 |
さらば、憎まれっ子
なぜ、人間のふりをして生きるのか。
それは、人間が多くなったからだ。
なぜ、人間を堂々と喰らってはならないのか。
それは、人間が生きるに値するものだからだ。
電車の中で、彼は自問自答を繰り返す。答えは大概、すぐに見出せた。田中眞墨と名乗る黒の鬼は、そうして時折、人間たちに呑まれながらものを考える。食物として扱うとき以外には指一本触れたくはない人間たちの中に、彼はすっかり馴染み、溶け込んでいた。
なぜ、自分はここで考えごとなどしているのか。
……。
面白いことに、そんな肝心な答えが出ない。
……俺はここで、何をしている。
彼は人ごみを避け、繁華街をはずれて、静寂を求めた。そうしてふらふらと当て所なく歩く男は、この街ではけして珍しいものでもない。誰も彼も、男が鬼であることには気づかない。
そうだ、俺は、仕事をしているのだ。
薄暗い高架下で携帯がメールを受け取ったとき、眞墨はそうして我に返った。ここ数年、彼への仕事の依頼は、こうして携帯電話を通して入ってくるようになっていた。
「俺の世界も、進んだものだ」
ヒトの世を誉める前に、彼は、己の種の柔軟性に感心した。彼も彼の妹も、こうして、さほどの苦労をすることもなく、目まぐるしい速さで動くヒトの世の流れについていっている。
頑ななまでに変わらないのは、眞墨の心だ。
彼は出来れば仕事でも、人間たちに触れたくはなかった。彼は、人間を蔑み、憎み、忌み嫌っていた。
だが俺は、だからこそ、この仕事を続けているのだ――
彼の仕事は、人間を殺すことだ。それ以上でも、以下でもない。
男は、齢80歳を超えていた。
今や政界をも動かす大企業を牛耳る長老だ。一代でその地位を確立するに至った彼のこれまでの人生は、人々の怨嗟と苦汁によって築き上げられていた。若い頃の情熱と野心は確かなもので、彼もまた、数多の修羅場を知り、辛酸を舐め続けてきた。彼は、自分のいまの富と権力は、自らの努力の賜物だと考えている。実際に、そう考えているものは他にもきっといるだろう。ごく少数ながら。
憎まれっ子世にはばかるとは、よく言ったものだ。
閻魔帳に記された彼の享年は、105歳だった。
眞墨の仕事のひとつが、世にはばかる憎まれっ子の寿命を改竄し、魂をその場で地獄に叩き落とすことだった。彼にはその権限があるが、それを濫用することはない。出来るなら、とうに彼はほぼすべての人間の寿命に手を加えているところだ。
気軽にいつでも使える権利だからこそ、ここぞと言うときに振るうのだ。権力とは、そうあるべきものだ――そのほうが、面白い。
殺伐とした仕事がいつしか無味乾燥なものになっていく。その誇りが救いのようなものだった。
彼は散歩でもしているかのような足取りで、死すべきものの邸宅に向かっていた。
眞墨は目を細め、門を開けて、前庭を歩きながら、地の底にある閻魔帳の頁をめくる。そうして、今日の標的の伝記を読んだ。
人間が人間を憎むことを、眞墨は特に何とも思わない。鬼もものを憎むことがあるのだから、人間が憎んでも不思議はない。
今日の男も、相当憎まれているようだった。
眞墨が触れる人間たちは、皆そうだ。憎まれていることに気がつきながらも生き続けている。そうして、並みの人間以上に死を恐れていた。
今日の男も、相当恐れているようだった。
他の人間がいかに憎もうと、彼には金と権力がある。十数名の護衛を雇い、さらには、呪術師まで抱えこんでいた。物理的なものだけではなく、間接的にも、彼は何度か命を狙われているようなのだ。
呪術師はどうやら、西洋の黒魔術に精通しているようだ。しかし眞墨はもはや、宗派の違いすら問題に出来なかった。彼もまた、長く生きすぎていたし、多くの修羅場をくぐりすぎていた。
「とまれ」
門を開けて数分歩いたところで、ようやく眞墨を制止する者があった。眞墨は一瞬たりとも足を止めず、屋敷に向かって無言で歩き続けた。
「御前は今日、もう誰ともお会いしない。何の用があってここに来た」
短く溜息をついて、眞墨はようやく足を止めた。館の扉は、もう目の前だ。振り向いた彼の視界に飛び込んだのは、屈強な体躯をスーツで包んだ男たちだった。
「おまえたちには悪いことをする」
「なに?」
「おまえたちは明日から新しい雇い主を探さなくてはならん」
その双眸は、蒼だった。冷めた冬の空か、ガスの焔のようだった。
眞墨を前にした男たちに、霊感の類の持ち合わせはなかっただろう。しかし、男たちにも見えたはずだ。
牙を持ち、燃える燐の目を持ち、角で天を貫く黒鬼が!
懐のホルスターの銃に手をかけたまま、黒服の男たちは言葉を失い、後ずさりさえした。
眞墨は前方に目を戻すと、何も言わず、悠々と歩き始める。さながらこの屋敷の主であるかのように。
老人は、昼寝から目覚めた。傍らには身の回りの世話をさせている女の姿もなく、寝室は――屋敷は、しんと静まり返っている。耳鳴りさえ呼び起こす静寂に、老人は只ならぬものを感じた。起き上がり、布団をはねのける音さえ聞こえなかった気がする。
「おい!」
彼はついに声を上げた。
「誰も居らんのか!」
女の他にも、彼がいつもそばに置いている男がある。黒魔術に長けた、悪魔と契約さえしているという噂の呪術師だった。襖を開けて廊下を見渡しても、その男の姿はなかった。
「おい!」
誰か、いないか。どこに消えた。何を考えている――
しかし、怒号は今やひとつも言葉にはならなかった。廊下はもとより長く、数十の部屋を持つ豪邸ではあったが、その自分の家が、老人にとっては、まるで見知らぬ他人の家――或いは、迷宮のようにも感じられていた。
寿命はまだ残っているとはいえ、さすがに老いさらばえた身体だ。危うい、よたよたとした足取りで、彼は見知らぬ回廊を歩く。走っているつもりで歩いている。
回廊に終わりはなかった。
ほっ、
ほっ、ほっ……
かすかな音を立てて生まれた蒼の焔が、不意に回廊を焼いた。木造の廊下はたちまち蒼い焔に舐めつくされ、老人はしわがれた叫び声を上げてたたらを踏んだ。熱は乾いた皮膚をじりじりと焦がし、光は目をくらませ、脳髄を貫いた。
「おまえを送り出しに来た」
刃のような声が、長老の背に投げかけられた。
老人は息を呑み、歯を鳴らす。その声は、ひとりだけのものではなかった。何という冷めた声か――冷酷さで名を馳せた彼にも、その声は出せない。
彼は、のろのろと振り向いた。
「おまえの命は今日までだ。そう定められた」
それが最期だった。
蒼の焔は老人を焼き焦がし、溶かし、打ち砕いた。
老人は数々の名を呼んでいた。彼が蹴落とし、死に追いやってきた者たちの名だ。彼はようやく、自分の人生が、魂という礎の上に築かれたものだということを知った。
魂などという、触れることさえ出来ない曖昧なものの上に、彼は寝そべり、生きていた。
それが、彼のすべてだった。
事切れた長老の身体は、力なく眞墨の前に倒れている。目は見開かれ、大きく開いた口の端からは涎を垂れ流していた。
「……まったく、面倒な世の中なのか、便利な世の中なのか……。昔は、喰ってしまえば終わりだった」
眞墨は、「なあ」、と同意を求めんばかりの一瞥を、黒尽くめの男に向けた。賢明な呪術師は、固唾を呑んで眞墨を見つめているばかりで、手を出そうとはしなかった。
何もしないものに何をするつもりもない。
今は、それほど腹も減っていない。
眞墨は携帯電話を取り出しながら屋敷を出るだけだった。
「終わった。帳簿を確認してくれ」
<了>
|
|
 |