか!?」
 驚いたみなもに、生徒は含み笑いを返す。
「“あのとき”言ったじゃない。服を脱ぐのを手伝ってあげるって」
「――――――――!!!」
 とある専門学校内の教室の一つの中で、みなもは小さな悲鳴を、一つ。
「自分で脱ぎますから待っててください……っ」
「残念ねぇ」
 生徒は一瞬オアズケをくらった犬のような顔をしてから、いつもの笑顔に戻って言った。
「じゃあ、終わるまで見ていることにするわ」
「!! ……そんなことわざわざ言わないで下さい……」
「そうかしら」
 みなもが赤面するのを生徒は味わうように眺めている。

 前回同様、まずは正触媒を塗られた。匂いのない粘っこい液体が身体中を覆っていく。時にみなもは顔を赤らめ、時に身体をよじって、震えて。
(やっぱり完全には慣れないみたい……)
 生徒からわざと視線を外し、笑われる。
 冬なのに肌が潤っているとか、ハリがあるとか、ほらここの窪みに正触媒が溜まっているとか、生徒は次々と喋る。そのためにみなもは恥ずかしそうに俯いたり、たどたどしく反論しなければならなかった。
(話題をずらさなきゃ……)
 されど、余裕のない心では良い話題は浮かばず。冷や汗をかいているけどどうしたのかしら、と生徒に言われ、さらに困惑。あなたのせいです、と言える筈もなく。
 ――みなもが来る前に手を念入りに洗っていたのだろう、生徒が動くと仄かに石鹸の香りがした。
(これがいいっ)
 ふっと思いついた名案。石鹸の話にしよう。何を使っているんですか、とか。匂いの話に広げることも出来る。シャンプー、香水、アロマセラピーなどなど。
「良い匂いですね」
「ふふっ」
 生徒は悪戯気に笑った。
「正触媒越しに移ってるんじゃないかしら」
 そう言って鼻をみなもの身体に近づける。みなもの緊張を余所に、生徒は先程彼女たちの長く細い指が這ったところを嗅ぎ、微笑んだ。
「やっぱり香るわ。みなもちゃん、この匂い好きなのよね?」
「は、はい」
 気弱そうに微笑んだみなもに生徒は低い笑い声を漏らして――「だったら全身に匂いがつくようにしてあげる」
 両手をみなもの肌に置き、覆いかぶさってくる生徒を下から眺め、みなもはひたすらに羞恥した。
(ど、どうしよう……)
 良い匂いだなんて言わなければよかったと後悔する余裕もなく、ただただ恥ずかしいのだ。逃げる言葉が浮かばないまま、緊張から身体は熱くなり呼吸は浅くなる。困惑の表情を浮かべながら目の辺りが濡れてきた。
「みなもちゃん、泣きそうなの?」
 優しい言葉をかけつつも手は休めない生徒たち。みなもは気が遠くなる思いがした。
(もう駄目……)

「生徒さんがどいてくれたら解決するんです!!!!!!」
 みなもにとって、言いたいけど言えない言葉なのだ。

 着ぐるみを着てすぐ、みなもはまた困惑しなければならなかった。
(変だなぁ……)
 最初は首を傾げ、やがてはその大きな変化に気付かされた。二本足で歩けないのだ。
「こ、これじゃあまるで……」
「犬よ?」
 それがどうしたのといわんばかりの自然さで、生徒は言った。
「困ります、こんなの」
「大丈夫、ワンちゃんは普通四本足で歩くものよ。生活には困らないわ」
 みなもを抱き寄せるようにした生徒の手には、いつものメイク道具。
 ――と、奇妙な銀色の物がある。
「メイクの前に、これを下につけましょうね。……とっても良いものなの」
(あたしメイクのことはわからないから――)
 なんだろう、と首を傾げつつ、曖昧に頷いた。
 多少嫌な予感がなかったと言えば嘘になるかもしれないけれど、殆どみなもは疑っていなかった。
 否、予想できなかったのだ。
 ソレに気付いたのは、メイクを終えてから何気なく口を開いたときだった。
「わんわんわおうわんわう?」
(――え?)
 一滴の冷や汗が彼女の身体と“犬”との間に流れた気がした。
(あたし今――)
 気のせいだろうか。気のせいだと思いたい。思わせて欲しい。
 みなもが訊こうとしたのは銀色の道具のこと。どんな効果があるんですか、と言おうと思った――そして発音した筈だった。
 けれど口をついて出た言葉は、
「わんわんわおうわんわう?」
 自分でも恐ろしくなりながらもう一度、強く発音しようとすると
「わんわんわおうわんわおう!!」
「あらあら、何を怒っているのかしら……」
 生徒は笑顔で首を傾げていた。
(ああ……)
 ではやっぱり。ああやっぱり人間の言葉を話せてはいないのだ、気のせいではないのだ。
 試しにもう一度。
(あたしが何を言っているのかわかりますか?)
「わんわわ、わおうわんわっわわんわわ、わおおおんわ?」
(うう……)
 泣きたくなった。
(だって、自分でも何を言っているのかわからないんだもの)
「わおうわ……(生徒さん……)」
 助けを求めるように、生徒を見上げると――彼女たちの満足そうな表情が見えた。
「ちゃんと仕掛けが出来ていて良かったわねぇ」なんて喜んでいて。
「可愛いワンちゃんだわ」なんて声まである。
「わおう……」
 これは勿論、「ひどい……」と呟いたのである。

 そして“あのとき”よりも困ったのは、先生が来たことだった。
「あらあらあら!」
 廊下から声がすると思ったら、ドアが開いて見覚えのある女性が立っている。
(あっ……)
 みなもの尻尾が一瞬反応する。
 いやーな予感がした。この先生が来ると絶対に恥ずかしい目に遭うのだ。
「わんわわわおんわわっ」
 何で先生が来るんですかっ、と言っても無駄である。犬が吠えているようにしか聞こえないのだから。
 みなもの抗議(?)は全く意味を成さず、先生の評価を受けることになった。
 先生はみなもの身体のあちこちを触る。四足で踏ん張ろうとしたが失敗に終わり、仰向けにさせられた。
「わううう……」
 悲しそうな声を出すと、さすがにわかったらしく、先生は謝りながらみなもの胸やお腹を撫でてくれた。
 先生の掌は生徒よりも温かく、柔らかかった。毛並みにそって撫でられたり、その逆もある。気持ちが良くなってきて、だんだんと嬉しそうな声をあげるようになっていくのが自分でもわかった。
(このままでは玩具にされちゃう)
 そうは思っても、牙をむくことは出来ない。もう半分くらいは犬になってしまっているのだろうか。
「わう……(やだ……)」
 微かに呟いたところで、相手には伝わらない。
「悲しそうね」
 そう心配されて撫で回され、抵抗むなしく再び甘えてしまう。
「くうん、くうん」
「良い子ねぇ〜」
 複数の手が自分の身体へと伸びてくる。みなもは鳴きながら、時折嬉しそうに身をよじった。もっと、という催促だ。
(あたしの中に犬がいるなんて、思いたくないけど)
 この気持ち良さが続くのなら、犬でも良いような気さえする。
 その後先生の手によってみなもに首輪がつけられたが、恥ずかしがりながらも逆らいはしなかった。
「わう」
(あたしは今、犬なんだ……)
 四つばいで、尻尾を振っている自分。否定したいけれど――尻尾を無意識に振るとき、この上なく幸せな気分になれたのは確かだ。
(気持ちいい――)
 みなもはゆっくりと眠りの世界へ落ちていった。


 それは不思議な夢だった。

 何処とも知れぬ場所にある城。宝石のようにキラキラと輝く鏡に囲まれた部屋の明かりの下で、みなもは深海色のドレスを着ていた。静まり返った城にいる姫――らしかった。
 みなもの後ろでゆらゆらと揺れる影が部屋中の鏡一杯に広がって……優しく言う。

「よく似合っているよ」

 硝子を割ったような、音。部屋中の鏡が割れていった。ドレスは破れ落ち、何かに手足を取られ、四つばいになった。
 暗い部屋の中で、鎖の音がする。太ももに冷たい鎖の感触があり、それは首へと繋がっていた。
(あたし、首輪をつけられて――)

「よく似合っているよ」

 暗闇と溶け合った影は、みなもの中へと入ってきた。みなもは捩じれた声をあげて蠢いた。自分ではない別の生き物が自分の中へと侵入してきていた。


 硝子を割ったような、音。
(今、何か――)
 みなもは目を覚まして顔をあげたが、暗闇に包まれていて何もわからなかった。
 あたりは静まり返っている。
(気のせいかな)
 頭がぼんやりする。まだ眠いのだ。
(何だか、知っている匂いがする――)
 生徒のものでも先生のものでもない香り。懐かしいような……。
(誰だっけ――)
 考えているうちに再び夢の中へと落ちていった。

 みなもは――みなも犬は、犬として朝を向かえて夜に眠る。
 これはあくまでもバイトなのだと言い聞かせたり、犬として純粋に行動したりしながら、である。
 人間が四本足で日々を過ごすことはないので、肉体的な疲れがあるのではないかと心配したが、そんなことは全くなかった。今、みなもの身体は完全な犬となっていた。
 耳の後ろを後ろ足で掻いたり、食事前ではお座りをして待っていたり、当たり前のこととしてこなす必要がある。
「恥ずかしいことは何もないわ。みなもちゃんは犬なんだから……」
 生徒がそう言って穏やかな笑みを浮かべていたとき、みなもはさすがに恥ずかしくなったが、犬としての性質がだんだんと羞恥心を取り払っていった。

 されど。
 それはあくまでも校内にいるときのこと。

「わおうわおわお、わおんわおんわおん!!!!(外に出るのなんて嫌です嫌です嫌です!!!)」
 生徒の手に散歩用の鎖が握られているのを見て、みなもは必死に吠えた。
 犬は犬でも、みなもはみなもである。矛盾しているようだが、みなもは犬でもあるが犬でもあるのだ。
(だから、だから)
 四つばいで散歩をするなど、恥ずかしくて出来ることではない。“あのとき”はやった気がするけれど、人に戻ってからどれだけ恥ずかしかったことか。
「わおわんわん! わおうわおわお!!!」
(これだけ吠えれば)
 ――いくら生徒でもあたしが嫌がっていることに気付くよね。
 とみなもが思ったのもつかの間、生徒は幸福そうな表情で話しかけてきた。
「あらあら、そんなにお散歩が嬉しいの?」
「わ、わおん!?」
「ふふ、そんなに喜ばなくてもいいのよ」
「わおおおおん……!!」
(ち、違う……)
 みなもは首を必死で横に振ったが、相手には伝わらなかった。はしゃいでいるとしか思われていないらしい。
 それもその筈、みなもの尻尾は激しく振られていて、喜びを大きく表していたのだ。
(な、なんで……)
(あたしは嫌がってる筈なのに)
(だめ、止まらない――)
 落ち着こうと思えば思うほど尻尾の動きは激しさを増していった。
(うう……)
 困惑してるうちに鎖をつけられ、外へ行くことになった。
 いつの間にかその足取りも軽快なものになる。
 くんくん。
 みなもは電柱で足を止めた。心の中で沸き始めているこの感情――。
(これってもしかして……)
 突然羞恥心が戻ってくる。マーキングをしたがっている自分に気がついたのだ。
(だめ、だめだめだめ……)
 みなもは持っている限りの理性で止めようとした。
(これはだめ、これだけはだめ、こんなところで――)
 理性を打ち砕いたのは上からの声である。
「みなもちゃん、迷うことないのよ?」
 生徒の声は優しかった。
「今は犬なんだもの……」
「……わうう」
 ずるりと理性が本能に飲まれていく。一声鳴き、みなもは空をあおぐように生徒を見て――ふるふると涙ぐんだ。
「わおん……」
「わかっているわ。見ないようにしてて欲しいのね。じゃあ私はあっちの角を曲がったところで待っているからね」
(え?)
 意外にも、生徒はみなもをからかうことはせずに歩いていった。
(生徒さん、優しいなぁ……)
 好意はありがたく受け取ることにして――数分かけて決意し、おそるおそるマーキングを済ませた。
 ところが、角を曲がっても生徒が居ない。
「くうん?」
 匂いを嗅いでみたが、この角のところで消えている。
(車に乗ったんだ――)
 どうしよう――みなもは焦った。置いていかれたのだ。
 自分はこれからどうすればいいのか。
 悩んだ末みなもが出した結論は、
(一度学校へ戻ろう)

 ところが前足を出して帰りかけたとき、思わぬ声がした。
「わんこだぁ!」
 子供特有の高い声に、弾んだボールのような喋り方。
(みあお!?)
 視線を上げれば、ああやはり。
 銀色の髪を無邪気に揺らす少女が目を真ん丸くしている。
「飼い主さんはいないのかなぁ? どうしたんだろうね〜」
 そう言ってみなもの頭を撫でる。
「かわいいんだぁ……」
 みあおの表情が柔らかくなった。
「わおおわうわうわおう?」
(みあお、何を考えているの?)
 何となく予想は出来ていたが、みあおはみなもの鎖を持って――「そうだ、家においでよねっ」
「わおおおお!?」
 だめだよ、と言ってはみたものの通じる訳もなく、みあおには「そんなのはしゃがなくてもいいよ」なんて返されて。
(ああ……)
 犬は不便だとみなもは思い知る。
(あたし、はしゃいでなんていないのに)
 学校に戻らなくてはいけないのだ。
 飼い犬ならそうするのが普通だし、みなももまたそれをしようとしていた。
(悪いけど……許してねみあお)
 みあおを振り切るようにみなもは走り出した。四本足でアスファルトを蹴飛ばす。少女では到底追いつけないスピードであるのはわかっていた。

「まって!!!」

 声に立ち止まる。いつもの元気そうな声と違って、泣き出しそうな雰囲気を帯びていたからだ。
 くるりと全身で振り返る。みあおは寂びそうにも見えた。
 狭い歩幅でみなものところまで走ってくると、
「ちょっとの間、遊ぼうねっ」
 銀髪の少女はみなもの鎖をしっかりと握って歩き出す。
「…………わう」
(ちょっとの間だけ、ね――)

 小さな飼い主にあわせて、みなもはゆっくりと歩くことにする。
 てくてくとみあおは歩く。
 とぽとぽとみなもも歩く。

 てくてく
 とぽとぽ

 てく、とぽ。

 海原家はずっと大きく見えた。
(天井ってこんなに高かったかなぁ……)
 上ばかり見ていたら首が疲れてしまいそうだ。
「ミルクのむかなぁ」
 白い皿にミルクを入れて、みあおはみなもの前に置き、楽しそうに眺めている。
「わう」
 みなもは皿にそっと舌をつけた。冷たいミルクの感触が渇いていた舌を濡らし、喉を潤していった。
(みあお、どうしたんだろう)
 犬がいたから連れて帰る――小さな子にありがちなことだ。みあおがしたっておかしくはない。
(でも、何かおかしい)
 みあおの表情が時折翳るときがあるような気がした。
「わんこはあそこで何をしてたの?」
「わおう、わんわん!」
 みあおにじゃれついて説明しようとしたみなもに、みあおは笑い声を立てた。
「あははっ わかんないよぉ」
「みあおはね、おさんぽしてたの。今は春休みだから、学校はないんだぁ……」
 みあおの幼い掌がみなもの背中を撫でている。
「おねえさまも出かけちゃってね、おかーさんもお仕事でこっちにはいるんだけど、夜くらいしか帰ってこないんだぁ」
(あ……)
 みあおは寂しいのだ。
(いつもだったら家にはあたしがいるのに)
 今はいないから。
(ごめんね……)
「くうん、くうん」
 甘えたように泣きながらみあおの頬を舐めた。
 くすぐったいよとみあおは楽しそうに笑う。
「ね、かくれんぼしよう!」
 みあおの提案に、みなもは尻尾を振って反応した。

 みあおがオニに、みなもは隠れる側に。
(どこがいいかなぁ)
 勝手知ったる我が家とは言っても、隠れる場所には悩むものだ。ましてや犬の状態では出来ることも限られてくる。
 居間から聞こえてくる、みあおの声。
「さーん、しーい」
 やがてみなもは、少しだけ空いていた押入れを見つけた。
(ここがいいっ)
 と、入ったものの、中の布団に触れる訳にはいかない。
(毛がついたらいけないもん)
 押入れの端っこでまるで猫のように縮こまる。辛いけれど仕方がない。布団を汚せば余計面倒なことになるのだ。
(洗っても毛ってなかなか取れないし……)
 こんな状況でも布団の心配をしているのが自分らしいけれど。

「もーーーいいーーーーかい?」
「わおん!」


「んーと、んーと、テーブルの下……じゃないかぁ」
 みあおはまず居間から見ているようだ。
 やがてみあおの匂いが近づいてくる。
 畳と足の擦れる音も――この部屋へ来たようだ。
 入ってくるなり、みあおは大きな声を出した。
「あ〜!!! みっけ!」
「わおう!?」
 あっさりと見つかったのでみなもは少々不満だ。
「だって尻尾が出てるもーん」
 みあおに指摘されてみると、なるほど尻尾が押入れから出ていた。入っても閉めることは出来ないものだから放っておいたのだが、そこから尻尾だけが姿を出していたようだ。その上、みなもの尻尾ときたらパタパタと揺れ動いてその存在を強くアピールしている。
「わあう……わおおおん」
(だって……犬なんだもん)
 小さな声で言い返したものの、あくまで喋るのは犬語である。

 ガラリと玄関で音がした。
 よく知っている匂いと共に、だ。

「あ、おかーさんだっ」
「みあお、その犬はどうしたの?」
「わおおおん!」
(お母さん! この時間に帰ってくるなんて……)
「どうしたのー? 今日は早いねー」
「ちょっとね。みあお、クッキーがあるわよ。食べる?」
「食べるー!!!」
 みあおがクッキーを食べている間、みたまはみなもを凝視していた。
「……この犬、見覚えがあるわねぇ」
 ――みなもは動揺する。この犬がみなもだと知っているのか、今気付いたのか、知らないのか、母がどう思っているのかがみなもにはわからなかったのだ。
(「みなもじゃないの」って言い出したりしないよね……?)
 そんなことを言われたら、みなもは家を飛び出していくだろう。恥ずかしさのあまり、身体を震わせながら。
「帰ってくるとき、この辺で犬を見かけませんでしたかって声をかけられたのよ。そこで見せられた写真と同じだわ。何処かの学校で飼っている犬なんですって。一応連絡先を聞いておいたから、連絡するわね」
「わう!」
(助かった……)
 安堵する。きっと母は気付いていないのだ。
 そしてこれで帰れるのだ。
 ……生徒たちからみなもを逃がしておいて、後から捜しに来るだなんて変な話だけれども。
 ――家に来た生徒は花のように微笑んだ。
「ええ。うちの学校で飼っている犬に間違いありません。わざわざご連絡して頂いて、ありがとうございました」
 飼い主として、生徒は頭を下げた。
「わんこ、ばいばい」
 みあおがお別れに手を振っている。
「わうわう」
 犬語ではあるが、みなもも一応のお別れを。
(すぐにまた会うことになるけどね)
 犬として会うのは最初で最後かもしれないのだ。ばいばい。
 尻尾だけが寂しそうにみあおに向かって揺れていたが、足はどんどんと海原家から遠ざかっていく。

「拾われるのは計算外だったもの。さすがに驚いちゃったわ」
 無邪気に生徒は言った。
 わざとはぐれたのは、犬としての判断能力を見るためのテストだったのだそうだ。
「みなもちゃんが学校に戻ってくるまでの時間を計って調べようとしたんだけど、仕方ないわね」
 石鹸の香りがみなもを包み込んだ。
「あんまり遅いから心配していたのよ。みなもちゃんのお母さまから連絡があって、ホッとしたわ。まさかみなもちゃん自身の家にいるなんて思わないもの」
「くうん」
「本当にお母さまのお陰だわ。ふふっ」
 生徒さんが微かに震えている。笑っているのだろう。
(色々あったけど)
 帰ってこれてよかった、とみなもは思う。よーーーーく考えれば、本当に帰るべきはあの家だった筈なのだけど。
 ……今はいいのだ、犬なのだから。

 今日は犬として海原家を見た気がする。
(みあお……)
 妹のことを思い出す。正月のこともあったし、寂しい思いをするのは自分ひとりではないのだ。
(これのバイト代で)
 今度、みあおの喜ぶものでも買ってあげよう。それから、話をしたり、遊んだりしよう。
(寂しい思いをしないように)
 みなもはそう思いながら、小さな犬小屋の中で目を瞑った。



終。