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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


溢れる泉に手を浸し

 白い外壁は朝日を反射して、増々白く穢れなく。
 視る力に欠ける瞳にすら、眩しいような、白。それは中に住む一人の女性の、無邪気な穢れの無さと目映い肌の色彩、そして新雪の輝きの髪を思わせて、セレスティ・カーニンガムは笑みに瞳を細めた。
 仕事により多忙を極めた数カ月を終え、漸く天より与えられた久方振りの休日。それは奇しくも聖なる人の名が冠された愛の囁きを捧げる日、St. Valentine's Dayである。
 この日が近付いている事を感じつつも明確に予定を立てておかなかったのは、仕事の所為で予定が潰れたが為に、セレスティにとって何より大切な女性の笑顔が曇るのを恐れた為とそして。幾度か共に時間を共有したこの日に。時には計画の無い自由があっても面白いのでは、と言うセレスティの悪戯心が動いた為である。
 右手には艶やかな花弁を纏う薔薇。これはセレスティの庭師が丹精を込めて育てた花を今朝早く花束に仕立てて貰ったものだ。露を含んだはなびらは馥郁たる香を放つ。蕾ばかりの花束の内、一本の花の先を人さし指で柔らかに弾くと、表面の水滴が散って一層高い薫りを上らせた。
「良い薫です……」
 花を捧げる相手の、その邸の扉の前に立ち、セレスティは口許を綻ばせた。それは薔薇が香るのにも似て、艶やかな微笑みである。この微笑みが、どれだけ人を魅了するのか、無自覚な麗人はただ只管に思い人の喜ぶ顔だけを思い描き、その登場を待つ。
 訪れを告げてから既に十分程が過ぎている。執事には中へ入るように促されたが、これから共に出掛ける事を思うと、矢張り外で待つのが礼儀、と辞退して。大人しく佇むセレスティである。
 ――待つ時間も、逢瀬の楽しみですから。
 愛しい人がどんな姿で、どんな表情をもって現れるのか、想像をしているのも楽しいもの。
 それも幸福の一つであるとセレスティは思っている。
 訪れを待つ、それは愛する者が存在するからこそ体験出来るものであるのだから。
 沢山の人々が存在する中で、その中の唯一に出会えた事。その証でもあるのだから。
 風がセレスティの傍らを過り、手にした薔薇を揺らして行く。また、薫りが鼻をくすぐり、これからの時間を予感させて、セレスティはそっと瞳を閉じた。

「ごめんなさい〜セレ様ぁ」
 泣くのが下手なバンシー、ヴィヴィアン・マッカランは、珍しくも紅い瞳に涙を浮かべる勢いで、セレスティに頭を下げる。
「あの、あの、時間を間違えていたわけじゃないんですぅ、そうじゃなくて、あの」
 結局三十分近くセレスティに待ちぼうけを食らわせたヴィヴィアンは、現れてから謝り通しであった。
「セレ様に御会いするのも、お顔を見るのも久し振りで、嬉しくて楽しみで、お洋服を選んでいたりしたら、昨日全然眠れなかったんですぅ。それで、それで……っ」
 言い募る毎、セレスティに対して申し訳なさが募るのか今にも涙が盛り上がりそうな紅い瞳をセレスティは黙して見つめる。
「こんなの言い訳ですよねぇ、あの……ごめんなさい……」
 ヴィヴィアンの言いたい事は、セレスティには解っていた。
 彼女は、セレスティにこの日の約束を忘れていたわけではない、そうと伝えたいだけなのだろう。
 軽視したのではない。ただ楽しみでいた事を。
「判っていますよ、ヴィヴィ」
 身の前で固く握られる手に、自分の手を添えて、セレスティは微笑む。
「判っています……貴女が楽しみにしていてくれた事は」
 握りしめられた手の力を、解すように手を撫でる。
「私の為に選んでくれた今日の装いも、素敵ですよ」
 頭にはティアラを模したミニハット。薄い桃色のセーラーブラウスは小さな衿と袖口、そして裾に上品な一重のフリル。ブラウスに合わせたティアードスカートは、シンプルながらも小バラがプリントされて可愛らしい。
「まるで朝積みの薔薇の蕾のようですよ……この花束のような、ね」
 宥められて漸く解けた手に、薔薇を手渡せばヴィヴィアンの口許にようやくいつもの笑み。
「わぁ……綺麗ですぅ。セレ様のお庭の薔薇ですねぇ?」
「そうです。ヴィヴィの為に咲くのを待っている蕾達です……どうか貴女の明るい笑顔で照らして差し上げて下さい」
 花束に顔を埋めるようにしていたヴィヴィアンが顔を上げる。
「……セレ様」
「涙を浮かべる紅い瞳も花の様で美しいですが、やはり貴女にはほほえみが似合いますよ、ヴィヴィ?」
 だから、笑って下さい。
 セレスティの囁きに、ヴィヴィアンは頬を染める。
「……はいっ、セレ様。あたし笑いますっ」
 宣言があまりに愛しく、セレスティは思わず吹き出していた。
「あ、あの、おかしいですかっ? ごめんなさい、つい、ええとっ」
 花束を抱き締めるように抱えて、あたふたと慌てるヴィヴィアンが増々愛おしい。
 他に、此れ程の幸福が何処にあると言うのだろう。
「それでは行きましょうか、ヴィヴィ。楽しい時は早く過ぎるもの――、去って行く時間を引き止める術を私は知りませんから」
 何処へ行かずとも、こうして語り合うだけでも十二分に楽しくはある。けれども。
 今日は特別な、日。
「はいっ……あ、でも、ごめんなさいっ! ……一寸だけ待っててもらえますか?」
「良いですよ。何か忘れ物でも?」
「いえっ、薔薇が」
 ヴィヴィアンは扉を開いて中へと身を滑り込ませ乍ら言う。
「一緒に連れて行ってあげたいですけどぉ、そうしたらお水がなくて萎れてしまうのです。咲く前に枯れてしまったら可哀想ですから……」
 駆けて行く足音と遠離る声。
「もう少しだけ待っていて下さいね……」
 奥へと消えて行く気配をセレスティは追う。慌てて転ばねば良いけれど、と案じながら。


 二人で向かった街は、いつもと変わらないように見えて、少しだけ何処かが違っていた。
「何が違うのでしょう……」
 違和感を感じながらも、目に見える程のそれではない故に、ヴィヴィアンが不思議そうに首を傾げた。
「……きっと、人々の心が違うのでしょう……今日はヴァレンタインデイですからね」
 日曜日でも祝日でもない為、社会人にとっても学生にとっても普段と変わらない日常。けれども、密やかに息づくのはある。
「知っていますか、ヴィヴィ。ヴァレンタインデイの由来を?」
「あ、はい〜、ローマ皇帝に迫害されて処刑されてしまった、聖ウァレンティヌス司教を記念する日……ですよねぇ?」
「そうですね。でも1969年に、カトリック教会の公式な祝日から聖ヴァレンタインデイは削除されてしまっているのは御存知ですか?」
「ええっ、なんでですかぁ?!」
 大きな目を見開いて、ヴィヴィアンは不満げな声をあげた。
「聖ウァレンティヌス司教に関して、幾つかの伝説がありますが……、どれも史実と言うよりも伝説に近いもののようですね。それが故に、伝説を由来にする聖人の日として公式な祝日から消された様です」
「そんなぁ……」
 ローマ皇帝によって、婚姻を禁止された兵士達を秘密で結婚させていたが故に処刑されたと言われる聖ウァレンティヌス司教。
「本当だったかも知れないじゃないですかぁ……消しちゃうなんて酷い、ですぅ」
 言い伝え、伝説――そうとしてしまえば如何にも曖昧で、存在は不確かだ。
 けれども……それでも、人々の言葉の上に、書き記された文字の上に、存在していると言うのに。
「伝説だからって、偽りと決めつけてしまうなんて……悲しいです」
 バンシー、人魚――ヴィヴィアンもセレスティも伝説の中にしかない筈の存在である。だが今、確かにこうして地を踏み締めている。
 伝説として消された聖人が、自分達に何処か重なったのだろうヴィヴィアンの、僅かに落ちた肩へセレスティは手を乗せた。
「でもヴィヴィ、聖なる司教は現代でもちゃんと……生きておられますよ」
 私のここに、とセレスティが自らの胸を示す。
「そして貴女の中にも」
 セレスティが指先でちょん、とヴィヴィアンの鼻先に触れる。
「そして……、数多の国の沢山の人々の中に。――ねぇ、ヴィヴィ、素敵な事ではありませんか」
 セレスティは足を止めて空を仰ぐ。隣を行くヴィヴィアンも倣うように足を止めて、空を見上げた。澄み渡る空の青が視界を覆う。
「どれだけの人々が、今日と言う日をヴァレンタインデイと称んでいるでしょう? 人の心に刻まれて在る……記述の上でただ文字として残るより遥かに」
 素晴らしい事でしょう?
 そう言って水の色の瞳を笑みに細めるセレスティに、ヴィヴィアンは頷いた。何度も頭を縦に振る。
「そうですねっ、セレ様!」
 セレスティは頷く事でずれた、ヴィヴィアンの頭にちょこんと乗る帽子を直す。顎の下に結ばれた、帽子を止めるリボンを結び直せばヴィヴィアンは含羞むように微笑んだ。
「この様な日に、貴女と御一緒出来て私は幸せ者ですね」
「私もですぅ」
 互いに微笑みを交わし、どちらからともなく再び歩き出した。


 その店は、ともすれば見落としそうな程、ひっそりとした佇まいだった。
 気付いたのはヴィヴィアン。ウィンドウに飾られた、古いタイプライターに目を留めて、それから店の存在に気付く、それ程に目立たない外装は、特筆すべき事が見付からない程に地味である。白い外壁は手入れをされていないのか、薄汚れており看板は見当たらない。壁に直接店名らしきものが書かれているようだが、それも薄れてしまっている。
 それでも何処か心惹かれるのは、それだけはどうにか判別出来る文字である「アンティークショップ」のせいか。
 ウィンドウの前で置かれたタイプライターに見入るヴィヴィアンにセレスティは問う。
「入ってみますか」
「えっ、いいんですかぁ?」
 嬉しそうに聞き返されればセレスティに否の選択は無い。微笑みを肯定の代えれば、ヴィヴィアンの喜びの声を上げて、扉を開いた。
 中は外観からの想像出来るをそのままに、狭い。
 和洋折衷の統一感の無い品揃えはだが、セレスティを少々驚かせた。
 セレスティの目から見ても良いと思える品が、そこここに無造作に置いてあるのだ。
「ここの店主は商売気は無いようですが、目利きではあるようです」
 ヴィヴィアンの耳元で小さく囁けば、驚きの声が返る。
「確かにこのティーカップは素敵ですけどぉ……」
 言いつつ近付いたのは、ガラスのショウウィンドウ。中にはアクセサリー類や、陶器類がある。
 ヴィヴィアンの言うティーカップはマイセンで、しかも稀少価値の高いものだったとセレスティは記憶している。
「こんな所でお目に掛れるとは……」
 言いかけて視線が、その隣の小さな銀の指輪に留まる。
 二つ並べられたそれは、王冠の形をしている。中央に小さな石が嵌められており、一つはサファイア、もう一つはルビーのようだ。
 セレスティは店の奥で船を漕いでいる老齢の店主を呼び、ショウウィンドウから指輪を出してもらい、ヴィヴィアンに見せる。
「わぁ、可愛いですねえ」
「貴女にはやはりルビーが良いですね」
 瞳の色に合います、とセレスティはヴィヴィアンの手を取って指輪を嵌める。
「帽子とも合っていますしね……これを頂きましょうか」
「ええっ、でも」
「今日の記念に贈らせて頂けませんか」
 セレスティの懇願に、ヴィヴィアンは戸惑うような表情を見せたが、やがて頷く。
「ありがとうございます……大事にしますねっ」
 指輪を嵌めた手を、胸元に抱えてヴィヴィアンは喜びに頬を染めた。
「こちらこそ有難うございます。受け取って下さって」
 ヴィヴィアンはいつも素直に喜んでくれる。その声が、表情が、セレスティにとっては何よりまさる喜びだ。
 思わず肩を抱き寄せたくなる心を抑え、セレスティはヴィヴィアンを外へと促す。
 二人だけの時間を、密に過ごせる場所へと向かう為に。


 白が眩しいシーツに身を委ねて、微睡みを楽しむ。
 地上から遠いホテルの最上階の一室で、二人の時間がゆったりと過ぎて行く。
 連日の忙しさから離れた解放感と、恋人との優しい時の酩酊とを味わい、セレスティは眠りへの誘惑を受け入れようとしていた。
 隣のヴィヴィアは未だ起きているだろうか、と見てみれば、彼女はこちらをじっと見ている。
「どうしたんですか、ヴィヴィアン?」
「セレ様……あの」
 言い難そうにしているヴィヴィアンに、微笑んで先を促した。それでも中々言い出せない様子のヴィヴィアンだったが、意を決したように唇を開く。
「薔薇の蕾の花言葉って『愛の告白』でしたよねぇ?」
「そうですね」
「あのっ、あたしとセレ様って、恋人同士……じゃなかったんですかぁ?」
 瞳を伏せて、小さく呟かれた言葉にセレスティは目を見開いた。
「ヴィヴィ?」
「だってだって……告白って、恋人になる前にする事ですよねぇ?」
「そうじゃないんですよ」
 セレスティはヴィヴィアンの銀の髪を梳く。
「私はね、ヴィヴィ。何時でも貴女に告げたいと思っているだけなんですよ。こうして二人だけの時を過ごすようになった今でも」
 俯くようにしている顔に手を添えて、優しく撫でる。
「何度でも貴女に囁きたくなるのです」
「何故……ですか?」
 セレスティの手に頬を預けるようにしているヴィヴィアンの瞼に口付ける。
「思いが溢れて止まらないからですよ」
 滾々と湧き出る泉のように、愛しさが溢れて来る。決して涸れる事のないそれ。
「厭ですか……?」
「いいえ……いいえセレ様。あたしもおんなじですから」
 綻ぶ口許は、まるで薔薇の蕾が開くよう。
 その唇に触れたくて、セレスティは睡魔の手を振り払った。