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□■■遺憾千万にして、月に笑われ…■■□
薄闇を透かして伺う光の世界。
堂々と塗れることは叶わぬ空間。
それはそのまま、御方様の存在のようで。
――――今宵も何事もなく……
そう満足の吐息を漏らしかけたとき。
丹下虎蔵は見慣れたはずの光の世界に、異質の点を見出した。
――――あやつ、また来ておるのか。
楓兵衛。
常に太刀を帯同しているから、一角の者に見えなくもないが。
虎蔵には子供が(自身も子供なのだが、それは棚に上げて)粋がって、上っ面だけ兵法者の格好を真似ているようにしか見えない。
隙だらけだ。
あやかし荘の主・座敷わらしの嬉璃に良いように言い包められ、なにやら怪しげな串焼きの屋台を引いているようだし。
確かに、齢1000歳を超えようと言う世慣れまくった妖怪が相手では、大抵の人間は太刀打ち出来まい。
虎蔵自身も嬉璃は苦手だ。
「兵衛。今宵は茶でも飲んで行ったらどうぢゃ?」
「え……?」
思いがけない嬉璃の誘いに驚きつつも、似非兵法者(たとえ腹の中だけでも名を呼ぶのが忌々しくて、虎蔵は兵衛をそう呼ぶようになっていた)の双眸には嬉々とした光が見えた。
視線は、嬉璃を越えて、その傍らに佇む艶やかな和服を纏った御方様に送られている。
さり気なさを装ってはいるが、虎蔵には露骨なものに映った。
こいつは御方様を狙っている。
身分違いも甚だしい。
あの程度の男が同じ空間に立ち、同じ空気を吸っていることさえおこがましいのだ。憧れるのだって図々しい話だ。
苦無でも叩きつけてやろうか。
似非兵法者には避け切れまいが。
――――御方様に少しでも触れたら、ただでは済まさぬぞッ!
虎蔵は双眸を見開き、兵衛を睨みつけた。
はっとして、兵衛は天井を見上げた。似非にしては鋭い眼光をしている。指先もさり気なく太刀の柄にかかっていた。
だが、兵衛が鋭いわけではない。
虎蔵の方にぬかりがあったのだ。
御方様と堂々と対峙出来る兵衛への忌々しさを抑えることが出来ずに、当然影として消すべき気配のことを失念していたらしい。
恥ずかしいことだ。
虎蔵自身のミスがなければ、兵衛がたまたまでも天井を見上げるなど有り得ない。
なんにしても。
虎蔵がムキになって、手を出すのは大人気ない。念法を極めた自分と似非兵法者とでは、まさに大人と子供なのである。
「どうしたのぢゃ? 兵衛?」
「あ、いえ…」
嬉璃の呼びかけに、兵衛は天井から視線を外した。
嬉璃と向き合う素振りで、またちらりちらりと御方様の様子を伺っている。
天井裏になんらかの気配を感じた後にしては、緊張感のない話だ。
御方様は美しい。目を奪われてもムリはないが。
それを露骨に顔や態度に出すなぞ、兵法者を気取ろうと言う者にはあってはならないことである。
だから、虎蔵は楓兵衛を似非だと思うのだ。
――――愚かしい……ッ!
虎蔵は腹の底で、兵衛を叱責した。
「茶はどうするのぢゃ?」
嬉璃は兵衛の袖を引いた。
「今宵は…」
「いらぬか」
「折角なれど」
「それは残念ぢゃ。わしもこんな気まぐれは二度は起こさぬと思うが、またの機会ぢゃ、な」
嬉璃がにっと笑った。
それに合わせるように、御方様が首を傾げた。艶やかで可憐な姿だった。
――――御方様……。
あやかし荘の玄関を出たところで、兵衛の足が止まった。振り返らずに背後の気配を探っているようだ。
似非としては、形は出来ている。
「天井裏におったのは貴殿か?」
低く問われて、兵衛の眼前に虎蔵は降り立った。
「いかにも」
「影でござるか」
虎蔵は答えなかった。
多くを語らぬのが影だ。多弁な者にその資格はない。
まぁ、此度のように人前に出てしまった段階で影としては失格なのだが。
それは見なかったことにする。
「御方様に懸想する愚かしき似非兵法者め。成敗してくれる」
静かに言い放ち、隻眼の面差しを覆うように虎蔵は九字を組んだ。
「似非とは無礼なり!」
似非と決めつけられ、兵衛は斬甲剣を抜いた。
「似非を似非と言うて、何が無礼か!」
「似非か否か、この斬甲剣受けてみるが良い!」
兵衛は斬甲剣を脇構えにすると、虎蔵に向かって来た。
虎蔵は九字に組んだ掌に、武具合同として胎内に内蔵していた刃を現した。斬甲剣の一撃をひらりとかわし、刃に念を込めようとした。
次の瞬間。
虎蔵も兵衛も動けなくなった。
玄関の上がり框に腰掛けて、二人の少女がこちらを眺めていたのだ。いかにも楽しげに。
それぞれ湯気の発つ茶碗を手にし、茶菓子の皿まで置かれている。
「……御方様…」
「……嬉璃殿」
虎蔵と兵衛の声が上擦って重なった。
少女たちは一層楽しげに手を振る。
「楽しそうぢゃの〜〜! 虎蔵! 兵衛!」
嬉璃が草団子を頬張りながら言った。
隣の少女もにこにこと頷いている。
「楽しいって……」
「仲良きことは良きことじゃ。虎蔵」
少女は可愛らしい声を張り上げた。
「遊びが済んだら、茶にするぢゃ。お前たちの分の菓子は食ったりせんから、心行くまで遊べ」
「そうじゃ〜〜」
あくまでも暢気に一騎打ちを見物する気でいる二人に、虎蔵と兵衛は崩れ落ちた。膝からがっくりと。
闇の靄で包まれた地面に斬甲剣が転がった。
危機感のカケラもない暢気な少女たち(一人は器だけ少女の1000歳を越える妖怪だが)の前でシリアスな男同士の刃を出すのはやめようと、心に誓いつつ、虎蔵は掌に現れた刃を胎内に戻した。
漆黒の空で、下限の月がほのかに笑い声を発てた……ような気がした。
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