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おまじない
*オープニング*
最初は、良くある恋のおまじないだった。占いなら当たるも八卦当たらぬも八卦と言うが、おまじない等と言うものは端から見れば単なる気休めである。が、年頃の少女達には恋愛は重大な問題であり、おまじないはその為の重要なプロセスなのであった……。
どこで聞いたおまじないだったかは忘れてしまった。でも、凄い効果があると聞いて、これは絶対やらなくちゃ。そう思った事だけは確かだ。
用意するものも簡単。白い紙と朝露。これは赤い薔薇の花弁に溜まっているのを集めるのが一番効果的だから、赤くないけど庭のピンクの薔薇の雫を集めた。後は緑色のボールペンとピンク色の蛍光ペン。これで、全部。
まずは、白い紙の上にピンクの蛍光ペンで図案を描く。教えて貰った通りに描…いたつもりだけどちょっと歪んじゃった。だって、見せて貰った見本のあの紙、透き通るぐらいに薄っぺらでくしゃくしゃだったんだもん。でもま、いいか。
で、それから指先に朝露を付けて図案の上をなぞりつつ、好きな人の名前を心の中で唱えて…。
「それで、どうなったんですか?」
少女の話を聞いているのは武彦ではなく、零だ。白い紙や朝露はともかく、蛍光ペンだなんて妙に現代的ね、といろいろ突っ込みたかったが、神妙な顔の依頼者に向かってはさすがに出来なかった。ソファの向かい側で今にも泣きそうな顔をしている少女が鼻を啜り上げる。
「そうしたら…図案の真ん中からモクモクっと白い煙が湧いて出て来て…」
それと共に、見た事もないような化物染みたイキモノが現われた。牛でもない、羊でもない、猫でも犬でもない、そのどれでもなくどれでもありそうな混沌たる生き物。明らかにそれは魔物だった。
その魔物が、くぐもった声で少女に告げたのだ。
【貴様の願いを叶えよう。そいつの首を必ず狩って来てやろう】
「ええっ!?」
驚いた零が思わず叫ぶ。少女もついには、わぁっと泣き出してしまった。
「どうしよう、恋を叶えてくれる筈のおまじないだったのに!一週間以内に殺されちゃう!」
言葉を失った零だったが、そこは長年の武彦との付き合い。既に彼女の頭の中では、助力を求める誰かの顔が幾つか浮かんでいたのだった。
*1*
かちかちかち、と軽いキータッチ音が事務所内に響き渡る。今は正午過ぎ、世間一般的には昼休み中で比較的静かな午後の時間帯であった。草間探偵事務所にて、電話のモジュラージャックを引き抜いてインターネットに繋いだノートパソコンを操っているのは零。その周りには、今回の呪い…もとい、間違ったおまじない騒ぎを収拾するため、集められた者達が集っていた。
「…昼の混んでない時間帯とは言え、やっぱりアナログ回線じゃ転送速度がなぁ…」
なかなか表示されないブラウザ画面を、零の肩越しに覗き込んで東條・薫が溜息をつく。首だけ捻って振り返り、零が苦笑いをした。
「すみません、ブロードバンドなんて言うイマドキのものはこの事務所には…」
「しょうがないわよ、ブロードバンドを導入するぐらいなら、その前にファックスを新しくしたいところだものね」
シュライン・エマが笑いながら指を指す。その方向には、後もう少し長持ちさせれば、骨董品として博物館に進呈できそうなぐらい古びたファックスが鎮座ましましていた。
「ありゃ、物持ちがいいってのとはちょっと違うようだねぇ。一概にケチと言う訳でもないだろうに」
腕組みをした古田・翠がシニカルな笑みを浮かべながら、時代物のファックス機を見遣る。そうしている間に、目的のホームページがようやく表示されたようだ。零の声に三人が、液晶画面を零の背後から一斉に覗き込む。ピンクと白とオレンジで彩られた、妙に華やいだ色彩のそのホームページのタイトルはと言うと、
【絶対効く!厳選・恋のおまじない100selection】
「…なんだか私にはさっぱり縁の無さそうなサイトだね」
「それは私も一緒よ」
「ついでに言うなら俺もだな」
背後で口々にそう言う面々に、零が肩を揺らして笑う。
「私だってありませんよ。これだって、あの女の子にURLを聞くまでは、こんなサイトがある事自体知りませんでしたもの」
「ま、そりゃ興味がなきゃわざわざこんなサイトを検索する事もないだろう。…それにしても、100selectionとあるが、本当に100種類もの恋まじないが存在するもんかね」
薫の言葉に、翠が視線だけでそちらを向く。
「まじないなんてものは、元々嘘っぱちか、本物の魔術や呪術が簡素化されて言い伝えられているかの、そのどちらかだからね。100種類ある中には、嘘もあれば本物もあるんだろう」
「大抵は口頭や見よう見まねでの伝承でしょうしね。そうすると、どこかで何かが間違いのまま、伝わっているって事も考えられるわ」
横から腕を伸ばし、操作になれない零の代わりにマウスを操りながらシュラインが言う。どうやら、このノートパソコンもこの事務所のものではなく、誰かからの借り物らしい。
「だがそれだと、このサイトに例のまじないが載ってたとしても、それ自体の信憑性も怪しいもんだな」
「まぁそう言ったものでもないさ。もしここに同じものが載っていれば、管理人に問い合わせて、どこからその情報を入手したか聞き、そこから遡っていけばある程度のところまでは行き着けるだろうよ。それまでの間に、術に詳しい者に出会えれば、呪いを解く方法も分かるかもしれないしね」
「一般的なおまじないと同じくらい、少女が掛けてしまった呪いの効果もあってないようなものならいいんだけど…」
シュラインがぼそりと呟くその声には、少女と、知らずに呪いを掛けられてしまった相手を案ずる響きが含まれている。その点に関して皆も同意見なのだろう、そうだと言うように薫も翠も無言で頷いた。
「……あ、皆さん、これ見てください!」
不意に零が声をあげる。それに釣られて皆がノートパソコンの液晶画面を覗き込み、ほぼ同時にあっと声をあげた。
その時、その画面に表示されていたもの…それは、あの少女がお手本にしたと言う、何かの魔法陣に似た図案が記されていたのだ。
「…魔術に明るい者がいれば分かるんだろうけどねぇ…」
「残念ながら、今ココにはいないわね」
サイトに載っていた図案をプリントアウトし、それを眺めながら翠とシュラインが溜息混じりに呟く。
「この場にもいないし、今、聞き込みに出掛けているあの二人も、そっちの専門じゃないしな」
「とりあえず、このサイトにあるおまじないの手順と、あの子が実行したおまじないとを比べてみませんか?」
ついでにと、おまじないの手順が載ったページをプリントアウトしながら零が言う。そうね、とシュラインが先に印刷された紙を手に取り、その図案をまじまじと見詰める。それを脇から翠も覗き込んだ。
「そう言えば、聞いた話ではその女の子、凄く適当なやり方でまじないを掛けていたようだね?」
「ええ、聞いた話の限りではね…でも話だけじゃ埒が開かないから、できれば、その少女が実際に使った物とかも見てみたいわね」
「それでしたら、この後で彼女にもここに来て貰うように頼んでありますので、捨ててないようなら持って来て貰うように頼んでみましょうか?」
零が背後を振り返って三人を伺う。そうね、と翠とシュラインが頷いた所で、その間、零がプリントアウトしたおまじないの手順を読んでいた薫が皆を読んだ。
「話を聞いた時から疑問に思っていたんだが、やっぱりそうだ。例の少女、折角用意したものを使ってないぞ」
「緑色のペンね」
シュラインがそう言うと、薫が同意を示して頷く。
「なんだい、つまり、女の子は手順どおりにまじないを実行していないって事だね?」
「そう言う事になるな。その所為で、ただの恋まじないが、呪いに転じたのかもしれん」
厄介な事だ、と薫が溜息をつく。小さく笑いながら、シュラインが零の方を向いた。
「他にも気になる事が幾つかあるし…聞き込みに出ているあの二人が帰ってきたら、早速その女の子に来て貰いましょ」
*2*
さて、その頃。シオン・レ・ハイと水野・まりもの二人は、中高生の下校時間を狙って繁華街にいた。文献やネットでの調べものはシュライン達に任せ、こう言った類いの話に一番詳しいであろう、女子中高生に聞き込みをしようとやって来たのである。
安価で美味しいと評判のオープンカフェには、時間帯の所為もあって客席を埋めるのは殆どが女性、しかも制服姿の学生ばかりである。少女特有の華やいだ話し声と笑い声が響く中、幾ら男前でも、シオンとまりもの組み合わせは、否応無しに目立ちまくっていた。
「…まりもさんと一緒なら、少女さん達も気を許して話を聞かせてくれるかと思っていましたが、こんなに注目を浴びるとは思ってもいませんでしたよ」
少女達の視線とひそひそ話にさすがに辟易したのか、声を潜めてシオンが言う。上体を倒して顔を近づけ、その囁きを聞き取ったまりもが喉で笑った。
「そりゃしょうがないよ、この店じゃ、男なら誰がいたって目立つに決まっているよ。…ま、だからこそ聞き込む相手にも事欠かないだろうって事で、わざわざこの店にやって来たんだし」
「それは分かっているんですけどね…あ、誰か近付いてきます」
その気配に気付いてまりもとシオンが上体を起こし、さり気無さを装ってコーヒーカップを手にとる。そんな二人のテーブルに近付いてきたのは、可愛らしいセーラー服を着た、十四、五歳ぐらいの少女三人であった。
「あの…もしかしてもしかしなくても、まりもクン?」
もしかしないんなら、もしかして等と勿体ぶった事を付け足さなくてもいいんだぜ、と心の中で呟きながら、まりもはにっこりと人好きのする笑顔を少女達に向けた。
「そうだよ、まりもだよ。やっぱ分かっちゃった?」
「そりゃもう!まりもクンなら一目見れば分かるわ!」
キャーッ!と小声で驚喜の声をあげながら(それでも小声で控え目に叫んだのは、他の少女達には気付かれまいとしての事らしい)、少女三人は手を取り合ってその場でぴょんぴょん跳ねている。一緒に写真イイですか?と手に手にカメラ付き携帯を持って目を輝かせている。いいよ、とまりもが快く承諾をすると、少女達はよりにもよって、シオンにカメラのシャッターを押させて、まりもと共にフレームに収まった。
「ありがとう!明日、皆に自慢しちゃおうっと」
「お礼はいいけどさ、ちょっと話を聞かせてくれない?」
「話?なーに?あたし達で分かる事なら何でも聞いて?」
興味深々な様子で、まりも達と同じテーブルの席に腰を下ろした少女達に、シオンが手短に例のおまじないの事を知っているかどうかを尋ねる。最初はまりもではなくシオンが話し始めた事で多少緊張をしていた少女達だったが、そのうち強張りも解き、まるで昔からの友達のような馴染んだ口調で話し始めた。
「そのおまじないなら知ってるわ。結構有名だもの」
「有名って、どんな風に有名なの?」
「どんな風に、って…凄く効果があるって噂よ。絶対、想いが叶うって」
「では、実際にそのおまじないをやって、想いが叶ったお友達はいるのですか?」
シオンがそう尋ねると、少女達は一斉に首を傾げる。暫しの後、三人が三人とも首を横に振った。
「…そう言えワタシ達の周りでは聞いた事ないわ。本当に叶ったって話どころか、やってみたって話も」
変ね、と少女達がまた首を傾げる。シオンとまりもも思わず顔を見合わせた。
「皆はどうしてやってみなかったの?好きな人がいない訳じゃないでしょ?」
まりもがそう尋ねると、だって、と一人が口を開く。
「だって、いろいろと面倒くさいじゃない。ペンとか紙とかはすぐに用意出来るけど、薔薇の朝露なんてねぇ…そう簡単に集められないしね?」
「そうよ。ウチの庭なんて薔薇どころか雑草しか生えていないもの。公園になら薔薇はあるけど、そんな朝早くに出掛けていくなんて厭だわ」
「…つまり、そう言う手間暇を惜しまないようなコじゃないとやらない、って事かぁ」
「切実にその恋を叶えたいと願っているか、或いは元々そう言った魔術的な事に興味があったか、と言ったところでしょうか」
「そうだろうね…ね、このおまじないの話って、皆はどこで知ったの?ネットか何か?それとも誰かから聞いたとか…」
「ネットにそう言うサイトがあるのは知ってるわ。でも私は友達から聞いたの。その友達も、誰か友達から聞いたって言ってたけど」
「まさに噂が噂を呼び、ですね。そうなると、どこかで真実が歪んで伝えられた可能性もありますね」
「こう言うのって案外、噂の出処はたった一人の人からだったりするのよね」
可笑しげに笑い声を漏らしながら、少女の一人が言う。そんな少女達に気付かれぬよう、シオンが細く溜息をついた。
「真実の話なら、幾ら吹聴されても構いませんけど、あやふやな情報は危険を招くだけなんですけどねぇ…」
隣で、まりもも無言でこくこく頷いていた。
*3*
「あの…それで……」
やや童顔で制服姿のその少女は、目の前に居並ぶ大人達に見下ろされ、不安げな視線を彷徨わせる。こうしてると全く普通の中学生で、呪いで人を殺し掛けているようには到底見えなかった。
「別にそんなに怖がる事はないわ。なにも獲って食おうとしている訳じゃないから」
少女の様子に、笑いを潜ませながらシュラインが言う。
「獲って食われそうなのはあんたじゃなくて、あんたの想い人の方だしなぁ」
「そんな意地の悪い事を言うんじゃないよ。このコだって、好きで呪いを掛けちまった訳じゃないんだから」
普段なら、基本的には自己責任、とばっさり切り捨てそうな翠だが、さすがに本人(しかも年端の行かぬ少女)を目の前にしては、シビアな言葉も多少なりとも勢いが鈍るらしい。が、言うべき事はちゃんと言う。
「…とは言え、やっちまった事に対してはちゃんと責任を取らないとね」
「そうですよ、それに第一、好きな人が不慮の死を遂げた…なんて事になったら大変ですよ?」
聞き込みから戻って、草間興信所で皆と合流したシオンが頷く。無言で少女に、だから相手の男の名前を教えろと迫ってみたが、少女はただ膝の上で両手を揉み合わせるだけだ。
「だって…相手の名前を言っちゃうと、おなじないの効力が無くなっちゃうんだもの…折角、本に書いてあった通りにちゃんと出来たのに…」
「…って事は何だ、失敗したのとはまた別のまじないもやってたって事か?」
薫の呆れたような声にもめげず、少女はエヘ♪と照れ笑いをする。指を折って実行したおまじないを数えているが、どうやら片手指の往復だけでは足りないらしい。
「…沢山おまじないを掛けたからって、それだけ効果が上がる訳じゃないんだよ?おまじないって言い方は可愛いけど、漢字で書くと『呪い』なんだからね。中には恋のおまじないじゃなくて、元から人を殺す為のものだったかもしれないんだよ?ついうっかりじゃ済まされないよ?」
内容的には結構辛辣な事をまりもがあっさり言う。だが、口調が口調なので、あまりキツい言葉には聞こえなかったが。
「そうよ、万が一にもそのお相手さんに何かあったら後悔してもし切れないでしょう?誰か教えてくれれば、守ってあげる事だって出来るし。名前がダメならせめて学年やクラスだけでも…」
「例え、そのおまじないが無効になったとしても、それはもう一度掛ける事は出来ないのですか?上手く出来たと言っても、想い人さんが死んでしまってはどうにもならないのですしね」
シュラインとシオンに切々と説かれ、少女は迷ってはいるらしいものの、強情に口を割らない。業を煮やした薫が、少女に気付かれぬよう、彼女の背後から『トレース』で少女の心の中を覗き、思考を読み取ろうとした。なにしろ、読み取りたい対象が目の前にいるのである。間違えようがなかったのだが。
「………」
「おや、どうかしたのかい」
不意に、額を片手で押さえて壁に寄り掛かる薫に、翠が声を掛ける。数回深呼吸をしてから、徐に顔を上げて真顔でこう言った。
「……その相手とやら、別に聞き出さなくっても構わないと思う」
「なんで?」
まりもが不思議そうな顔で首を傾げて薫の顔を見る。相変わらずの真顔のまま、薫が小さな声で言った。
「いや、多分…こいつなら、死神相手でも絶対死なないと思うから…」
*4*
結局、少女の想い人は特定されないまま、話を進める事になったようだ。
「…まぁそれじゃあ呪いを掛けられた誰かさんの事は一時保留と言う事にして…それでも、おまじないの間違いは特定しないといけないわね」
「そうだねぇ。大体、最初から恋愛成就のためのまじないじゃなかったかもしれないからね」
「えー、でも、ちゃんと『これはスゴク良く聞く恋のおまじないだよ』って教えてくれたんですよー?親切に見本の図案もくれたし…」
唇を尖らせて少女がシュラインと翠に抗議をする。ちょっと待って、とシオンが少女の言葉を制した。
「と言う事は、今回のおまじないに関しては、どこかネットや本で見た訳ではなく、人から教えて貰ったと言う事ですか?しかも、見本の図案まで」
「…随分と親切な人もいたものね……」
どことなく棘と言うか含みを持たせたシュラインの言葉だが、それを諌める者が誰も居なかったのは、皆が殆ど同じ事を感じた所為だろう。
「その、貰ったって言う図案、持ってきてくれたんだよね」
まりもがそう尋ねると、少女は頷き、傍らの通学鞄の中を探る。引っ張り出したのはA5ぐらいの大きさの白い紙だ。どんな素材なのかは分からないが、まるでセロファンかと思う程に薄く、その紙を透かして向こうの景色が分かる程だ。その中央に、魔法陣のような、円形の内部に模様が描き込まれた図案が描かれている。それを受け取ったまりもが、まじまじとそれを見詰めるが、
「……やっぱ見るだけじゃ分かんないね」
「そりゃそうでしょう。魔術に詳しい人なら、この図案が何を示しているかも知っているのでしょうが、残念ながら私達は門外漢ですからね」
「あんたが描いた方の図案は持ってきてないのか?」
まりもの肩越しに、見本の図案を覗き込んでいた薫が、視線を少女に戻して尋ねる。あります、と頷いて少女はもう一枚の白い紙を取り出した。最初に取り出した紙よりは分厚く、紙を透かして向こう側を見る事も出来ない。紙の大きさや、一辺がギザギザになっているところを見ると、ノートの一枚を破ったものらしい。その真ん中に、油性のマジックで描いたのだろう、僅かに滲んだうえにぶれた線で魔法陣が描いてあった。
「これはまたテキトーに描いてあるねぇ…ぱっと見、見本の図案とは全く違うものに見えるよ」
苦笑いをして、まりもが二枚の紙をテーブルの上に並べた。確かに、フリーハンドで描かれた少女直筆のものとは違い、見本の図案はコンパスや雲形定規等を使って描いたように、曲線も滑らかで綺麗なものだ。だが、それ以前に、この二つの図柄にある、何かの違和感を感じ、皆が無言で二つの図案を見比べた。
「…何だろう、何か…何かが違うような……」
「あ!」
翠の呟きに重なるように、シュラインが短い声をあげた。シオンが視線を上げ、隣のシュラインの横顔を見る。
「どうかしましたか?」
「これ、逆よ!左右なのか上下なのかは分からないけど、とにかく逆向きなのよ、図柄が!」
え。と皆が改めて二つの図案を見比べてみる。細かく唐草が絡み合ったようなその図柄は、一瞥しただけでは分かり難かったが、紙の向きを変えてよくよく見てみると、それは向かい合った鏡のように左右が逆になっていたのである。
「…あ、ホントだ」
「と言うか、この見本の紙、薄っぺら過ぎてどっちが表でどっちが裏なのか分からないんじゃないのか?」
そう言いながら、例に薫が、見本の図案を裏返し、そのまま少女が描いた紙の上に重ねる。適当に描かれた図案はぴったり重なる事はなかったが、それでも大まかなラインは一致した。シュラインが薫から見本の方を受け取って手に取り、表に向けたり裏返したりして紙の表面を見比べる。
「どっちも同じような表面だし、図案のインクも同じぐらい濃いわね」
「それじゃあ、どっちが正しい向きなのかなんて分からないじゃないか。まじないを実行する時、気にならなかったのかい?」
翠の言葉の後半は、少女に向けられたものだ。問われた少女は無言で首を傾げて考えていたが、ふるふると頭を左右に振って否定を示す。その返答に、予想していたとは言え、翠は唸って頭を抱えた。
「やっぱり…きっと、このコが描いたのは裏返しの魔法陣だったんだよ…」
「それで、恋のおまじないが、正反対の死の呪いになってしまったのでしょうね」
シオンがそう言うと、まりもが同意を示して頷いた。
「彼女が実行したおまじないの手順、聞き込みした結果ともホームページの手順とも、一応合ってたからね。やり方がマズかった訳じゃなかったんだ」
「…いや、充分マズいだろう……よく確かめもせずに図案を描いてるんだから」
ぼそりと突っ込む薫に、まぁそうなんだけどね、とまりもも小声で返した。
「でも、この見本じゃ間違って致し方ないわね。まるで意図的にどっちが表か分からなくしてあるようにも見えるもの。…疑いもしなかった点には問題はあるけど」
「厭な感じだねぇ、このコに見本をくれたとか言う人物、最初から誰かが間違ったまじないを実行する事を予測の上で、この紛らわしい見本を配っていたのだとすれば」
眉根を寄せて呟く翠の言葉に、誰も声に出して同意はしなかったが、その表情を見れば全員同意見であった事は確かであった。
*5*
「…で、恋のおまじないが死の呪いになってしまった原因は恐らく分かりましたけど…でも今でも、彼女の想い人には呪いが掛かったまんまなんですよね?」
原因が判明した所で事務所内にほっと安堵の空気が蔓延していたのだが、それを打ち破るように零がぼそりと言った。それを聞いたシュライン達は、「あ」と言う形に口を開き、互いに互いの顔を見合わせる。
「…そう言えばそうだったね」
忘れてた、とまりもが苦笑いをする。シオンが、何かの本のページをぱらぱらと捲りながら近付いて来た。
「ちょっと調べてみたのですが、やはりこのおまじない自体はちゃんとした恋のおまじないみたいですね。魔術書に同じ魔法陣が載っています。正確には、希望を叶える為に精霊を召還する簡単な呪術ですが」
「その呪術を相殺、或いは無効にするようなまじないはないのか?」
薫の質問に応えて、シオンが魔術書のページをぺらぺらと捲っては視線を左右に移動させる。やがて、黙って首を左右に振った。
「ありませんね。本物の呪いや悪意を跳ね返す呪術ならありますが、このおまじないは希望を叶えるおまじないなので…」
「希望ったって悪感情から来る希望なら同じ事かもしれないが、恐らく、跳ね返さなければならない程、強い効力は元より持ち合わせていないのだろうね」
翠がそう言うと、そうね、とシュラインも頷いてみせた。そんな二人に、少女が訴えるような目をして両手を胸の前で揉みあわせる。
「…でも、魔物が現われたのは本当なんですよ?見た事もないような恐ろしい姿をしていて…」
「見掛けは恐ろしげだったけど、実は全くの見掛け倒しで、全然怖くない魔物だったりしてね?」
あはは、と冗談交じりにまりもがそう言うと、そうだといいんだがなぁと薫も釣られて笑う。が、ふと思い出したような顔で少女の方を向いた。
「そう言えばあんた、緑色のペン。使ってなかっただろ」
「え?」
少女が首を傾げる。そうだった、と言う顔でシュラインが言葉の続きを引き継いだ。
「そうそう、緑のペン。用意するものの中に緑のペンは入ってて、あなたも実際に用意したのよね?でも、手順を聞いていたら、使ってなかったような気がするんだけど」
「…………あ、…」
そう言われてようやく思い当たったよう、少女の口が小さく開く。
「…そう言われてみれば……」
「言われるまで気付かなかったとは、よくよくのんびりしたコだねぇ」
翠が半ば呆れたように苦笑いをした。
「で、その緑のペンは、実際にはいつ、どこで、何の為に使用する筈のものなのですか?」
シオンの問いに、少女は一生懸命記憶を呼び起こそうとするが、目的の記憶までなかなか辿り着けないようだ。それよりもシュライン達が今まで調べた資料を見た方が手っ取り早そうだった。まりもが、パソコンで打ち出しをした資料を手にし、ぱらぱらと捲る。
「ええと…ああ、念じる前に、魔法陣の縁に相手の名前をローマ字で書き込むんだって。そうすると、おまじないパワーがその名前と依頼者が念ずる強い気持ちを読み取って、その相手の心に忍び込んで術者の印象を植え付けてくる…って書いてあるよ」
「おまじないパワーってのは恐らく、呪術と魔法陣によって召喚される魔物の事だろうね。魔法陣が表向きの時と裏向きの時で召喚される魔物が一緒が違うかは分からないが…これによると、名前を書かないと相手が特定できない、と言う事にならないかい?」
翠がそう言って、皆の顔を順番に見比べる。シュラインが腕組みをして、顎の先に指先を宛がった。
「…じゃあもしかして、彼女が召喚してしまった魔物って…対象とする相手がはっきり特定していないのに、『ついうっかり』依頼を引き受けてしまったのかしら?」
「……だとしたら、とんでもなく間抜けな魔物だな…」
どっちもどっちだ、と付け足して呟く薫が、思わず少女に、見比べるような視線を送った事には、幸いにも当の本人は気付いていなかった。
「魔物と言えども、人の心の中を読み取る事までは出来なかった、と言う事ですかねぇ」
「出来なくて良かったじゃないか。そんな能力を持った高度な魔物なら、一筋縄じゃいかなかっただろうしね」
「…そんな大層な魔物、最初から彼女には召喚できなかったと思うわ……」
シオンと翠の会話に、ぼそりと小声で突っ込むシュラインであった。
*6*
確証はなかったが、実際に少女が召喚した魔物は相手の名前を言わなかった事も判明し(少女がようやくその当時の事を思い出したのだ)、恐らく大丈夫だろうと言う事で、少女の想い人に対する対策は取り止めとなった。
「…で、トモダチから聞いたんですけど、間違えたおまじないは、正しいおまじないをやり直す事で上書きできるんだって」
嬉々として少女がそう言うのを、シュラインは苦笑いをして頷いた。
「じゃ、正しいやり方でおまじないをやり直すのね」
「はい!そうすれば、中途半端とは言え、もしも本当に呪いがカレに掛かっていたとしても、打ち消せるでしょう?」
「…ま、そう言う事になる…んでしょうね…」
そんな単純なものかどうかはシュラインには判断できかねたが、元より高度な魔術でもないので、それでも充分なのだろうと結論付けた。
と言う訳で、シュラインと共に少女は例のおまじないをやり直す。今回は、魔法陣も丁寧に、かなり見本に近いものを描く事が出来た(隣でシュラインが突っ込みいれまくりだったお陰だが)そして、前回はすっ飛ばしてしまった手順、緑のペンで相手の名前をローマ字で…
「…………え?」
思わずシュラインの目が点になる。少女が丸文字で魔法陣の縁に書いたその名前とは。
Takehiko Kusama
「……え、ええと……あの……?」
「えへ。シュラインさんにはお世話になったから、特別教えてあげるね!」
他の人には内緒よ、とはにかんで片目を瞑る少女に、思わず勢いで頷いてしまったシュラインだったが。
『……ライバルって、思わぬところに潜んでいるものなのね……』
今になって、薫が少女をトレースしたときの言葉が思い出された。
「いや、多分…こいつなら、死神相手でも絶対死なないと思うから…」
確かに。
おわり。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員 】
【 3356 / シオン・レ・ハイ / 男性 / 42歳 / びんぼーにん(食住)+α 】
【 4084 / 古田・翠 / 女性 / 49歳 / 古田グループ会長 】
【 4686 / 東條・薫 / 男性 / 21歳 / 劇団員 】
【 4691 / 水野(仮)・まりも / 男性 / 15歳 / MASAP所属アイドル 】
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■ ライター通信 ■
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大変お待たせ致しました、久々の草間興信所・調査依頼でしたので、多少の不安はありましたが何とか納品するに至りましたです、はい。
と言う訳で、相変わらずのへっぽこライター、碧川桜でございます。
シュライン・エマ様、お久し振りでございます!…って私が窓を開いてないんで当然と言えば当然ですが(汗) ともかく、またお会いできて光栄です。
と言う訳で、多人数のPC様を絡めてのノベルは久し振りでしたが…如何だったでしょうか?少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
ではでは、今回はこの辺で…次回、異界(予定)でもお会いできる事(勿論、それ以外でも)を心からお祈りしています。
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