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夢の途中
なにか夢を見ていたような気がするが、思い出すことができなかった。
悪夢だったような気もする。
いや……、悪夢でない夢を――見たことがあっただろうか?
寝返りを打った。やわらかいベッドのあたたかさが、彼の身体を溶かしてゆくようだった。充分に睡眠をとった後の、むしろ倦怠感にも似た感覚をおぼえるような、こんな目覚めはひさしぶりで――
「!」
がばり、とはじかれるように身を起こした。
差し込む朝陽に、まばゆいばかりの白いシーツ。おぼえのない、黒のパジャマを着せられている。
フラッシュバックするのは、対照的な、血と闇の色だった。
冷たい月光。真夜中の湿った風。咽び泣くアルペジオ。飛び散った血の匂い。そして咆える闇と――黒衣の男の、不敵な笑みの記憶だ。
「…………」
これは夢だろうか。
悪い夢の――つづきだろうか。
「おウ、起きやがったか」
男がにやにやしながら、そこに立っていた。
黒いエプロン姿で。
これが悪夢でなくて、いったい何だろう。
珈琲の香りが、朝の空気に溶けている。
サイフォンのこぽこぽという音が耳に心地よくまとわりついた。……それはおだやかな、朝の食卓以外のなにものでもなかった。そしてそれは彼、紅牙が、ついぞ経験したことのないものだった。
おそろしく居心地のわるいような……そもそも、何がどうなっているのか理解できないまま、紅牙はそこに坐らされている。
ホンキートンク、というか、調子の狂った――狂わされた――なにかのコメディのようだと思った。だからこれは、悪い夢の中の出来事なのだ。
「まあ、坐れ。すぐできるから大人しく待ってろ」
男は――藍原和馬は、そう言って、台所に立った。
なんとなく、その手元をのぞきこむ。
和馬はボウルに、卵を割り入れたところだった。それが手早くかきまぜられる。
小振りのフライパンがすでに熱せられている。和馬がバターをひとかけら、放り込むと、じゅッ、と音を立てて、香ばしい香りが散った。
ちらり、と、和馬が目だけでこちらを振り向いた気がした。見てろよ、といわんばかりの横顔だった。流し入れられた溶き卵は、熱いフライパンの上でさっと膜を張る。それを見届けて、和馬はわずかにフライパンを傾けながら、その柄を掴んだ左手の手首を、右手でトントン、と、リズムを刻むように叩いた。
伝わる震動に、卵は片側に寄りはじめて――
「よッ、と」
ポン。
魔法のように、それはくるりと宙に舞い、木の葉型のオムレツになって、再びフライパンの上に舞い戻ってきた。
「――」
目を丸くする紅牙の前に、白い皿に載せられたオムレツがひとつ。
湯気を立てる、ふわふわの、目にしみるようなやさしい黄色だった。
「…………」
彫像のようになっている紅牙をよそに、和馬は手早く、同じものをもうひとつ、つくりあげると、紅牙と対面の席に置いた。
テーブルの中央には、大きなサラダボウルが鎮座し、見るからにみずみずしいレタスと、スライスしたタマネギ、キュウリとニンジンとが盛られたサラダがあった。
黒いエプロンの給仕が、コーヒーを注いでくれる。
タイミングを計ったように、メタリックなトースターがぽん、と音を立てて、こんがり焦げ目のついたトーストを2枚、吐き出した。
要するに、男はふたりの朝食を支度していたのだ、ということに、紅牙はそのときになってはじめて気づいた。
朝日が、ダイニングの壁と床に落す影に、紅牙は目を遣った。
影は薄かった。
不思議と、今朝はその気配を感じないのは気のせいだろうか。
はげしく傷ついたがゆえに、あの存在も眠りについているのだろうか。それともそこに身をひそめ……そして落ち着かない気分に、もぞもぞと身じろぎをしているのか。紅牙自身がそうであるように。
「食えよ」
「え」
「いいから食えよ」
真向かいに坐った男が言った。
「……」
それから男は、フライパンでベーコンを焼いて、それぞれのオムレツの横に添え置き、それで食卓は完成したのだった。
オムレツにベーコン。トースト、サラダ、コーヒー。手品のように、冷蔵庫からはオレンジジュースとミルクの入った容れ物も出て来て、テーブルの仲間に加わった。完璧な、アメリカン・ブレックファーストと言えた。そんな言葉を、紅牙が知っていたかどうかはともかく。
紅牙は黙ってそれを見下ろしていたが、和馬は勝手に、自分のぶんに手をつけはじめた。
「おまえさぁ」
ベーコンを噛み契りながら、和馬は訊ねる。
「名前は」
赤い瞳が、男を不思議そうに眺めた。
それを訊いてどうする。
彼を葬り去ろうとした男の名前を――ただ人を殺す機械のように、数え切れないほどの人の命を、奪い続けて来た男の名前を。
「俺は…………」
その瞳は、血の色を映して紅いのか。
命じられるままに屠った誰かの返り血か。あのとき流れた、惨殺された両親の血か。影の獣の牙から垂れる忌わしい呪いの血か。それとも紅牙自身が流した血か。
「紅牙だ。…………東雲、紅牙」
姓は東雲、名は紅牙。
それが、血塗られた牙が持つ名前であった。
「ふゥん」
訊いておきながら興味なさそうに、男が言った。
「俺、和馬」
「…………」
「藍原和馬だ」
「……知っている」
「あ、そ」
「…………」
「……」
寡黙な食卓になった。
いや、紅牙はまだ、固まっている。
「食えったら。せっかく作ったんだからよ」
「…………」
「食え!」
男は犬歯を剥き出しにして、唸った。
「食わねェと殺す!」
「…………」
ようやく――、のろのろと、紅牙はカトラリーに手を伸ばした。
実のところ、さきほどから胃が悲鳴をあげていたのだった。
ただ、手をつけなかったのは……どうしてだろう――、紅牙自身にもよくわからない、だが、その、ふんわりとうつくしい弧を描くオムレツのそのかたちを……こわしたくないと思ったからだった。
やっと食事に手をつけはじめた紅牙を見て、和馬は安心したような、満足そうな笑みを浮かべた。そしてそのまま、紅牙を観察するように、見つめつづける。
空腹だったのだ。
それからは堰を切ったように、紅牙は並べられた食べ物をかきこんでいった。
慌て過ぎたのか、途中で、思わず咽せて咳き込む。
その様子を見て、和馬が笑った。
「…………」
冷たい月光の下で見た、不敵な笑みとは違う、笑顔だった。おだやかな朝日の中で見る笑顔だ。
(ひとつやるから食えよ)
遠い昔――もういつだったか思い出せないくらい昔に、血のような夕陽の中で見た誰かの笑顔を、唐突に思い出した。
あのときは……ハンバーガーとコーラを、差し出されて、紅牙はおずおずと受取った。
それっきり会話らしい会話もないまま、朝食は終わった。
「…………なぜだ」
シンクの前に立つ和馬の背中に、紅牙は声を浴びせる。
「なぜって」
「こんな……」
「……腹減ってたんだろ」
「…………」
「腹減ると怒りっぽくなるからなァ」
紅牙は、静かに目を閉じた。
苦痛に耐えるような、表情だった。
「なぜだ」
自問するように繰り返す。
これは夢だ。
悪い夢なのだ。
そうでなくてどうして――
オムレツは天国のようにやわらかく、熱いコーヒーは胸の中にしみわたっていくだろう。
どうせすぐに目がさめる。
そうすればそこは、冷たくて、血の匂いに充ちた、夜の底に違いないのだ。
紅牙は硬い寝床で、こわばった身体をほぐしながら起き上がり、研いだ鋼の糸を忍ばせて、たった独りで出掛けてゆく。誰かを殺すために。
だからこれは夢なのだ。
「なぜだ」
三たび、呟く。
答えはない。
そのかわりのように、驚くほど熱い涙が、ぽたり、と零れた。
(了)
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