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■□□アナモルフォーズ□□■
教室の窓から見える風景が、嘘くさいジオラマに見えるようになったのはいつからだろう。
陽気な笑い声も、暢気な喧騒も。
休み時間を彩るすべてのものが遠く、自分とかけ離れた世界に存在している。映画やドラマよりも作り物みたいだ。
現実感を失った空間で、自らの属するべき何処かを見出せないまま、それでも、葛谷享は呼吸をしていた。
たった一つの存在証明に縋りつくように。
「それにしても、あったかいなぁ」
「暖冬っつ〜より、冬が来なかったって感じだもんな」
「もう、何処だかじゃ、桜が咲いたんだろ」
「らしいな。ニュースでやってんの見たよ」
まともに挨拶すらしたことのないクラスメイトたちの会話が耳に飛び込んで来た。数多の会話が乱雑に飛び交っている中、いつもなら流れ過ぎてしまうはずなのに。その言葉たちだけを捉えることが出来たのは――――
(桜……)
――――そう。桜と言われたからだ。
(……桜)
生まれ変わろうとする月の息吹がほのかに聞こえる。新月の夜だった。
漆黒の空。
盛りの終わる緋色のもやぎ。
風が吹き過ぎるたびに、花びらが弧を描いて、絡み合いながら落ちる。
まるで緋色の雪が舞うように。
そして、妹は緋色に埋もれて眠っていた。
本当に眠っているように見えた。そんなところで、何をふざけているんだと言ってしまいそうになるくらい。
だが、妹は目を開けることはなかった。
どんなに呼びかけても、ゆすっても――――享を呼ぶことも、微笑んでくれることもなかった。
彼女は残酷な一太刀に奪い取られてしまったのだ。
美しく、可憐なまま。
緋色の底へ沈んでゆく。
もう戻らない。永遠に――――。
享は、彼女の命とともに、自らの心をも喪失した。
漆黒の夜。
緋色の花びらにまみれて。
妹を奪った犯人は一年経った今も捕まっていない。
だが、警察が真剣に捜査している気配も感じられない。最初の頃こそ頻繁に顔を見せていた刑事たちも、日々が重なるにつれて葛谷家から足が遠ざかった。
次々と凶悪事件が起こる現在に於いて、なんの後ろ盾もないごく普通の少女が殺された事件など埋没してしまうものなのかも知れないが。
例えそうだとしても、せめて両親や義兄弟たちくらいは犯人を追いつめることに血眼になっても良いはずだった。
それなのに――――彼らはそうしなかった。
妹の存在など端からなかったように、当たり前の顔で日々を暮らしている。
どうしてもっと警察に捜査の手を抜くなと言わないんだ。
なによりも、妹があんな目に合った理由を何故探ろうとしないんだ。
享は何度も彼らに食ってかかった。
彼らは享を満足させる答えをただのひとつも持っていなかった。
その様子が更に、享を空洞化させた。
両親も義兄弟たちも、妹の死の真相を知り、犯人を捕らえるための頼りにはならない。信じることも出来ない。
違う空間で呼吸をしているかのように、彼らと享は遠かった。憎悪の度合いがまるで違うのだ。
(くそっ……ッ)
享は思わず左手を握り締めた。掌に爪が食い込んだ。
ほんのりと血が滲んだ。痛みはなかった。
あいつが嘲笑っている。
ぽっかりと残忍な口を開けて。
忌まわしい声をあげて。
あいつが現れたのは――――妹が死んだのと同じ漆黒の夜だった。見えない月が啼いていた。
憤怒と復讐に塗り込められた享の拳は、血で染まっていた。
握り締めるたびに爪が食い込む掌と、口惜しさに歯を立てる手の甲――――左手の疵は塞がることがなかった。まさに自傷癖だ。
いくら血を流しても、自分が強くなるわけでもなければ、妹が戻るわけでもない。もちろん真相もわからない。
だが、せめて我が身を傷つけなければ、自分への怒りを抑えることは出来なかった。
この程度の痛み。
命を奪われた妹に比べたら、蚊に刺されたほどのものでもなかった。
『お主の復讐、我が手助けしてやろう』
唐突に、忌まわしいまでの低い声が直接鼓膜に響いた。
「誰だ、お前」
『「孤向」…』
「孤向?」
『我の力、お主の望むままだ』
「手伝ってくれると言うわけか。物好きな話だな」
『お主が気に入った。憎しみに染め抜かれた心は美しい。我が住処に相応しい』
漆黒の夜が震えた。
左手に奇妙な重量感と衝撃を感じた。
享は疵だらけの左手を見つめた。鋭い刃がするりと伸びたように見えた。
『お主の復讐、我が手助けしてやろう』
享の左手を住処と定めた「孤向」が使い手の命を啜り、ついには奪うであろう凶刃だと知ったのは、幾夜も過ぎてからだった。
だが、手放したくはない。
「孤向」は、妹の死の真相へと、享をきっと導いてくれるはずだ。
その結果として享の命を望むと言うのなら喜んでくれてやる。
妹の復讐さえ叶ったのなら、あとの人生などいらないのだ。
それが、他所から見れば歪んだ感情でも、享の視線では至極真っ当に映る。少しも歪んでなどいない。
――――絶対に、絶対に見つけ出してやる。
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