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<東京怪談ノベル(シングル)>


call for

 かき抱いた腕の中、残された温もりすらも消え行く。
 それはただの感傷でしかないのだと、頭で理解しながらも、神鳥谷こうは黒革の、ロングコートに染み付いた気配に、香りに縋らずに居られなかった。
 灰すらも残さずにその肉体を灼き尽くしたのは自分、行為自体に悔いはないが、ただ彼が、あの黒い姿がこうの傍らに無く、あの赤い瞳がこうを捉える事なく、あの声がこうの名前を呼ぶ事が二度はない。
 その確かな事実を認めたくない。
 こうはコートを握り締めた……こんな事をしている場合ではないと思う。『幸せに』、ならなければ。
 彼が遺した、漠然として曖昧な言葉が胸を占めて重く、その場から、その時から動こうとしない身体を叱咤して、こうは身を起こした。
 それでも手は掴んだコートを離す事が出来ずに、抜殻ながら重みを持った、それを手に歩き出す。
 背に誰か、声をかけたような気がしたがそれには構わず、こうは公園の敷地を抜けて街へ、その奥へと裏道を進む……あの場所、彼が命を失った彼処にこうの幸せはないという思いに突き動かされるのみで、目指す場所が、然したる目的があるではない。
 奥へ、奥へと入り組んだ路地を進む内に、非常階段の下に積まれた段ボールの山に出会して足を止めた。
 路上で生活する者が寒さを凌ぐ為、少しでも風の入り込まぬ場所を仮の宿りとしているようで、妙に生活臭が濃い。
 何とはなしに眺めてふと、こうは道の際で壁に向かって横たわる人間が居る事に気付く……背を丸め、震えながらも眠っているらしい。
 毛糸の帽子から白髪を覗かせた、老人と思しき見ず知らずの人間が、寒いのだと判じたこうは手にしたコートを広げて着せかけた。
 不意の優しさに夢現から醒めた老人はびくりと肩を強張らせ、首を巡らせて見上げて来たが、それに何ら感慨を抱く事なく、こうは無頓着とも言える興味の無さで彼のコートをそのままにして、また足を動かす。
 また、背に声が掛けられたが、嗄れ声は心まで届く事はない。
 こうの中に谺する、名を呼んだ彼の声の残響が街の音を消してしまう。
 彼の輪郭を探して、赤い瞳を求めて眼差しは虚空を滑る。
 黒い姿を求めて灰色の街を、こうはひたすら彷徨い続けた。


 柱時計の時を告げる鐘の音に、こうは、は、と顔を上げた。
 風に翻るカーテンの白が、薄暮に沈みかけた家の中で視線を誘う……柔らかなフォルムを持つ家具と、一足早く闇を呼び込む小物の黒は既に見慣れた感のある、こうの家だ。
 何時の間に、戻っていたのか。
 無自覚の帰宅に呆然と家の中を見渡した。
 時間の感覚は失せ、あれからどれがけの時が経ったのか、今が何日であるのかすら判らない。
『そゆ時は、こう』
影が、過ぎる。
『コレコレ、ここ押してみて』
楽しげに手招いた影が示すのは、キッチンカウンターの上に置かれた正方形の置物。
 誘われるまま触れれば、指先がカチリと音を立てる手応えに沈み、天井にグリーンの文字で時刻と日付とが照射される。
『な、面白ェだろコレ♪』
誉めて貰いたい子供のような笑いに、記憶の中の自分の声をもう一度重ねた。
「……柱時計があるだろう」
経済的な観念で諫めるでないが、些か無駄な感の強い買い物が純粋に不思議で問うた。
『いーじゃん、好きなんだよこういうの』
ほんの少し口元を尖らせた後、彼は想い出の中でまた笑う。
『こう、こっち来て座ればいいだろ』
ソファに俯せに寝そべった影がこうを呼ぶ。
『何してんの、こう』
程近い森の声に耳を澄ましていたこうに、問いかけの声。
『こう、俺のパンとベーコン、カリカリに焼いて♪ ……ってトースターとフライパン使えよ、皿が溶けるじゃんか』
焼けと言われて思わず使った能力に呆れた注意の後、渋面を保持出来ず身を折って笑い崩れる。
『こーう?』
名前を呼ばれる、何度でも。
 その姿が鮮明に、声は何度でも記憶に蘇るが、新たな想い出が重ねられる事は最早ない……この世に存在しない彼はもう二度と、この家を訪れる事はない。
 強く、胸を内側から打った痛みに、こうはシャツの胸元を強く握り締めた。
 それに相反して膝からは力が抜け、体を支える事が出来ずに頽れ、踞る。
 鼓動の如く明滅する痛みを吐き出そうとするように、こうは幾度も喘いだ。
「……初めて出逢った人間を」
更に強く、胸元を握り締めてこうは呟く。
「盲目に主と定めるだけの、人形であったなら」
どれだけ、楽だったろう。
 踞った姿勢のまま、目線だけ上げる……が、低い位置の視点は記憶に重ならず、暗い藍に沈んで冷えた空気がカーテンを揺らすばかり。
 こうの疑問への、答えは返らない。
 否、こうの想いを左右する問いを、答えという形で彼がが与えてくれた事はない……いつでもこうが、自分の内から導き出すのを厭わずにただ待ってくれるのだ。
 彼を忘れてしまえば、胸の痛みも、吐き出せない想いの苦しさも消えるだろう。
「忘れたくない」
けれどそれはこうの、幸せではない。
 口中に小さく、彼の名を呟く。
 願いと共に託された名はまだ舌に馴染まずに居るが、ストンと胸の奥に静かに収まった。
 その重みに、こうは一度目を閉じて、また開いた。
 この家にこのまま彼の記憶と共に籠められて、繰り返し、夢にその声を姿を求め、沈むのは容易い。
 けれどそれはこうの、幸せではない……此処には想い出しかない、ならばこうは行かなければならない。
 彼が遺した言葉を、叶える為に。
 立ち上がったこうは窓と雨戸を閉め、律儀に火の元を確認して後、何一つとして持ち出さず身一つで家を出た。
 洋風の家は、施錠は内側からばかりで、外からの鍵を配されたのは表玄関の扉のみである。
 その鍵だけを、手に。
 こうは彼に与えられた居場所を見上げた。
 鍵穴に差し込んだ鍵は、銀のメッキを施された古風な棒鍵である……この鍵に合わせて、彼は錠前をわざわざ作り、それを扉に使った。
 意味を問うたこうに、彼の横顔が微笑む。
『コレ、昔お袋と住んでた部屋の鍵。彼処はもう建物が無くなったからダメだけどさ……家の鍵って持ってると必ず帰れるってお守りになんだってさ』
言って、こうの掌に鍵を落とし込んだ、手の……記憶の中では冷たかった覚えのある、温度が暖かく思い出されて、こうは回して引き抜いた鍵を握り締めた。
「いつか……戻る」
貴方と過ごした時に、負けなくなったら。
 誓いの如き思いに、幸せにと、最後に願った彼の言葉を笑みが蘇る。
 痛みの色は深く濃く自らの胸を抉るが、それが如何な物かとこうは微笑みさえした……哀しみに痛もうが、嘆きに軋もうが。
 こうは、彼の願いを叶えるだけだ。終焉に際して託された望みを。
 何時になるかは判らないが、再来を信じてこうは家に……記憶に呟く。
「探して来る……」
彼の願った、幸せを。
 向けた背に想い出が、いってらっしゃいと見送りの声をかけたような気がした。