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ハッピー・バレンタイン?
べつに、これといって特別気にしていたわけではない。
完全に、意識の内にはなかった。それなのにそんな気になったのは、おそらく……気分がよかったのだろう、きっと。
「ねえ、もう買った?」
「え……えっと、まだ。バレンタインだよね?」
「うん。ね、まだなら一緒に選びにいかない?」
「あっ、行く、行く!」
それは撮影スタジオからの帰り道、乾燥した冷たい風が人混みをかきわけて肌へと吹きつける冬のある日の出来事。たまたま暇をもてあましていたら、偶然こんな会話が耳へと飛び込んできた。
「バレンタイン……ねえ」
外したサングラスを指先で弄びながら、喜多見玲は紫のカラーコンタクトに彩られた瞳を数度瞬かせる。
バレンタイン・デー。本来の起源や由来の意味といったものはともかく、一般的には女の子が好きな男の子にチョコレートを贈り、愛を告白する日とされている。実際には恋愛感情抜きで仲の良い男友達や世話になった相手などに感謝や友愛の気持ちを込めて贈られることも多く、結果的に恋する女の子以外も手軽に参加できるイベントとなっていた。いわゆる、義理チョコだ。
玲には本命チョコをあげるべき相手は、いない。かわりに愛する弟に一生忘れられないようなインパクトのあるチョコレートをあげようかなどと考えたとき、ふと一人の男の顔が脳裏に浮かんだ。
「……まあ、義理チョコくらいならあげてもいいわね」
仲の良い男友達。そう言われれば、該当する相手がいないこともない。
本当に仲が良いと言い切れるかどうかははなはだ怪しいが、少なくとも嫌ってはいなかった。言いたいことを言いあえて、気兼ねすることなく会うたびに口喧嘩を繰り広げ、それでも縁が切れることはないのだから、おそらく十分仲が良いのだろう。たとえそれが単なる口喧嘩だとしても、だ。
「どうせ、あいつにチョコあげる心優しい人なんて、他にいないでしょ」
それならば、少しばかり慈悲の心を恵んでやるのもやぶさかではない。
「でも、さすがにコンビニの板チョコじゃあたしの美意識が許さないわね。……あ、そっか」
ふと思い出して先程の女の子たちを探してみれば、彼女らは連れ立って可愛らしいディスプレイを掲げた店へと入っていくところだった。ショーウインドウには、いくつものハート型をしたチョコレートと、やはり可愛らしく書かれた「St. Valentine's Day」の文字が見える。
つられたわけでは、たぶんない。それでも彼女たちの後を追うかのように、玲は足をその店へと向けた。
それから、しばらく後。
「やだぁ。燎さんたら、本気?」
「あたりまえじゃねぇか。こんなことで冗談言ってどうするよ?」
「だって、ねえ」
「うふふ、そういう人よね。とりあえず、はい、チョコレート」
「おー、サンキュ。いやあ、今日はイイ日だな」
「毎年言ってるじゃないの、それ。もー」
可愛らしくラッピングされたチョコレート(ただし安物)持参で目的地であるアクセサリーショップへと訪れた玲を出迎えたのは、数人の女の子たちに囲まれたその店の主、高峯燎のまんざらでもなさそうな顔だった。
少々考えナシではあるとはいえ総じて見れば人当たりのいい兄ちゃんである燎だが、その眼光の鋭さのせいか他人に与える印象が「ガラが悪い」の一言に尽きる。それが災いして女性、特に若い女の子からは敬遠されがちだろうと思っていたのだが……。
「ふーん……意外じゃない。案外、モテるのね」
どうやら、玲の予想は外れたらしい。
近寄りがたいというわけではないが、なんとなく釈然としないまま玲の足が止まる。モテない男にチョコをあげて優越感にひたるつもりだったのに、早々に目論見が崩れた気分だった。
「んじゃな、また来てくれよ」
「ホワイトデー楽しみにしてるわね」
「はっはっは」
「笑ってごまかしてもだめよ!」
なんとなく遠巻きのまま、燎が悪いというわけでもないが微妙に悔しい気分を噛みしめていた玲の耳に、そんな会話が飛び込んでくる。目線をふたたび燎の店へと戻せば、手を振りながら女の子たちが去っていくところだった。どうやら、来客たちの用事は終わったらしい。
満足そうな笑顔の燎は玲がいることに気づくことなく、もらったチョコレートの山を抱えて店の中へと入っていく。一瞬どうしようかと思いはしたものの、玲は初志貫徹して燎を追っていくことにした。
チョコレートが大嫌いというわけでもない限り、バレンタインの義理チョコをもらって嫌な顔をする男も少ないはずだ。きっかけや事情がどうあれ、しかもさほど金をかけたわけではないとはいえ、玲が燎のためにチョコレートを用意したのは事実だ。このまま説明のしようのない不快感のために、それを無にするのはもったいない。
チョコレートの包みを隠したままかすかに音を立てて扉を押し開ければ、そこには見慣れた光景が広がっている。壁の棚に並べられた銀製品のアクセサリーが、いつも通り静かな光をたたえていた。
これらを作り出したのが目の前の男だと認識するたび、玲はなんともいえない違和感に肩をすくめたくなる。手先の器用さと性格の繊細さに、あまり強い関連性を求めてはいけないのだろう。
ここへ来るたびに浮かぶどうでもいい感想を首を振って払いのけると、玲は燎の背中へと声をかけた。
「燎」
「お? よぉ、レイ。おまえもチョコくれんのか?」
振り返った燎の表情は、明るい。
だが。
玲にとって、それは地雷にも等しかった。
「……おまえも?」
先刻、店の前で見かけた女の子たちの姿が脳裏に浮かぶ。
彼女たちのすぐ後にやってきたのだから、燎がそう口にする気持ちもわからないこともない。バレンタインデーにそこそこ仲の良い女友達がやってくれば、期待してしまうのが男のサガというものだ。
いざ実際に言われてみるとこの上なく腹が立つものだということに、玲は今さら気がつくはめになる。
「違うのかよ」
「違うわよ、当たり前じゃないの」
「なーんだ、ケチくさいな。せっかくバレンタインなんだぜ、たまには日頃世話になってる俺に感謝のキモチとやらを表してくれよ。あ、チョコがないならカラダでもオッケ……うわっ!?」
ぐわしゃ、がっしゃん。
不吉な音をたてて、薔薇の細工が施されたイヤリングが床へと落ちた。そのイヤリングは本来ガラス張りの陳列棚に置かれていたはずだ、ということは……この際、気にしない。
玲と燎は、会えば高確率でケンカを繰り広げる。その原因は、ほとんどが燎のセクハラ発言がきっかけだ。
玲もいい加減慣れればいいものだが───まあ、慣れるのと気にしないのはまた別問題なのだ。おそらく、きっと。
だから。
それじゃなくても斜めに傾いていた玲の機嫌にトドメが刺されたとしても、不思議では、ない。
「あー、こらこら、玲くん。それはだな、俺んちの売り物でな……?」
「それがどうしたってのよ……!」
そんな怒鳴り声と同時に、商品が乗せられていた棚がひとつ崩壊した。……玲が足払いをかけて、蹴倒したのだ。
「いやだから、投げるな壊すなって……うわわわ! ロープロープ!」
「お黙り」
再び、がしゃん、とそれは小気味いい音がする。
窓が割れていないのが、不思議だ。
「黙って聞いてれば、ケチくさい? 世話になってる? 感謝の気持ち? カラダで? 博才ナシのダメ男の分際でなにほざいてんのよ、ふざけてんじゃないわ。感謝してほしいならあたしに一度でもゲームで勝ってからにすることね!」
「レイ、いまんとこ無敗じゃねぇか。無茶だろ、それ」
「当たり前よ! あたしは、一生誰にも負けないの!」
最後に、入口近くの棚に乗っていた銀の燭台をひっつかみ、それを燎に向かって投げつけると。
壊すことが目的としか思えない勢いで扉を引き開けて、玲は店の外へと飛び出していった。
「うっわー……マジか、これ」
見回せば、倒れた棚、そして床に散乱した銀細工の商品の数々。
まるで、台風の直撃でもくらったかのようにしか見えない。そんな荒れ果てた惨状に、燎は深いため息をつく。
今日はきっと、厄日だったのだ。燎は、そう思うことにする。
……まだ、その厄は終わっていないとも知らずに。
「……あ」
怒りにまかせて燎の店を飛び出してきた玲だったが、二つ目の角を曲がったところでふと我に返った。
燎のために買ったチョコレートは、まだ手元にある。渡しそこねたからと言って自分で食べるのは、もってのほかだ。
「……あいつにやるのも悔しいけど」
ここまま捨ててしまうのも、また腹が立つ。このチョコレートを用意した自分の労力が、まったくのムダになってしまうではないか。
「そうよね。ただ捨てるなんて、もったいないわね」
そう、もったいない。捨てるくらいなら、他に使い道がある。
決めてしまえば、あとは実行に移すだけ。玲は踵を返すと、軽やかに地面を蹴って走り出す。目指すは、荒らすだけ荒らして飛び出してきた燎の店。
「ぬぁ?」
出てきたときと同様、壊しかねない勢いで扉を開けば、店中にぶちまけられたアクセサリーを拾い集めている真っ最中の燎がいた。
まさか、玲が帰ってくるとは思っていなかったのだろう。中腰になりかけというやたらと中途半端な体勢のまま、燎はせわしなく瞬きをしつつあんぐりと口を開く。
「玲? なんだぁ、もしかしてここの掃除してってくれる気になったとか……」
「そんなワケないでしょ。忘れてたわっ、ご堪能あそばせ!」
怒りなのか意地なのか、狙いすましたわけでもないのに玲のコントロールはすばらしい。
「ぶっ!?」
場の雰囲気に少しも似合わない小さなハート柄の包みは、みごと燎の顔のど真ん中に命中した。
そんな、ハッピー・バレンタイン・デー。
Fin.
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