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□■□■ あなたへ。 ■□■□
「……何でしょう」
渡したカードに相手は小首を傾げ、じっと見詰めてくる。さらりとした黒く長い髪を揺らせ、赤い眼が真っ直ぐに。命令に縛られた偽りの笑顔は消えたが、途端にその表情は乏しくなってしまっている。向けられた疑問と視線に、シュライン・エマは小さく苦笑した。
渡したのは、カード。
小奇麗なレースで縁取られたそれ。
「何って、バレンタインのカードよ? お世話になってるからね、零ちゃんが来て以来お掃除の手間が省けて随分時間を有効活用できるようになったから」
「……バレンタインとは何ですか?」
「え?」
ただ単純に抑揚のない声が訊ねる。
「知らないの?」
「知らないの」
「んー……始まりは古代、ローマ帝国辺りでの古事、なのかな? 当時の騎士階級ってね、結婚が禁じられていたの。戦って死ぬのが仕事だから、未練は作っちゃいけなかったのね。だから結婚が禁止されていた」
「ふむむ」
「だけどやっぱり人を好きになる事はあったわけで、そんな人達の結婚式をこっそりしていた司教さんが居たのね。その人がバレンタインさん。でも事が露見して投獄され、在る年の二月十四日、処刑」
「……血生臭い話なのですか?」
「いえいえいえ。そんな彼にちなんで、この日は愛する人に告白をするようになったのね。で、派生として、お世話になった人にもカードを配るの。良かったら一枚あげるから、誰かに書いてみたらどうかしら? 私はまだ配らなきゃならないのだけれど、そうね、武彦さんにでも?」
零の手元に二枚目のカードを重ねる。
一つは彼女宛。綴られたのは簡単な文字とレースで出来た薔薇の花。
一つは真っ白。何も書いていない、メッセージカード。
誰かに感謝する日なら。
「…………待って下さい、シュライン様」
「『様』はいらないって言ったでしょう?」
「……ぇう」
零は、初期型霊鬼兵は、おずおずとシュラインの上着を引っ張った。
■□■□■
やり直しの二月十四日、喫茶店から出て車に乗り込み、シュラインはぼんやりとそんな事を思い出していた。幻の島――中の島から連れ出されたばかりの零はまだ感情の起伏が茫洋としていて、言われたことは何でもこなすが言われないことは何も出来ない――どうしても機械染みたところが拭い去れていなかった。
今は随分と人間らしくなってはいるが、そう。彼女と初めて迎えた二月十四日と言うのは、中々に大変だったような気が、覚えが、ある。
「シュライン、どこか寄って行くところはあるか? 事務用品の買出しとか」
「まだ大丈夫よ。真っ直ぐ帰りましょう、零ちゃん一人に電話応対と来客対応させるのは酷だわ」
「……ち」
「煙草はちゃんと買い置きしてあるから」
「今、無いから辛いんだ」
ヘビースモーカーも程ほどにして欲しいと思わなくもない。副流煙の方が主流煙よりも毒性が強いと言い聞かせたことは何度もあるのだが、そして煙草税値上げの際にも本数を控えるように言ったのだが、まったく控える気配がないのだし。家計を人任せにする男は月末の厳しさを判っていない。
そう言えば最初の頃、零の倹約ぶりは相当のものだったような気がする。一時だが草間もその煙草を減らし、掃除にも協力するようになっていた。と言うか、迂闊に散らかし難い状況を作っていたのだ。それは慣れない環境への戸惑いでしかなくて、結局今は煙草も掃除も元通りになってしまっているのだが。
掃除と倹約、それは得意だったが、それ以外は殆ど何も出来なかった彼女。笑うことも泣くことも知らなかったし、料理も極端だった。芋類、粟やひえの穀物。最初の朝に麦飯と沢庵だけの朝食を用意された草間は、暫くの間零に台所の出入りを禁止した程だった。不味くはなかったのだが、白米を極端に貴重視する癖を直すのも大変だったような気がする。
日常生活だけではなく、行事に関しては零は知らないことばかりだった。正月も昔とは形態が違ったし、節分は良かったが、エイプリルフールは言葉の響きだけで拒絶した。米帝の言葉などいけませんと。子供の日や国民の休日や、ハロウィンやクリスマスも。そして勿論、バレンタインだって。
甘味が貴重だった時代の精神の所為か、チョコレートが飛び交うと聞いただけで彼女は愕然としていた。そんな無駄なんて許されません、敵です、贅沢は敵です、欲しがりません勝つまでは。もう負けているのだと説得するのは彼女と暮らし始めた最初の一週間で諦めていた。理屈で説得しても埒が開かないと言う点は、偶然ながらも、兄妹的な共通点なのだと思う。案外相性が良い。
カードぐらいならと思って渡した、白いレースで縁取られたそれ。
もう一枚渡した白紙は、パステルカラーの動物が描かれたもの。
引き止められた腕と、戸惑いながらはにかみを浮かべていた彼女。
それは、中々に、懐かしい思い出かもしれない。
■□■□■
「義を見てせざるは勇無きなり、です」
何かずれている気がしないでもないが、彼女なりに照れているのだろう。視線を逸らし少し俯いて呟く零をテーブルに向かわせて、シュラインは苦笑を零した。四人掛けのダイニングテーブルで隣同士に座り、ぷるぷるとペンを握る手を震わせている姿を眺める。パステルカラーの白いカードに向かって、そのまま。その様子ががもう、五分ほども続いていた。
「日頃お世話になっているのですから、その気持ちはきちんと伝えなくてはなりません。そういう日だと言うのなら則って然るべきです。然るべきなのです。何も緊張する必要など無いのです」
「でも手は動かない、と」
「ぇう」
確かに改まって感謝の意を表すと言うのは、緊張するものなのかもしれない。あまり真剣に考え込まず、さらりと簡単なメッセージを綴るだけで良さそうなものなのだが……命令を絶対とし、それが消えてしまった後で何も残らなかった彼女は、所謂『融通の効かないタイプ』なのだろう。気軽や手軽とはどうしても遠くなってしまう。ボールペンを持つ手は、未だ震えるばかりで動かない。
これならばいっそ料理にしてしまった方が早いような気もするのだが、今から――当日から作って間に合わない事も無いのだが、少し暇が足りなかった。今の時間はただの休憩時間のようなもので、一時間後にはまた調査のために新幹線に乗り込まなくてはならない。日帰りのスケジュールはきついから朝の内にバレンタインのカードを配ってしまいたかったのだが、日頃世話になっている調査員宛てのものはまだシュラインのバッグの中に入っていた。仕方あるまい、零に引き止められてしまったのだし。
まだ人間らしさの足りない彼女が、こんな風に困りながらも馴染もうとしている。微笑ましくて、思わず優先順位を上げてしまうのだ。うー、うーと小さく唸っている様子は何とも可愛らしい。本人には自覚が無いのだろうが、眉根が寄って泣きそうな顔を作っていた。見守っているのは中々に、悪くない。妹と言うのはあまり慣れない概念だし。
「日頃お世話になっています、とか、簡単なことで良いのよ?」
「ですがあまり簡素だと礼を失しているような心地にさせられます」
「それはそうかもしれないけれど、そもそもそんな真剣に考え込むほどのものでも無いしね……」
「ですが、ですが……ですが〜……」
へにょり。
あ、可愛い。
リボンがしんなりと潰れる。何とも可愛らしい様子に笑いを漏らせば、笑わないで下さい、と小さく抗議の声が漏らされた。とは言っても笑えるのは仕方が無い、可愛らしくて微笑ましい。小さな女の子が告白をするときだって、もっと気軽さを持っていられるだろう。まして彼女の場合、相手は兄だと言うのに。
自分が初めてバレンタインのカードを誰かに送ったのは一体いつのことだっただろう。シュラインはぷるぷる震えたままの零の手を眺めながら、そんな事を考える。きっとまだ小さくて、むしろ幼い頃だった。緊張もしないで気軽に、なんでもない調子で、渡していたような気がする。相手は父親だったり幼馴染だったりした。母親からは、むしろ貰って。
その日を楽しみに料理をするようになったのは、もう少し大きくなってから。台所に立つのが妙に楽しくて、色々な料理を覚えて行くのが楽しい時期。もう心配するほど子供じゃないからと、母もそれを黙って見ていた。もしかしたら今の自分のような心地でいたのかもしれない、不器用に不慣れながらも一生懸命に新しいことを吸収する、そういう姿を、なんとないくすぐったさと一緒に見守って。
緊張と一緒に過ごすようになったのは、それからもう少し先のこと。人を好きになって、受け取ってもらえるかと不安になって。それとない振りをして義理の振りをして、何気なく渡した本命。だけど結局気付かれなくて、そんなものだと苦笑した。笑うしかなかったのかもしれない、自分の不器用を。日頃のスタイルを崩すのもなんだか違う気がして、だからいつもの調子で、『友達』のままで。だからずっと、友達のままに。
初めて彼に渡したのはいつだったか。
興信所に出入りをするようになって、その日も一緒だった。
やっぱり何気なく、さり気なく、いつもの調子で渡して。
…………。
今となっては本当に何の気兼ねも緊張もなく、さらりと渡してしまっているのだが。何とも慣れと言うのは恐ろしい、こそばゆい緊張も何もなくなってしまう。でもそれがマンネリズムだとは思わない、慣れるのは、良いことだろう。日常になるほど長い時間を共有しているのは、素晴らしいことだ。今更と思えるほどに親しんでいるのならば、その事実は喜ぶべきなのだろう。
だから目の前の彼女にも、馴染んで欲しい。色々な行事や色々な感情、色々な、物事。これから沢山のカルチャーショックが彼女を襲うのだろうが、それに慣れる様子を見守って、一緒に過ごすことが出来れば良いと思う。当たり前のように一緒に過ごせるようになれれば、それはきっと、楽しい思い出になるだろう。
一人きりでいた時間の残滓なんて、すべて振り払ってしまえるぐらいに。
「……え。ぇう」
「零ちゃん?」
「う、うぅー」
ふるふるふる、零の肩が震えている。これは相当に切羽詰っていると言うか、てんぱっているらしい。そこまで真剣に考えてしまう必要なんてどこにも無いはずなのだが――気恥ずかしさなのか混乱なのか、その様子は可愛らしい。今にも泣き出しそうな姿は、流石に宥めたほうが良いと思うのだけれど。
「零ちゃーん、そんなに考え込まなくても良いんだってば……」
「ですが、ですがですがっ」
「ほらほら、リボンをしんなりさせないで。ねえ、日頃お世話になっているから、渡すだけなのよ?」
「は、はい……」
「お世話になっているなら、何を言えば良いのかしら」
「お礼、です」
「じゃあそれで良いのよ」
「……ぇぅ」
「『ありがとう』、って。それだけで、その一言で、嬉しくなれるものだから」
優しい言葉はいつでも優しい。
どんなに短くたって、拙くったって。
優しくてくすぐったくて嬉しくて。
だから、そんなに気張らなくても良い。
「っと。私はそろそろ駅に行かなきゃいけないけれど……大丈夫?」
「頑張ります」
「頑張らなくても良いのよ、ね」
撫でた頭に赤い顔を俯かせて、零はぎゅうっとウサギのぬいぐるみを抱き締めた。耳をぐいぐい引っ張っている様子は、どうも落ち着かなさを示しているらしいが、本人が大丈夫と言うのだからそれに任せても良いだろう。辛くも幸いなことに、あまり長い外出にはならない予定なのだし。日帰りで県境を三つも跨ぐのは中々の強行軍だが。
「お留守番お願いね。それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
■□■□■
「ただいまー、零ちゃん?」
「帰ったぞ、零」
「あ、お帰りなさい、お兄さんシュラインさんっ」
興信所のドアを開ければ、すぐにぱたぱたと零が駆けてくる。今では慣れた感覚だが、当初はやはり違和感があった。と言うよりも、むしろ照れ臭さ。お帰りという響きには、あまり慣れていなかったかもしれない。
「電話や来客はどうだったかしら?」
「はい、お電話が二件ありましたけれど、お二方とも後で掛け直すとの事です。来客は調査員の方が少しだけ、ですね。テレビを見たりお茶を飲んだりして帰って行かれました」
「いつもの事ね」
「ですね」
クスクス笑えば黒電話が鳴る。草間が溜息を吐き、机に向かった。煙草を探している暇も無い、ぼやく声の後でベルが止まる。仕方ないとラックから買い置きを取り、ビニールの包装を取ってから投げ渡せば、ライターを持った手がそれを受け取った。準備の良いことだと笑って、応接セットに減っているお茶菓子を補充する。
「あの、シュラインさん」
「ん?」
「これ」
指し示されたのは、手作りのカード。和紙のような手触りのそれには、零がいつも持ち歩いているウサギのぬいぐるみが描かれていた。今はあまり見掛けなくなってしまった、アイロンを当てると浮き上がるペンが使われている。物持ちが良いのは良いことだ、その原点が何であっても。
畳まれていたそれを開けば、可愛らしい花畑が広がっている。
『はっぴーばれんたいん』
いまだにアルファベットには抵抗があるらしい、が。
丸っこい文字の可愛らしさと暖かさは、嫌いじゃない。
「ふふ、ありがとう、零ちゃん」
「何だか朝は少し渡しにくくて……御機嫌が直っていたみたいで良かったです」
「あー、うん、ちょっと若さの暴走があったというか、ね。そうだ零ちゃん、編み物って出来る?」
「はい、多少の心得はありますが」
「今、武彦さんにあげるセーターを作っているのだけれど……その後ろにこのウサギ、模様で出せないかしら。背中にどばーん、とね」
「…………頑張ります、最近のコーヒー消費量の憎しみを込めて。冬だからって呑みすぎですっ」
笑い合ってクスクスと、過ごすいつもの一日が日常。
「シュライン、出掛けるぞ」
「あらまた? はいはい、それじゃあ行ってきます、零ちゃん」
「行ってらっしゃい、お二人とも」
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ぐったりと疲れて興信所に戻ってきて。
置いていったバッグの上に、置かれていたのは小さなカード。
いつも、ありがとうございます。
少しだけ緊張で震えた文字があったのは、まだ彼女が日常に戸惑っていた頃のこと。
■□■□■ 参加PC一覧 ■□■□■
0086 / シュライン・エマ / 二十六歳 / 女性 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
■□■□■ ライター戯言 ■□■□■
戯言堂の続き…になっているのかいないのか、時系列以外の繋がりが微妙になっておりますが。こちらもお任せにてご依頼頂きありがとうございました、少々遅れてしまいましたが納品させて頂きます、哉色です。日常としてある日常、という感じで草間さんちのバレンタインに。根性でせめて一日後にはと思ったのですが…しくしく。ずれてしまった時期ネタながら、少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。それでは失礼致しますっ。
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