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grazed heart 〜case of him〜
プシューという音をたててバスが止まった。
何人もの人がその停留所でバスを降りる。
そしてその俺がタラップから降りてアスファルトにゆっくりと両足を着けた瞬間、計っていたようにバスのドアはゆっくりと閉まり走り去った。
何となく振り返ってそのバスを見送った俺は、正面に向き直り目の前に立つホールを見上げた。
財布の札入れから1枚の紙を取り出して、俺はそこに印刷されている会場名と目の前に建っているホールとを見比べる。
「ここだ」
そのホールの入り口には大きく俺が持っているチケットと同じポスターが大々的に貼られていた。
あるピアニストのコンサートなのだが、何故俺が1人出来ているかというとそれもこれもひとえに同じ寮に住む友人に押し付けられたからに他ならない。
「なぁ、結城。お前ピアノとかクラシックとかって平気?」
同じ寮生の友人に突然そう問いかけられて、俺は、
「別に嫌いって訳じゃないけど」
と思わずそう答えた。
海外転勤の多い両親がわりとそういう所謂クラシックのコンサートにはよく行って居たので多分同じ年頃の連中より抵抗は少ない方だと自覚はしていたからだ。
そんなことを何気に話すと、
「やっぱり、俺の見込んだとおりの男だ、お前は」
と、やたら感激したような声をあげて有無を言わさず彼は俺の手に1枚のチケットを押し付けるように渡した。
「な、何?」
「頼む、俺の一生のお願いを聞いてくれ!」
彼はそう言って、突然俺を拝み倒したのだった。
その友人は本当は彼女と一緒に来る予定だったのだが、このコンサートの前日になんと振られてしまったらしい。
ペアチケットの1枚は彼女が持っているという。
昨日の今日でその彼女――正確には元彼女というべきか――が来るとは思えないがもしもの事を考えると行けるはずもないと半ば無理やり押し付けられたのだ。
「全く……」
もしも来たらどういう態度を取ればいいのか微妙な所であるが、自分は当事者ではないのだしそれこそ知らない顔をしておけばいいだけの事なんだろう。
「まぁ、別にいいか」
1つ溜息を吐くと俺はそのホールに向かって足を踏み出そうとしたとの時だった、突然の突風が俺の手元のチケットを奪っていった。
風に閃き飛ばされたチケットを俺は慌てて追いかける。
「きゃっ―――あ、やだ待って!」
近くで小さく女の人の声が聞こえた。どうやら俺と同様にチケットを風に攫われてしまったらしい。
突風は急に失速して、俺と彼女のチケットの2枚が折り重なるようにして地面に落ちた。
先にチケットにたどり着いた俺は自分の分のチケットと、もう1枚を拾い上げた。
立ち上がって振り向くと、デニムのジャケットにマフラーを巻いた女の人が立ち尽くしていた。
その顔はどこか青ざめていて、身体は微かに震えている。
「あの……これ」
俺はその彼女に彼女の分のチケットを差し出す。
すると突然、彼女の目から一滴涙が零れ落ちた。
「……ゃ」
「ぇ?」
小さな声で、二三矢……と自分の名前を呼ばれたようなそんな気がして俺は思わず驚いた顔で彼女の顔をまじまじと凝視した。
聞き返した俺に彼女はとっさにチケットを俺の手から受け取り、空いた手で自分の口を押さえて俺の横を走り抜けて行ってしまう。
俺はただ、駆けて行く彼女の後姿をただ呆然と追いかけるしか出来なかった。
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演奏会といってもミニコンサートというのが正しいようなごく小規模なピアノ演奏会で、演目はベートーベンのピアノソナタ月光と情熱の2曲だった。
どちらも一般的に有名な曲であったし、チャリティーコンサートらしくチケットも割安であった為か空席はごくごくわずかだった。
そう、例えば俺の隣の席とか。
やっぱり友人の元彼女は来なかったようで、俺は悪いと思いながらも密かに胸を撫で下ろした。
心の奥底が時々チクリと小さな痛みを訴える。
チクリというか正確にはヒリヒリとした痛みだ。
第1楽章第2楽章と進むごとに激しさを増すテンポ。
だが、その音の波も俺の心の隅に引っかかっている何かを浚って行ってはくれなかった。
俺は演奏を聞きながらも、もう何度かちらりと斜め後ろを振り返っていた。
視界の本当に隅の方に、さっき会場前であった彼女の姿を捉える事が出来たからだ。
彼女は真っ直ぐステージを見ているようだったが、その視線はどこかぼんやりとしていて、自分同様何か別のことに気をとられているようなそんな様子だった。
そして、そんな彼女の姿を見るたびに俺の胸の痛みはまたぶり返しピアノの音は俺の意識を上滑りしていく。
彼女のあの時の涙の理由を、何故だかどうしても知りたくて……俺は意識を集中できなかった。
そして、決心した。
―――よし。
会場何に響くの割れんばかりの拍手で演奏の終わりを知った俺は、すぐに席から彼女が立ち上がったのを確認して自分もすぐに後を追った。
「あのっ」
ぼんやりした様子でロビーを歩く彼女の後姿を見つけて俺は思い切って声を掛けた。
ゆっくりと振り返った彼女。
「あの、すみません。この後お暇ですか?」
鳴り響くばくばくという心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思うほど、緊張しながら俺は彼女にそう切り出した。
彼女はただ首を何度も横に振り、
「ごめん、なさい―――」
と消え入りそうな小さな声で言うと再び俺の前から走り去って行った。
その拍子に揺れる髪からふんわりと彼女の使っているシャンプーの香りだろうか、甘い柔らかな匂いが俺の鼻先をくすぐった。なぜだか、懐かしいような泣きたくなるようなそんな既視感を覚える。
先ほどと同じ様に、俺は彼女の後姿を見送る事しか出来なかった。
「なんでだろう……」
俺はぎゅっとシャツの胸の辺りをぎゅっと握り締めた。
彼女の残り香に既視感を感じた瞬間、擦過傷のような胸の痛みは最高潮になる。
小さな痛みと印象を深く心に刻み付けた彼女の後姿は、すぐに俺の目の前から消えてしまった。
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