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<東京怪談ノベル(シングル)>


春、遠からじ



 鉛色の空が広がっている。
 この街では雲かスモッグか判らない。
「暦の上では、もう春なんだけどね」
 呟いた女が荷物を抱えなおした。
 襟を立てたコートの肩と黒髪にまとわりつく白い結晶。
 新宿の雑踏。
 ショーウィンドウを覗く人も少なく、皆、足早に行き過ぎる。
 春の到来を阻むような雪が、街ゆく人々の心まで急かしているのだろうか。
 それとも、
「また、何かが動き出すのかしら」
 唇を動かしてから、女が頭を振った。
 蒼い瞳に苦笑めいた表情が浮かぶ。
 ほんの数ヶ月前まで起こっていた東京の混乱を、彼女‥‥シュライン・エマはよく知っている。
 だがそれは、普通の生活を送る人には関係のない話だ。
「最近、静かだったから、そう思うだけね」
 蘇った知将との戦い。
 ごくわずかにシュラインが身体を震わせる。
 いくつも死線を越えてきた彼女でも、それは恐怖の記憶だ。
「もうごめんだけど‥‥」
 左腕を見る。
 たいして飾り気もない質素なブレスレットが、軽い音を立てた。
「これ、預かりっぱなしなのよね」
 それがただのアクセサリではないことは、彼女を含めた少数の仲間たちだけが知っている。
「まだ終わってないってことよね」
 武器が必要な刻が。
 慣れたくて慣れたわけではないが、シルフィードの扱いにもだいぶ慣れてしまった。
「これと同じくらいの付き合いになるのよね‥‥」
 ブレスレットをはめた手首より少しだけ先、輝く小さな指輪。
 リングフィンガー。
 これを受け取って、ただ一人の男性のものになってから一年と少しの時間が経過している。
 新婚一年目とは思えないほど忙しく過ぎた一年であった。
「あっという間よね」
 過ぎ去ってしまえば、どんな過去だって一夜の夢と変わらない。
 なんとなく実感してしまうシュラインだった。
 もっとも友人たちに言わせれば、よく一年も保ったものだ、ということになるかもしれない。
 でどころは不明だが、いつ別れるかという賭まで行われていたという噂だ。
 ちなみに最も倍率が低かったのは、一年以内にシュラインがキレて離婚する、である。
 厚く深い友情に乾杯だ。
 たとえトモダチでも、他人の不幸は蜜の味なのだろう。きっと。
「あいつらが結婚したときは、絶対おんなじ賭をしてやる‥‥」
 心に誓ったシュライン。
 老後の楽しみができてけっこうなことだ。
 まあ、そんな言葉とは裏腹に友人たちの心遣いもちゃんと受け止めている。なにしろ素直でない連中なので、ストレートに幸せを祈ったりはできないのだ。
「バカばっかり‥‥私もだけど」
 不意におかしくなり、ショーウィンドウに映る自分の顔に向かって舌を出してみせる。
 子供っぽい仕草。
 普段の彼女からは想像しにくいが、一人でいるときくらいは緊張感という鎧を脱ぎ捨てたってかまわない。
「さってと。買い出し買い出し」
 なんとなく周囲からの視線から逃げるように足を速める。
 べつに思い出に浸るために街に出たわけではない。
 事務所で使う備品などの買い出しが主な目的だ。
 文房具からお茶菓子まで、けっこう消費するのである。
 ご近所の集会所みたいに飲食物の消費が激しいのはどういうことか。探偵事務所なのに。
「あとはコーヒー豆かぁ」
 昔はインスタントばかりだったくせに、すっかりコーヒー道楽になってしまった夫の顔が浮かぶ。
 違いがわかる男になったものだ。
 似合うような似合わないような、微妙なラインではある。


 ところで、彼女のコーヒー道楽な夫は、ヘビースモーカーとしても有名だ。
 むろん全国的に有名なわけなどなく、仲間内で人間煙突として忌み嫌われているだけである。
「べつに忌み嫌われてないけどね」
 弁護を試みるシュライン。
 まあ、惚れてしまえば欠点だって美点に映るものだ。
 これを持続することができれば、多くの場合、未来も幸福である。
 それはともかくとして、彼女が弁護するのには多少なりも事情がある。少なくとも彼は禁煙と書かれた場所で吸うような真似はしないし、歩きタバコだってしない。さらには携帯灰皿だって持ち歩いている。
 ちゃんとマナーを守って楽しんでいるのだ。
 というより、スモーカーの多くはきちんとマナーを守っている。
 これは、すべての嗜好品と娯楽にいえることだ。
 一部のマナーの悪い連中のせいで全体が悪く思われる。
 タバコしかり、酒しかり、ギャンブルしかり。
 だからこそ、ちゃんとマナーを守っている夫のためにも、悪質スモーカーは許せない、と、シュラインは思っていた、わけではない。
「あぶないっ!」
 気がついたときには身体が動いていたのだ。
 跳ね上がる右手。
 残る灼熱感。
 驚いて立ちすくむ親子連れ。
 ひしゃげたタバコをもったまま呆然とする若者。
 歩きタバコはどうしてダメなのか。それは危険だからだ。
 大人と子供の身長を比較すると、前者の手の高さが後者の顔あたりになる。
 実際、歩きタバコが顔について火傷を負った子供は、いくらでもいるのだ。
「てめぇ! なにしやかがるっ!」
 タバコごと手を強く叩かれた若者がいきり立つ。
「感謝しなさいよ。傷害犯になるのを防いであげたんだから」
 眉すら動かさずにシュラインが応えた。
「んだとコラぁっ!」
「子供に火傷させたら、アンタの人生だってボロボロよ」
 目線で、親子連れに立ち去るように促す。
 子供と一緒にトラブルに巻き込まれるのは良いことではない。怪我もなかったのだし、ここは自分が引き受けるべきだろう。
「おせっかいだけどね。我ながら」
 とは、口に出さない言葉である。
「べつにアンタが捕まろうがどうなろうが私の知ったことじゃないんだけどね。せめて歩きながら吸うのはやめなさいよ」
「おめぇの知ったこっちゃねぇんだよっ!」
 言い返す若者。
 柄の悪いこと悪いこと。
 もちろんシュラインは怖じ気づいたりはしなかった。
 大声を出したり言葉遣いを悪くしたりする虚勢は、実戦をくぐり抜けた経験を持つものには通じない。
 どれほど強がって見せても、この若者にシュラインを殺す力量などないし、その根性もない。
「ごめんなさい。以後気をつけます。くらい言えないものかしらね。その場を切り抜けるウソでも良いんだからさ」
「俺以外にも吸ってるヤツいんだろうがっ! その辺にうじゃうじゃっ!」
「私の目の前にはアンタがいた。だから注意した。それだけよ」
「いい人ぶってんじゃねぇよっ! オバサンっ!」
 ぴく、と、シュラインの眉が動く。
 世の中には、わざわざ自分から虎の尻尾を踏みつける人間もいるということだ。
 どんどん低下してゆく気温。
 春が来るどころか、極寒期に逆戻りしてしまっている。
 じっと若者の顔を見つめるお姐さん。
 怖いったらありゃしない。
 ‥‥殺される。
 と、若者は思った。
 大げさな話である。
「憶えてやがれっ!」
 踵を返して逃げてゆく。
 まあ、賢明な判断だろう。
 あと三秒この場に留まれば、明日の朝には東京湾に浮かぶことになるのだから。
 天下のシュライン姐さんに対してオバサンなど言ったのだ。本来なら一族郎党皆殺しにされても文句は言えない。
 睨まれるくらいで済んで、あの若者は幸福というべきだろう。
「‥‥アンタら‥‥勝手なナレーションで話すすめてんじゃないわよ‥‥」
 地の底から響くようなシュラインの声。
 視線の先には困ったように笑うふたり連れ。
 たぶん、世界で一番大切な、夫と義妹。
「まったく‥‥見てたなら助けてよね‥‥」
「あまりにも圧倒的だったんでな。助けに入る余地もなかった」
 言った男が近づき、手早く彼女の右手を確かめる。
 火傷はない。
 秘かに息を吐いてから、
「無理すんじゃねー」
 こつん、と、頭を小突かれる。
「‥‥今夜の晩ご飯、なんにする?」
 いろいろな言葉を詰め込んだ沈黙の後、シュラインが言った。
「スキヤキがいいなぁ」
 男が腕を差し出す。
「オーストラリアのお肉で良いなら」
 女がそれに自分の腕を絡めた。
「あれ、ちょっと固いんだよなぁ」
「なーにゼイタクいってんのよ」
 いつの間にか舞っていた雪は姿を消し、午後の日差しが降り注いでいた。
 春を待ちわびる街に。















                    おわり