コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


【マイ・ファースト・スウィーツ】


 泡立て機、ボウル、ケーキ型。
 小麦粉、バター、卵、その他もろもろ。
 そして、
「チョコレート。うん、準備万端!」
 寮の自室でそれらを紙袋に詰めながら、葛城ともえ(かつらぎ・―)は小さく拳を握った。
 今日は2月14日、いわゆる「バレンタイン・ディ」だ。もちろん、この行事を知らなかった訳ではない。今まで弟ぐらいにしか、バレンタイン・ディにプレゼントを渡したことはなかった。恋人たちのイベントなど、ともえには無縁のことだと感じていたのだ。
 だが、それは去年までの話し。今は、大切な人がいる。
「門限までにはちゃんと帰ってきなよ」
「そんなんじゃ、あーりーまーせーん」
 ルームメイトの茶化しをかわしながら、コートを羽織る。材料一式を詰め込んだ紙袋を両腕に抱え、ともえは足早に寮を後にした。

      ◆   ◆   ◆

 軽やかに階段を上る特徴のある足音、彼女が来たのだ。
 書類整理をしていた草間武彦は、空になったコーヒーカップを持ってデスクから立ち上がった。入り口のドアを開ける。そこには、今まさにドアをノックしようと片手を上げたともえが、あんぐりと口を開けて立っていた。
「わっ こ、こんにちは、草間さん」
 走ってきたのか、ともえの頬はわずかに色を帯びていた。大きくドアを開き「どーぞ」と草間はともえを事務所に招き入れた。
「私服か、珍しいな」
 普段なら学校帰りにここへ寄ることが多いともえの制服姿は見慣れていたが、脱いでいる彼女のコートの下は私服、ワンピースだった。
「寮に取りに行くものがあったから‥‥。あの。そこ、借りてもいいですか?」
 コーヒーを淹れようとケトルに水を入れる草間のいるキッチンを指差しながら、ともえは持ってきたエプロンを身に付けた。
「いったい何を持ってきたんだ? そんな紙袋いっぱいに」
 キッチンへ入ってきたともえの持ち物を覗き込みながら、草間はガスコンロの火をつけた。
 内緒、と彼女は言うが、紙袋から取り出すそれらは男の草間から見ても「そりゃどう見たってケーキかなにか(甘いもの)を作るのに必要な道具と材料だろ」と心の中でツッコミを入れる。
 最後に紙袋の奥から出てきた『彼に贈るバレンタイン・スウィーツ(初心者向け)』なる雑誌を目にすると、とうとう草間は肩を震わせた。
 そんな草間の気配に気付いたともえが「‥‥ひどい」と顔を上げる。ドリッパーにペーパーフィルタをセットし、湯を注ぐ。口元を押さえながら笑いをこらえた。
「‥‥いや、ベタすぎて。スマン」
「もー、草間さんはあっち行っててください!」
 草間の背中を押し、ともえはキッチンから追い出そうとする。通り際に件の雑誌を取り、草間はパラパラとページをめくった。付箋のついたページを見付けると、抑揚のない大きな声で内容を読み上げた。
「えーと、なになに。甘いものが苦手な彼に贈るなら『ワインのガトー・ショコラ』 ワインがたっぷり浸み込んだ、風味豊かなケーキ‥‥おっと」
 雑誌を取り返そうと腕を伸ばすともえをかわし、さらに続ける。
「‥‥赤ワインとビター・チョコレートを使って、甘さ控えめで大人の味に。そりゃ、ありがたい」
「寮に材料を取りに戻ったから時間がないんですー! 邪魔しないでくださいー」
 ともえはベソをかきながら、仔犬のように草間の周りをクルクル回っていた。ふと思い出し、草間はともえに向き直る。
「ワイン? お前、持ってきてないじゃないか。どうするんだ?」
「草間さんがこれから買ってくるんです、ダッシュで」
「俺が、これから?」
「だって、あたし未成年ですから。お店の人、アルコール売ってくれませんもの」
「受け取り主が材料のパシリですか?」
「一緒に買いに行こうと思ったんですけど、時間がないから草間さん一人で行ってきてください」
 続けて「寮の時間に間に合わなくなっちゃう」と、語尾を小さくしながら言った。
 時計を見ると、確かにこれから菓子作りをし帰宅するには、門限ギリギリの時間のようだった。
 ともえの頭をポンと叩き、
「悪かった。ひとっ走り行ってくる。‥‥が、その前にコーヒーを飲ませてくれないか?」
 ドリッパーに二人分注いだお湯は、すでにサーバーへ落ちきってしまっていた。
 コーヒーカップをもう1セット自分用に用意し、ともえは草間のカップへコーヒーを注いだ。
「はい、どうぞ。飲んだらすぐお願いしますね」
「はい、はい」
「『はい』は、一回ですよ」
 嬉しそうに笑うともえからカップを受け取り、草間は小さくため息を付く。
「まったく、どっちが年上なんだか」
 ともえはすでに背を向けて雑誌とにらめっこをしていたので、そんな草間の嘆きなどまったく届いていないようだった。まだ用意できないワインを後回しにするのか、卵白の泡立てをあきらめ、ナイフでビター・チョコレートを刻み始める。

 この部屋にはおおよそ似合わない、チョコレートの香りがほのかに広がっていった。



<End>