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<<イエロー!マジック!!オーケストラ!!!>>
■イントロダクション
「第2封鎖壁、突破されました!」
「まもなくドアが破られます!!室長!!!」
もうもちません!
若い研究員が、絶叫した。
エマージェンシーコール鳴りっぱなし、シグナルタワーレッド表示。
不味い。
草間武彦は、じっとりと背に冷や汗をかいていた。
・・・見るからにやくざな商売の連中に囲まれても、これほど恐ろしいとは思えない。そんな連中相手でも、それなりに渡り合って行けるという自負は有るし、事実切り抜けて来たと思っている。
が。
「愛してる〜〜!!」
「結婚して!!!」
「で〜て〜きて〜!!」
嬌声、なんて可愛いものじゃない、叫び声だ。
・・・畜生、どうしてこんな事に。
草間武彦は、己の運命を呪うより他無かった。それ意外、何が出来ると言うのだ。
・・・久々にまともな仕事が舞い込んだと思ったのだ。
ある製薬会社が奇妙な薬を開発しているようだから、調査して貰えないかとの依頼が来た。前金もかなりのもの、報酬のすこぶる良い契約内容に、・・・少々手荒な事もあるのかと、幾分不審に思いながらも、武彦は契約を交わした。
それが。
件の試薬会社周辺でそれとなく聞き込みを行っていたところ、白衣姿の連中に声をかけられた。ようこそ被験者の方でしょう、にこやかな笑みに一瞬身構えたが、・・・中を知るいい機会だとばかり、そうだと返事をしてしまった。
頑丈な金庫のような扉が、幾つか続く。
馬鹿に警備が頑丈だ。それが気味悪かった。
連れ歩かされる場所を、いちいち確認する。物騒な警備員はいないか、逃げ道は。
ポイントを押さえては、ちらちらと周囲を盗み見ながら進む。
そうこうするうちに、3つ目の金属製ドアを抜けて。
「さあ、ついたよ。」
そうして。
辿り着いた部屋には、・・・思いも及ばないものが、鎮座していた。
「・・・チョコ、レート?」
何なんだ。
頑丈な扉の先が、このチョコレート一つきりか。
呆気にとられたものの、顔には出さない。一応、『被験者』としてここにいるのだ。ぼろを出すわけにも行かない。
「さあさあ、食べてみてくれ。」
にこにこと男が笑う。周囲を見回す。いるのは線の細い、いかにも研究員タイプの男ばかりだ。・・・殴り合いをしても、まず自分が負ける要素は無いような。
全員、ぶん殴って部屋を出るのも良いが・・・。しばし、武彦はチョコレートと見詰め合って。
ええい。ままよ。
死ぬ事は無いだろうと・・・顰め面で、そのトリュフを口に、放り込んだ。
ごくん、と、無息飲み込んでみる。・・・おかしな味はしなかった。味に限って言えば、甘さの抑えられた、普通のトリュフチョコ、だ。・・・だったが。
「・・・食べましたね?」
にんまりと、白衣の男が笑った。
「・・・・・」
何か、・・・いやな予感がした。
貴方もご存知の通り、・・・被験者なのだから、知っている筈だ・・・と、男は満面の笑みで話し出した。
「ここでは、不特定多数にもてるための、惚れ薬、の研究をしていまして。」
「・・・・・」
妙な薬って、それなのか。
脱力した武彦の鼻面で、男は誇らしげに笑って見せた。
「惚れ薬は、ハゲの特効薬と並んで男のロマンですからね。」
男性の需要は多く、また後援者も多い。男は胸を張った。
「特別なフェロモンが大気に乗ってばらまかれる事で、女性を惹きつける効果が現れる、という仕組みになっています。」
・・・まあ、女好きのしそうな香水みたいなものか。そういえば、バレンタインが近いから・・・その為の開発商品かも知れない。
げんなりしながら、とりあえず二の腕あたりの匂いをかいでみる。別に、何の匂いもしなかった。どっちにしたって、こんなもの効く訳が無い。馬鹿馬鹿しいと、武彦は席を立とうとした。無論、帰る積もりだった。礼金が貰えなくても、もうどうでも良い。
・・・が。
異変は、起きた。
「室長!!」
若い研究員が、不意に顔色を変え声を荒げる。
「変です、・・・研究室の入り口に、次々と女性が集まってきます!」
白衣の男が、慌ててモニターに走り寄った。研究室の入り口、何重にも区切られた扉の警備モニターには、製薬会社に勤める女性達が何故か続々と集まってくる。
「何だ、ここは隔離されている筈だろう!」
いくらフェロモンが出ているからって、外に漏れる事は無い。
「・・・どうやって漏れているんだ!?」
「異変は、何故か地下1階の、購買裏あたりから起こっています。」
地下1階・・・男は呟いた。そうして、何を思ったのか葵顔でパソコンの端末前に立つ。
「すぐに調べろ!排気ダクトが何処につながっているか!」
・・・この部屋は、完全に隔離されている。それは確かな事だ。
故に、外部から内部に向かって、人だろうと大気だろうと許可無く進入する事は出来ない。が。
内から外に向かって、・・・出ないとは限らない。よって。
内側の大気を逃がす、排気ダクトが無いとは、・・・決まっていない。
「しまった!!」
しまった、じゃない。
「しかも・・・少々効きすぎだ。」
・・・いまさらだ。・・・もう少し考えて、一服盛ってほしい。
男の言葉にいちいち突っ込みを入れながら、武彦は大きな溜息をついた。
女の数はますます増えている。そうして声も。
黄色い(イエロー)、ありえない(マジック)大合唱(オーケストラ)が、扉の外から響いてくる。いや、響くというよりは。
「まずいぞ・・・核シェルター並みの強度を持つ扉が・・・」
声は衝撃波となって繰り返し壁を打ち鳴らす。
・・・この惚れ薬、どう考えても惚れさせる以外の効果が出ているとしか、考えられない。あの女性達、明らかに常軌を逸しているでは無いか。
どおん、どおんと繰り返し叩きつける音。この扉が破られるのも、時間の問題だ。
「向こうに裏口がある。そこから逃げろ。」
効き目はそのうち覚めるから。とは、なんて無責任な。
だがここにいたら、程なくあの声の集団に囲まれるに違いない。・・・それで、生きていられるだろうか。
だからといって、女に手をあげるのも、・・・大体あんな大勢の女を相手に立ち回るのも、出来ればごめん蒙りたい。
「とにかく、今日一日、逃げ延びてくれ。」
とにかく誰かに助けを頼みたまえ。不特定多数に効くよう作られた薬だ、・・・君を知る人間なら、多分大丈夫と思うから。
男の台詞に、思わず頭を押さえ。
「誰か・・・助けてくれ・・・」
天井を仰いで、思わず呟くしか無かった。
■よって、チョコHigh
背後の破壊音に肩をそびやかせながら、武彦は携帯を手に取った。
とにかく当てになりそうな者、頭に浮かんだその名に頼みの綱をかけ、短縮番号をコールする。二コール、三コール、…応答を待つ時間がこんなに長く感じられたのは、初めてかもしれない。だから。
「…もしもし、」
声が聞こえた時、心底ほっとした。
「…もしもし、シュライン、だよな?」
「だよな、って…携帯からかけて来たのでしょう?名前が出ていると思うのだけど。」
呆れたようにシュライン・エマ (しゅらいん・えま)はそう応じた。何をそんなに慌てているのだろう。怪奇探偵と呼び習わされる彼が、こんなに慌てふためいている様は久しぶりだ。
これは、只事ではあるまい。
「…一体、何があったの?」
「突然で悪いんだが、…助けに来てくれないか?」
「……え?」
訳も分からず、唐突にそんな事を言われても。シュライン・エマは眉根を寄せた。電話の向こう側から、何の音だろう、鈍く重い金属音が響いている。恋路現場か何かのような、強い衝撃音だ。
「急に言われても、とっても困るのだけれど…。どうしたの?」
「どうもこうも…追われているんだ。」
普通に追われている程度で、助けを求めては来ないだろう。だとすると、何か危険な事に首を突っ込んだのか?
「…誰から?」
「…女。」
「…女、って、どんな女性なの?」
「どんなって、…赤いのや黄色いのや青いのや、とにかく色々だ。」
おそらく服の色かメイクのカラーを差しているのだろうが、その認識はあんまりだと思う。
溜息をつきながら、シュライン・エマは武彦にこう告げる。
「…一から、順を追って説明していただける?」
「ああ、」
そう答え、一呼吸おいて。
武彦は、事の子細を、一つ一つ話し始めた。
■チョコレィトはMage(魔法)
「そんな、…馬鹿馬鹿しい話が…。」
話を聞くなり。
シュライン・エマの口から出た言葉は、これきりだった。
言いたくもなる。チョコレートを食べた所為で女性に追い回されるなんて、そんな話があるだろうか。開いた口が塞がらない。
とはいえ、武彦をこのままにして置く訳にもいかないし。
「仕様のない人ね…。」
妙な依頼にすぐ首を突っ込んでしまうのだから。
思いながら、シュライン・エマは武彦に問う。
「とにかく合流しましょう。武彦さん貴方、そこからどうやって出る積もり?」
「この部屋から直接外に出られる裏口があるらしい。そこから逃げるのが一番だろう。」
「分かったわ。…でも、私の方からはっきり場所が分かるか…。」
携帯を肩で挟んだまま、シュライン・エマは手早く出かける準備を整える。車を用意するかどうか考えて、結局やめた。万が一、女性達に車の前に立ちはだかられ、引いたりしたら洒落にならない。武彦さんの現在地まではタクシーで移動して、それから走るしか無いわね…。溜息をつきつつそう決めると、靴をヒールから走りやすいものに替えて。
「何か、場所を特定できるもの、…武彦さん、貴方の携帯、…GPS機能がついていたかしら。」
「いや。…代わりのものが無いか聞いてみよう。少し待って貰えるか。」
ハードボイルドを好む男が、GPS何かに頼る訳無いわよね。
でも、こういう場合も想定して、…文明の利器を見直していただきたいものだわ。
返答を待つ間、そんな事をシュライン・エマは考えて。
「…GPS付きの携帯を一台貸して貰った。番号は090-XXXX-XXXX。」
「了解しました。その番号の位置取りを追うわ。」
「それから、…その裏口から、隣のビルの地下駐車場につながる通路があるらしい。そこを通れば、表通りを避けられると。」
「とにかく、そちらに向かいます。着くまでに、周辺の情報収集をお願いするわ。」
ぱちん、と携帯を閉じ。
シュライン・エマは、一目散に事務所の外へと飛び出した。
■アナタもワタシも呆気。
カンカンカン、と非常階段を下り。
半地下になった裏口へとたどり着いたのは、それから三十分後だった。
タクシーに少し離れた場所まで送迎して貰い、そこから走って来た。できる限り人目につかないよう脇道を通って、目的地前まで向かう。走りながら携帯を手にすると、先程聞いた番号を手早くプッシュして。
「すぐ側まで来ているわ。そちらは?」
「…壁はもう保たないな。俺も外へ出る。」
武彦がそう口にした途端、…背後で一際大きな破壊音が鳴り響いた。
それはさっきまでの地響きとは違っていた。明らかに何かが壊れた瞬間の音だった。
「武彦さん!」
「分かってる、」
非常階段の手すりに手をかけ、勢いを利用して一気に曲がり。
シュライン・エマはその姿にふうと息を吐いた。
知らず、微笑む。困ったように頭をかいて、武彦はシュライン・エマにこう告げた。
「…参ったよ。」
「そんな事言ってる場合じゃないわ。上に出る前に階段を封鎖されたら終わりよ。」
とにかく上まで上がりましょう。
急かされるままに、二人は走り出した。せっかくのバレンタインシーズン、それなのに何でこんな目に遭っているんだろうと思わないでもないが、今はそんな事を考えている状況ではなかった。それでなくとも、周囲が妙にざわついている。まだ距離はそう近づいていないが、集団がふくれあがって確実にこちらに向かっていると、シュライン・エマの人並みはずれた聴覚が伝えている。
とにかく、今日一日、逃げ続けること。
研究員から教えられた通り、裏口の階段を上がって右手、隣のビルの駐車場に通じる非常扉を開ける。社員専用駐車場だけあって、昼間は人の気配もない。ここを抜けて街の脇にそれたら、後はできる限り女性を避けて逃げ回るより他無かろう。
とはいえ、女性が少ない場所とは、どこだろう。
「…女性がいない場所…、か…。」
「男子ばかりといえば…、男子校とか、男子寮とか、…相撲部屋、…魚市場、…後は消防署や警察署?」
「警察署は女性警官もいるだろう。…拳銃で追い回されたらかなわない。」
相撲部屋なんて場所に至っては、ここから簡単にいける距離じゃない。
近場で確実な所と言えば。
「…この南側に、確か水産高校があった筈よ。その側に港と、魚市場も。」
シュライン・エマは携帯のGPSを探る。
「…走って一時間、っていうところかしら。」
遠いけれど、逃げるしかないわね。
溜息混じりのシュライン・エマの言葉に、武彦も息を吐いた。
■包丁(おもちゃ)にカンヅメ
「…人気が、無いわね。」
たどり着いた途端、シュライン・エマはこう言った。
それもその筈だ。魚市場というやつは、大抵朝早くに開き、午前十時頃にはほとんどの取引が終わっている。こんな昼過ぎにこの場所にいるのは、市場を取り仕切る市職員と、市場脇にある食堂の従業員くらいのものだ。
「…まあ、人がいないなら、かえって都合が良い。」
一息つくように、武彦が煙草に火をつけた。ここまで走り通しで、煙草の一本も口に出来なかったのだ。
煙草をくわえると、武彦はシュライン・エマを見た。あまり汗をかくイメージのない彼女の額が、うっすらと汗ばんでいる。ずいぶん走らせたしな、そう呟くと、シュライン・エマに、近くへ座るよう手で合図する。
走って疲れたのもある。シュライン・エマは、招かれるまま、武彦の側の低いブロック塀に腰掛けた。
そのときだった。
不意に、武彦がシュライン・エマの足下にかがみ込んだ。
そうして、…何を思ったのか、武彦が、おもむろにシュライン・エマの靴を取った。
「…何の真似?」
さすがに意味が分からず、怪訝そうな面持ちで、シュライン・エマが問うと。
踵をかかえるようにして、武彦がこう答えた。
「…靴擦れなんかが、出来てないかと。」
その言葉に、思わずシュライン・エマは吹き出した。
「ご心配なく。これくらい動き回ったくらいで、根を上げるような体は持ち合わせてないわ。」
これでも、武彦は心配してくれているのだ。そして、引っ張り込んで悪かったと。
心配の仕方が奇妙なのは、…多少の照れもあるのだろうか。
靴の方を向いている武彦に見つからぬよう、シュライン・エマはひっそりと微笑んだ。
このままここでやり過ごせれば良い、そんな風にも思った。
だが。
「…!!…!!!!!」
言葉が言葉になってない。言葉と言うより犬の遠吠えみたいな声が、…確かに遠くから響いて。
しかも。
「…中年、女性ってところかしらね…。」
耳障りの悪い音に、シュライン・エマは顔を顰める。中年、もしくは老年に近い女性の声が二つ三つ、重なって耳を打つのだ。
「…そういえば、その奧に食堂があるんじゃ、なかったかしら。」
食堂があるなら、むろん従業員もいる。
食堂の従業員ともなれば、…大抵は女性なのではなかろうか。
はた、と思い至って振り返る。悪い予感は的中した。しかも。
「出刃…。」
食堂である以上、当然調理器具はそろっている訳で。
しかも魚市場の中の食堂なら、当然メインは新鮮な魚介類と相場が決まっている訳で。
となると、それをさばく為の包丁なんかも、当たり前のように置いてあるって、事で。
「…ゆっくりさせては、貰えない訳ね。」
息を吐き、靴をはき直し。
二人はまた走り出した。
とりあえず、奧に向かって。
「…しまった…。」
たどり着いた先に、武彦は呻いた。
それは海の端の行き止まりだった。向こう側は岸壁につながり、すぐ隣に大きな倉庫が有る以外は、先に進む手段が無い。戻るしか道が無くなってしまったのだ。
とりあえずとばかり、側の倉庫を開く。頑丈なステンレスの扉を力任せに開けば、…中は大陸の北の果ての様相だった。
「…ここは?」
つり下がったものをみて、シュライン・エマは息を詰めた。
武彦も、うんざりしたように一歩後じさる。
「マグロ、倉庫、だな、…これは。」
「………。」
こんな中に隠れていたら、凍死する。
という事は、…戻るしか無いのだけれど。
倉庫を閉めて周囲を見回す。何か武器…相手を傷つけずに追い払える、そういうものはないものか。
そんな都合の良いもの、そうそう落ちてないと知りながら、シュライン・エマは目を走らせる。
人数は少ないから、最悪押さえ込めない訳じゃないけど。
ふと目にとまったのは、白いスプレー缶だった。
殺虫剤か何かにも見えるが、それにしては間のパッケージがひどくシンプルだ。中身を確認しようと掲げてみる。その視界の先に、出刃包丁片手に割烹着姿の中年女性が、ほとんど未知のスピードで失踪してきた。
あり得ない。
武彦の前に、突進する出刃包丁。
その間に割って入ると、シュライン・エマはスプレーをかまえる。たいしたことにならない事を祈りつつ。そして。
「…っ」
その顔面に向け、…だが目を外して、ボタンを押した。途端。
ぎゃあ、という、…悲鳴ともなんともつかない声が、響き渡る。
手に握ったものを、シュライン・エマはまじまじと見やった。マグロ倉庫で、自分は一体何を掴んだと言うのだろう。
そこに刻まれている文字に、シュライン・エマは首を傾げて。
「…なんで、液体窒素?」
「そりゃ、…魚を凍らせる以外、使い道は無いだろう。」
「なるほど…。」
鮮度が命、の魚市場ならではだ。
スプレー式の液体窒素は、入荷した魚類を半冷凍する為に用いるのだろう。もしくは、卸から店舗まで持ち帰る際に、どこかの店が使用するのかもしれない。中身が軽いところをみると、もうあまり残量がなさそうだった。捨てていったとも考えられる。
目に直撃してないなら、冷たいだけで済んだ筈。
思いながら、シュライン・エマは武彦の手を取った。とにかくここから、他の場所に、移らなければならなかった。遙か向こうで巻いた女性達も、こちらへ向かって来ているのが分かる。行き止まりで鉢合わせたら、今度こそ逃げられない。
「行きましょう。」
いつになったら終わるのかしら、幾分疲れた面持ちで、シュライン・エマはそう思った。
■コラァ!のマーチ。
「…男子校か。」
多少うんざりした物言いで、武彦が呟いた。
魚市場を出て、走り去った先は。
そのすぐそばにある、水産高校だった。
武彦のつぶやき通り男子校であり、教員を除けば女性の存在はごく少ない。今の状況にはありがたい話だが、生徒達には運の無い事だと思う。
男にとってはあんまり楽しくない場所ではあるが。
「武彦さん、」
ちらちらと、シュライン・エマが視線を走らせた。音の出所を手繰り寄せると、自分達の反対側へのびる道へと、視線を固定する。
「ちっ…」
武彦が小さく舌打ちした。
校門の反対側から、未知の女性集団がこちらを目指している。
ということは無効へは逃げられないのだ。この校門へ飛び込む以外、無いという事だ。
小さく頷き合うと、二人は水産高校の校門をくぐる。
段々と背後の地響きが大きくなる。こちらも全力疾走している筈なのに、どういった身体能力でああなるのだ。
…そして。
体育の時間で運動場に出ていた、生徒達は目撃した。
ざざざ、と運動場のど真ん中をものすごいスピードで走ってくる男女二人。
走り方は実にスマートだが、何ともいえない逼迫感が二人を包んでいて。
更に、その、後ろから。
『キャー!!』
立つ砂埃、巻き上がる嬌声、まるで突然わいた竜巻のように、女達が何もかもをなぎ倒しながら運動場を駆け抜ける様を。
武彦とシュライン・エマは、そのまま一階の教室の窓に飛び込んだ。呆気にとられた生徒達と教員を無視し、今逃げてきた運動場を振り返る。二人の目に映ったのは、砂埃をあげる女性達の疾走と、逃げ遅れた男子生徒二名が、女性達の波に飲みこまれる瞬間だった。
「おい!シュライン!運動場で誰か踏みつぶされたぞ!」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょう。とにかく逃げるのよ。」
「逃げるのよ、じゃない、コラァ!」
唐突に割って入った怒号に、ぎょっとして武彦が顔を上げる。
とても教員とは思えない風体の男が、あまりに似つかわしくない微分積分の公式を背景に、二人の前に仁王立ちしている。
「何なんだお前達、授業中に突然窓から侵入してきて。」
警察に突き出してやる。
教師が掴んだ腕を、武彦は振り払った。それなりに修羅場慣れしているから、この手の巨漢一人どうという訳では無い。ただ、今回は少々焦っていたらしい。腕をひねって相手を倒す瞬間に、…あろう事か、捕まれたジャケットの袖が、音をたてた。
どん、と教師が仰向けになる振動。それから袖のちぎれる感覚。
その気配に、気付いた女性達の波が一斉にこちらに向いた。
「俺のジャケット…」
「後で繕えば良いでしょう、とにかく風下まで走って。」
たしなめるようにそういうと、シュライン・エマは武彦の腕を取った。
振り返りながらしぶしぶ走り出した武彦の肩に、一瞬頬を寄せる。その様を見取った武彦が、不思議そうな顔をした。
「…何を、してるんだ?」
「…別に、…私には、どうなのかと。」
とっくに惚れているのに、…果たして効くのかしら。そう思ったのだと、そこまで言うのは伏せた。言ったら彼はどうするのだろうかと、ちらりと考えはしたけれど。
「…効いたら、困るな。」
小さく呟くように、武彦がそう言った。前方を向いたまま。
何故?と問うつもりでのぞき見た表情は、少しだけ真面目な顔つきに思えて。
「君に迫られたら、俺は拒絶する自信が無い。」
それは。
どういう意味だろう。
…それだけ自分が怖いと言う事だろうか、それとも。
そこまで考えた、…考え至った、瞬間だった。
『ぎゃー!!』
「…え?」
武彦の微妙な発言をも吹っ飛ばすような悲鳴が、背後で起こった。
さっきの声は、確かにあの数学教師だ。
女性達の嬌声があそこで津トップしていると言う事は、なんだか分からないがあの数学教師に矛先が向いてしまったに違いない。運の悪い事に。
しかし、どうして。
「…そういう事。」
女性達は、武彦の体から発する匂いに反応しているのだ。
だから、武彦のジャケットからもぎ取った袖、それを持っていたあの男が、巻き添えを食ったと言うわけだ。
だったら、匂いが移ったものをあちこちまき散らせば、多少は集団がばらけるということか。
走りながら、シュライン・エマは武彦に尋ねる。
「武彦さん、私に何か、身につけているものをいただけないかしら?」
サングラスでも、その首に巻いてるマフラーでも良いわ。
「…何をする気なんだ?」
いただけないかしら、と言ったと言うことは、もう返さないつもり、もしくは返せない予想がついているのだろう。そう気付いて、武彦はポケットを探った。無くしても惜しくないものなら、こんなものしか無い。
「ハンカチでも?」
「十分よ。」
受け取った途端。
シュライン・エマは、力任せにハンカチを裂いた。
ああ、という武彦の溜息に目線で詫びを入れると、ばらばらの細切れになったハンカチを手に走り出す。
向かうは数十メートル先の、…自転車置き場だった。
この自転車にハンカチの切れ端を結びつけて、走って行けば。
武彦を追う大集団は、拡散してあちこちに散らばるに違いない。自転車ならぶつかっても死ぬことは無いだろうから、自動車なんかに仕込むよりは安全だ。
それと。
「………」
少し考えて、…シュライン・エマは、さっき魚市場で手に入れた液体窒素のスプレーを、手に取った。
■真っ白い恋人達
自転車に細工をし。
戻りかけたシュライン・エマの方向に。
「……っ…」
「武彦さん、こっち、」
数学教師を襲っていた女性達の一団は、どうやら本来の目的を見いだしたらしい。気がつけばごく背後まで迫っている大集団の先頭で、武彦が顔色を変えてこちらに走ってくる。
どうやら、追いつかれたらしい。まずい。
しかも、…道の逆方向。
そちら側からの気配を感じ、シュライン・エマは振り向いた。
だめだ、向こう側も塞がれている。囲まれたのだ。
「武彦さん、」
「何だ、」
「耳を、塞いで貰えるかしら。」
出来ればやりたく無いんだけれど。
普通に立ち向かったら、あの女性達にけがをさせてしまうかも知れない。敵対する者ならともかく、正気に戻れば一般の女性である彼女達を倒すのは、やはり気が引ける。
少しだけ、感覚を狂わせてられれば良い。
すう、と息を吸い込んで、シュライン・エマは武彦の前に立った。
きん、と。
声は響かなかった。少なくとも、可聴域では。
だが。
周囲にいたらしい猫が、一斉に通りに走り出てきた。唐突に犬の鳴き声が辺り一面に広がった。
ごめんなさい、とシュライン・エマは心で詫びる。
人間には意識できないその音も、他の動物達には耳障りだったらしい。
いや、動物だけでは、無い。
まるで、電池が切れたように。
叫び声をあげて後を追って来た女性達の歩みが、ぴたりと止まったかと思うと。
一人また一人と方向を見失ったように、あらぬ方向へと歩き出したのだ。目の前に、武彦がいるにも関わらず。
「…見えて、いないのか?」
「いいえ。…平衡感覚が歪んで、向きと距離が認識できないだけ。…すぐ、元に戻るけれど。」
彼女達の距離が狂っている間に、少しでも距離を稼がなければ。
でも、どこに。
今や四方八方を女性達にかこまれて、この中心のほんの数メートルを残して、移動する場所なんかないっていうのに?
万事、窮す。
そう思った。その瞬間だった。
「…え?……」
突然。
取り囲んだ集団が、あちこちにばらけてゆく。
何が起こったのかと、武彦が顔を上げて。
「…自転車…!」
叫んだシュライン・エマの側を。
目を剥いて激走する男子高校生が、走り去った。
さっき男子校の制服に仕込んだハンカチが、今頃になって効果を発揮したのだ。
液体窒素で凍らせておいたハンカチは、時間をおいて溶け始めた。冷凍中はほとんど漏れなかった匂いは、溶けるのに合わせて少しずつ周囲にその力をまき散らし始める。生徒達が帰る時間と重なったため、…いや、重なるようにし向けたのだ…結びつけた自転車は四方八方に走り散った。シュライン・エマの声で一瞬行方を見失った集団は、不幸な自転車の高校生達に、その標的を変えたらしかった。
「…たす、かったのかしら……。」
しん、と静まりかえった、道のど真ん中に。
武彦とシュライン・エマ二人だけが残されて。
…やがて。
ぞろぞろと、先程の女性達が引き返して来た。走ってではない、一様に怪訝そうな面持ちで、自分達の居場所をお互いに確認するような物言いで。
『何やってたのかしら。』
そんな台詞が耳に届いて、…二人はそのまま、真っ白に燃え尽きたように道の真ん中に座り込んだ。
効き目が、切れたのだ。
「………。」
「…帰りましょう、か……。」
もう歩きたくない。そんな感慨を胸に、武彦はタクシーを止めた。二人してシートにもたれると、一気に疲れが襲ってきた。
「…とんだ、バレンタインだったわね…。」
これじゃ、当分チョコレートなんて見たくないかしらね。
呟いた肩に、こつんと重みが降ってきた。
シュライン・エマの肩に体を預けるようにして、武彦が薄く目を瞑っている。
「…疲れた、」
本当に。
体力と言うより、ほとんど気疲れだったけれど。
男性が一番楽しみにしている日に、これじゃあんまり可哀想ね。
少しだけそう思いながら、シュライン・エマは武彦に問うた。
「…バレンタインの代わりとはいかないけれど、今からでも、…何かして欲しいことがあったら、承るわよ?」
その言葉に、閉じたままの武彦の瞼が、ぴくり、と動いた。
それから少し押し黙って、幾分ふざけかけるような物言いで、返事をする。
「…出来るなら、…君の手料理をご相伴に預かりたい、かな。」
何しろ、腹が減ってたまらないんだ、まるで言い訳するように、武彦がそう付け加えて。
お易い御用、と言いかけて、シュライン・エマは笑いながらこう、言い換えた。
「…高く、つくかもしれないわよ?」
そう告げると。
肩口で苦笑しながら、武彦はこう、言葉を返した。
「…お手柔らかに頼むよ、シュライン。」
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
NPC/草間・武彦 (くさま・たけひこ)/男性/30歳/草間興信所所長、探偵
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛
納品が遅くなり、申し訳ありませんでした・・・。
今回は各人別々の内容とさせていただきましたので、シュライン・エマ様のみの内容となっております。
草間武彦氏と、なんだかつかず離れず具合のラブラブさをアピールさせていただいたのですが、
いかがだったでしょうか・・?
ちなみに、サブタイトルはチョコレートのCMに関係するものをひねって使わせていただいてます・・・(苦笑)。
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