コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


 ◇◆ 華彩香炉 ◆◇


 濃紺の袱紗から、くすんだ銀色が現れる。
 まるで魔法のように取り出されたそれを、碧摩蓮は目を細めた。
「香炉だね。随分と、年代ものじゃないかい?」
「ええ。蚤の市で、何の気なしに購入したものですから、由来やなんやらはわからないのですが」
 手のひらにすっぽりと収まる香炉を差し出し、ふらり店を訪れた青年は、曖昧な笑みを浮かべた。
「スターリング・シルバー……この場合は、純銀と呼んだ方が似合いか」
「かも知れませんね」
 蓮は香炉を手に取り、店の乏しい明かりに透かした。
 握った手ほどの大きさの、丸みを帯びた香炉だった。曇りを帯びた銀地全面に、鮮やかな透かし彫りが施されている。中国的な雰囲気を帯びた文様。全て、大輪の花だ。
 重なり合う大振りの花弁は、錆びた銀一色であっても鮮やかで、匂いやかだった。
「ちょっと飾っておいても好いなあと思って、買ったんです。でも、折角だからとお香を買ってきて焚こうとしたら」
「燻りもしなかった、と云う訳かい」
 言葉の続きを引き取った蓮に、生真面目に青年は応じる。
「折角買ったのに、香を焚けない香炉なんて、不自然でしょう。もしかしたら、焚いた香が安物だったから、香炉が拗ねたのでしょうか」
 少し、悪戯っぽく笑って、青年は呟く。
「それでこちらでしたら、香炉の気に入るような香が購えるかと」
「ふうん」
 青年の言葉に気のない返事を返し、蓮は香炉をひと撫でする。
 穏やかな顔立ちの青年と、地味な風情の香炉を見比べて、ひとつ頷いた。
「まあ、引き受けても構わない。少しばかり、時間を頂くよ」

   ◆◇ ◆◇◆ ◇◆

 古い民家を改築した、どこか居心地の好い仄暗さ漂う店のなか。
 ささやかな厨房に向かい据えられたカウンターで、セレスティ・カーニンガムは傍らに置かれた銀の香炉を眺めていた。
「これが、件の品ですか?」
 依頼人である青年は、軽く頷いて飴色のカウンターの上、コーヒーカップを滑らせた。
 ぽってり分厚い、飾り気のない陶器のカップだ。アンティークではなくレトロに古びた本棚が並ぶ、古い書物の気配が満ち干きする店。それに似合いの小道具。
 セレスティはぐるりと店内を見渡し、ほんのりと微笑む。
「好いお店ですね」
 同じく、蓮の指示でこの店を訪れた初瀬日和が、清んだ声でセレスティの賞賛を先に口にする。
「ありがとうございます」
 店主である青年は、日和のためにごつごつした風合いのグラスにアイスティを、そして彼女の隣で肘を付き、彼女の身体越しに香炉を覗き込む羽角悠宇のためにアイスコーヒーを用意しながら、穏やかな笑みを浮かべて見せた。
 ――浮かべて見せる。
 そんな表現に相応しい、どこか作り事めいた表情をする青年だと、セレスティは思う。
 誰かと待ち合わせたり、誰かと会話を弾ませることを拒む店の作り――全ての席が、壁や窓へ向けて作り付けられたカウンターで、テーブル席はひとつもない――や、薄闇を呼ぶように佇む古い本棚やら、微かに滲む陰々とした雰囲気に、そう感じたのかも知れない。
 この店は、孤独を赦すために練られた空間のようにも、思える。
「どちらで、この香炉を買われたのですか?」
「どちらと云うほどの場所ではありませんよ」
 そう前置きして、セレスティの問いに青年は日曜ごとに開かれる古物市の名を上げる。
「一応、箱もありました。でも、もしかしたら在り合わせのものかも知れませんね。本当に、骨董として買ったわけではないので、その類の期待はしていないんですよ」
 そう云って、カウンターの下から古びた木の箱を取り出す。くるりと引っ繰り返すと、煤けた文字が微かに読み取れた。
 それだけで、かなりの収穫になる。
「可愛い柄ですね。桃の花、ですか?」
 指先で香炉の表面をなぞって、日和が云う。薄紅色の唇を閉ざした日和の続きを、悠宇が引き取る。
「……誰かへの贈り物ですか?」
 悠宇が、日和の顔をちらりと見遣る。淡く、日和が微笑む。それだけで、お互いの考えが通じ合っているかのようなふたりに、セレスティは微かな溜め息を吐いた。
 対のお人形のような、ふたり。可愛らしい容姿に深い意思を宿した少女と、精悍な容貌にはつらつとした空気を纏う少年。生気に満ち満ちて、人形の器には収まり切らない少年少女。
 別に、なにが悪いわけでも、なにが好いわけでも、なく。勝手に唇から、吐息が漏れる。幸運なことに、ふたりは気付かない。
「別に、誰かにあげようと云う気はなかったんですよ。ただ、普通に店に置くのも好いかなあと思って。僕の実家は古い家で、家の奥には先祖代々秘蔵の書物を蓄えた蔵がありました。管理の老人が毎朝焚いている香が、埃っぽい部屋の隅々まで染み込んでいました」
 懐かしむようにひとつ頷いて、青年は手のひらで顎を撫でる。
「僕は、その書庫が大好きだったんです。つまらない家で、面倒で煩わしいことがいっぱいありました。でも、人気のない書庫に逃げ込めば、全て忘れられた。取り敢えず、忘れた振りはできました」
 セレスティの前のカップに新しいコーヒーを注いで、青年は自分の分もカップも取り出す。客用ではないらしい、違和感があるほど艶やかに真っ青なカップだった。
 ひとくち、コーヒーを含んで、青年は思い出したように低く呟く。
「妹も、あの場所が好きでしたね。小さな、末の妹が。……まあ、どうでも好いことです」
 独り言のような、囁き。
 首を振って、ぱっと、薄暗い澱を青年は振り払う。
「この香炉を見ていたら、そんなことを思い出しました。それで、店で焚いてみるのも好いと思ったんですけど、この有様です」
 青年は肩を竦める。
 セレスティは日和の華奢な手から香炉を受け取り、両手で柔らかく包み込んだ。
 眸を閉じる。肌に染み込んでくる、冷たい銀の感触。肉体が感じる感覚を少しずつ選り分けて、香炉に刻まれた歴史を読み取ろうとする。
 ふと、甘い香りが鼻先を掠めた。
 違和感に眸を開けた瞬間に滑り込んできた景色は、淡い紅。
 花を湛えた枝。大きく天に伸びる幹。
 重なる、少女の笑い声。
 遠くに臨むのは、セレスティも知る特徴的な建物の輪郭。
「……神聖都学園」
「え?」
 悠宇が、聞き返す。
 まっすぐに見返してくる眸から微妙に視線を逸らして、セレスティは応じる。
「ええ。神聖都学園の建物が、見えました。それと桃の木。結構大きな木でした。珍しいくらい。霞掛かって見えるほど、満開の薄桃色」
「桃の木の生えた、神聖都学園の見える家ですか?」
「そうですね。多分……そこに手がかりがあるのではないかと思います」
 日和の問いに、またセレスティが頷く。
 それと同時に、驚くほど軽く悠宇が立ち上がった。日和に自然に手を差し伸べて、店のドアへと駆け出そうとする。
「じゃあ、取り敢えず俺たちはその家を探して来ます」
 止める間もなく扉は閉まり、カラン、とドアベルだけが取り残され、間抜けた音色で鳴り響いた。


 三月に入って、大分寒さも緩み、日差しも暖かくなった。
 手を繋いでそぞろ歩くのに、最適な気候。
 日和の指に、壊れ物のようにこわごわ指を絡めて、悠宇は家々の植木を見上げた。
 『桃の花』。
 『三月』。
 それに……『日和』。
 三つ並んだ単語は実は、この一ヶ月と云うものの悠宇の頭から離れなかった代物。
 そして――。
「贈り物」
 日和の声に、どきりと、悠宇の心臓が跳ねる。
 ぱっと見返せば、物思いにふける日和の横顔。
「あのひと……お兄さんかなって思ったの。あの独特な贈り物の、贈り主」
 日和がなにを話しているのか、悠宇にもすぐわかった。
 以前、悠宇の後輩が兄から受け取った、呪術絡みの贈り物の事件。
 気に喰わない香は一片たりとも燻らせない香炉のわがままぶりもまた、あの後輩を思い出させる。
「ああ……俺も、同じことを考えていた」
「そう」
 意を得たり、と日和が微笑む。頷きながら、悠宇の思考は斜めに滑っていく。
 そう――問題は、贈り物なのだ。
 三月三日。桃の節句。それは、日和の誕生日だった。
 即断即決が身上の悠宇なのに、日和への贈り物はいつも、情けないほど迷ってしまう。なにをあげてもきっと、日和は微笑む。微笑んで、悠宇が有頂天になるほど喜んでくれる。きっと、当たり前に。
 それがわかっているから、余計に色んなあざとい考えやら、それを打ち消す気持ちやらで、悠宇はぐちゃぐちゃになっていた。
「欲深いのかな、俺……」
「え?」
 手を繋いだ日和が、口にするつもりのなかった呟きを拾い上げて、小首を傾げる。
「いや、なんでもない」
 慌てて首を振って、こっそり溜め息を吐く。
 日和が喜んでくれれば喜んでくれるだけ、もっともっと、と願ってしまう。
 彼女が、ほんのささやかなことひとつひとつまでも微笑んでくれるから、次はもっと深く笑って欲しいと欲が生まれる。
 少し汚れたスニーカーの爪先が、悠宇の眸に映る。なんだか、ひどく追い立てられている気分だった。焦れていた。
「悠宇?」
 そんな悠宇の手をもう一度、日和が引く。
 視線を重ねて、日和はにっこりと唇を綻ばす。
「好い天気ね。……こんな日に悠宇とお散歩できるの、嬉しいな。それだけで、本当に凄く嬉しいの」
 はにかんで、囁かれた言葉。
「あんまりにもたくさん、悠宇は嬉しいことをくれる。でもちょっとだけ、手加減してね。私、返せなくなってしまうから」
 最高の殺し文句。
 悠宇の独りよがりを見透かされているみたいで、悠宇は赤くなった顔を隠して俯くしかなかった。
 ――情けねえなあ……。
 片手に、日和の熱を感じながら。
 空いた片手でやるせなく、悠宇は髪の毛をかき回した。
 一ミクロンも、日和には格好悪い様など見せたくないのに。
 ふと、梅の花の香りが、どこの庭からか漂ってきた。
 春待ちの季節に相応しい、アクセント。
「……日和。梅の香りって好く聞くけど、桃の匂いってあったっけ?」
「う〜ん、あんまり聞かないね。実の匂いなら、わかるけど」
 それは関係ないか、日和が舌を出す。
「それなら、俺でもわかる」
 にやっと、悠宇も笑う。
「桃の花の香り、ね……」
 日和も繰り返して、並ぶ家々の柵から覗く木を見回す。
「なんとなく、淡い甘い、匂いがしそうだね、悠宇」
「そうだな」
「儚い感じはしないけど、優しい感じ」
「うん」
 ――日和みたいだな。
 塀の上から垂れた葉を手の甲で撥ねて、重なるイメージに悠宇はぼんやりと思った。


 一方。
 ブックカフェからアンティークショップに戻ったセレスティは、携帯電話でいくつかの場所に連絡を取っていた。
「あのふたりは?」
 煙管を片手に、蓮が訊ねてくる。
「神聖都学園の周辺を探すと云って」
「飛び出して行っちまった、と。羨ましいかい?」
 ふぅっと煙を吐き出し、蓮が揶揄する。
「当たり前に生きて、当たり前に死ぬ。生まれたままの運命を受け入れてそれを愉しむ生き物は、苦手かい?」
「愉しそうに云いますね、蓮さん」
 面白そうに言葉を重ねる蓮に、セレスティは苦笑する。
「他人をいたぶるのが趣味なんだ。折角のチャンスを逃すのは嫌だろう」
 煙管を手近な卓に置き、さてセレスティを観察しようと蓮は両腕を組む。
 ちらりと立ち上げたままのPCを横目覗いてから、セレスティは蓮に向き直った。
「確かに、ああ云う存在に憧れたことはあります」
「おやおや。素直だね」
「ええ。人魚が焦がれるのはいつでも、当たり前の人間の姿。それが素直であったり優しかったり、魅力に満ちたものであれば尚のことでしょう」
 そこまで云ったセレスティの手のなかで、携帯電話が鳴る。
 失礼、と手で蓮に断ってから、セレスティは電話を取る。
「わかった。車をこちらに回してくれ」
 セレスティの言葉に、蓮は婀娜っぽく、後れ毛をかき上げた。
「香炉の縁、見付けたのかい?」
「ええ。……彼らよりも、早いかも知れませんね」
 電話を切ったセレスティは微かな嫌味を込めて、にっこりと蓮に微笑みかけた。
「正直に云いましょうか。確かに、彼らに憧れます。疎ましくもあります。でももう、私も長く生き過ぎました。妬むばかりでいるには、年を重ね過ぎている」
 自由にならない両脚のまま、杖に縋って、セレスティは立ち上がる。
泳ぐためのひれもなく、走るための脚もない。生き物としては、脆弱な姿。
 でも、そんな己を卑下しようとは思わない。
「いまの私は強靭な脚がなくても、他の力があります。昔焦がれたものはかたちを変えて、自分の手のなかにあると信じることも」
 ――弱々しい、妬んで泣いて、泡になるばかりが人魚の時流ではないんですよ。
 軽やかにコートを羽織って、セレスティはPCを閉じ、店の前で待つリムジンへと向かった。 
「……かッわいくないねえ」
 誰もいなくなった店のなか。煙管の灰を落として、どこか嬉しそうに蓮が毒づいた。


「まあまあ。久しぶりに目にしたわ」
 三十路を過ぎて四十路に手が届く頃。
 そんな年齢の和装に身を包んだ女性が、セレスティたちが携えた香炉を両手で包み込み、そんな台詞を口にする。
 古い、日本家屋。
 なんとも珍しい、桃の木ばかりが咲き誇る庭。
 塀の向こうには、どこぞの学園の屋根。
 セレスティ、それにセレスティの車に拾われた悠宇と日和は、古い屋敷の一室で彼女と向き合っていた。
「かれこれ、もう二十年以上になりますわ。これを手放してから」
 若さは削ぎ落とされつつあるものの、どこか不思議と不安定な魅力のある顔を綻ばせ、屋敷の主人である女性はぼんやりと視線を庭へと彷徨わせる。
 いまや盛りの桃の花。
 梅ほど婀娜っぽくもなく、桜ほど儚くもなく。
 濃い薄紅色は、どこか幼い艶っぽさを宿していた。
「桃花源のようですね」
 セレスティの賞賛に、鷹揚に女主人は頷いてみせる。
「ありがとうございます。この季節ばかりは、この庭もとても綺麗。……でも私の姉は、桃の花を見ることなく死んでしまったのですわ。それが、二十数年前」
 ひっそりと、彼女は微笑む。
「双子の姉でした。彼女と私、好くこの香炉で遊びました。そう……源氏物語に真似て、香合わせをしましたの」
「香合わせ、ですか?」
「ええ……最初は親の練り香をくすねて、本当に香を焚いたのですが。途中で、親にばれてしまって。火で遊ぶのは危ないと諭されまして、少しばかり考えたのです」
「どんなことを」
「花を毟り取り、香炉に潜める。そうやって、なかに秘された花を当てる、お遊戯ですわ」
 子供騙しでしょう、と彼女は袖を口許に当て、ころころと笑う。
「可愛い、素敵な遊びですね」
 思わず両手を叩いた日和に、女主人は笑みを深める。
「それこそ、雑草からなにからなにまで。薔薇を頭だけ毟って、怒られたこともありましたわ。梅は、匂いが強くてわかりやすかった。桃が咲いたらそれも、と思いましたが、姉は桃の季節まで待ってはくれませんでした」
 咲き誇る花に据えられた眸が、微かに細められる。
 その後の、この屋敷と屋敷の主人の運命に、思いを馳せる。
 広い、古い屋敷。すっきりと片付けられ、きちんと風も通された部屋。
 手入れが行き届き、明るくて――虚ろな家。
 ひとの気配の薄い、ぽっかりと空いた洞のような住まいだった。
 蓮の店は、闇を囲い闇こそ尊ぶ、暗い場所。
 依頼人のカフェは、影を赦すためにある空間。
 この屋敷は、どちらとも違う。昔の明るさを懐かしみ、そのまま時を止めてしまったようにも、思える。
 まるで――香りを拒み頑ななままの、この香炉のようだ。
「花を、入れてみましょうか」
 誰からともなく云われ、桃の花が手折られる。
 庭に立ち花を折った悠宇の手から、日和の手へ。日和の細い指先で、もどかしいほどの丁寧さで花びらが取られる。
 日和の白い指から、女主人の指輪の飾られた指へ。セレスティが恭しく蓋を開けた香炉へ、桃色のはなびらが落とされる。
 花びらを封じ込め、蓋が閉ざされる。
「桃の花は、強い香りを持ちません。こんなことをしても、なんにもならないのでしょうね」
 女主人が、昔の己を嘲笑うように、深紅の唇を歪める。
「そうでしょうか?」
 躊躇いがちな、日和の声。
「そうでしょうか」
 何故かほんの少し、自信ありげなセレスティの声。
 そして悠宇が、微かに息を飲む。
「あ……」
 掠れた、女主人の呻き。
 ふわりと、もやを帯びた銀の香炉。
 まるでそれこそ、桃源郷の霞のように、薄桃色した煙が、香炉からゆらゆらと醸されていく。
 微かに香るのは、確かに、桃の花の香りだった。
 僅かに、青臭い。僅かに、甘い。そして、どこかぎゅっと、胸が引き絞られるような薫香。
「そこにいるの? 姉さん……?」
 子供のようにあどけなく、女主人が囁きを零す。
 ふわっと、香炉の煙が、女主人を包み込んで――幻のように、消え失せた。
 あとに残ったのは、素知らぬ顔した香炉だけ。
 そっと、セレスティが香炉の蓋を取る。
「あ……」
 覗き込んだ日和が小さく、声を上げた。
 香炉のなかみは、空。
 飲み込んだはずの花びらは、跡形もなかった。
 しん、と一瞬、空気が止まる。
 凝った空間を揺らしたのは、女主人の吐息だった。
「終わり、なのでしょうね」
 溜め息混じりに、彼女は呟く。
「姉さんは律儀にも、途中だったお遊びを終わらせに来てくれたのでしょうね」
 嘆きにも似た、でも乾いた独白。無意識の救いを求めるように、視線が、咲き誇る桃の花に伸びる。
 後悔にも似た重みが、悠宇の胸に染み込んでくる。
 ――明るい、虚ろな屋敷。
 それは、祭りの終わった後にも似ている。ひとは死に、ひとは消え、でもその残滓だけが残っている。終わりに満ちた屋敷のなかでたったひとつ、『終わっていなかったもの』が姉妹の遊戯だった。終わっていないものひとつ抱えて、それだけを抱えたままでこの女主人は過ごしてきた。
 香炉を持ち込んだことは、その支えを奪い、女主人を挫けさせるものだったのではないだろうか。
 悠宇は思わず立ち上がった。
 庭に素足のまま下りて、目に付いた一番大振りの枝を無造作に手折る。
 生木を断つ、痛みにも似た手応え。
 ふわっと、先ほどの幻影の香に似た、くすぐったいような匂いが鼻先を掠めた。
「この枝、貰っても好いですか?」
「……ええ」
 どこか魂を置き忘れたような顔のまま、童女のようにこっくり、女主人は頷く。
 ――届け、と。
 念じるように、悠宇は言葉を重ねた。
「この枝を、俺は大好きなひとに贈ります。大好きなひとは多分……喜んでくれます。そうであると好いなと、思っています。全部おしまいだって、あなたは云ったけど、あなたの庭から持ち出された枝が、俺の好きなひとを喜ばしてくれます」
 ――終わりなんかない。
 まだ彼女は生きているのに、そのまま全部を終わりにしないで欲しい。
 そんなの、哀しいじゃないかと、憤りが勝手に悠宇の腹の底で燻っていた。
「また、ここに花を見に来ても好いですか?」
 惑う眸を、正面から射抜く。こころで刺し貫いて、叩き起こしてやりたかった。
 それは、香炉を持ち込んだことへの贖いでもあり、責任でもあると思った。
「私も一緒に来ます」
 日和が、言葉を添える。ふわりと、肩に柔らかな手もまた、添えられる。悠宇の気持ちを、後押しするように。
 女主人が、ゆっくりと瞬きをする。悠宇と日和の顔をまるで初めて見るかのごとく、眺める。
 やがて凍えた眸が、滲むように緩んだ。
「お待ちしております」
 掠れた、台詞。
 なんだか、泣き掛けの子供のように響いた。


 屋敷の前で待っていたセレスティの車を、悠宇と日和は断った。
「なんだか、歩きたい気分なんです」
 悠宇のさっぱりとした声に、セレスティは複雑な表情で頷く。
「なんだかやっぱり……人魚は、人間の王子様には勝てないんでしょうかね」
 そんな奇妙な台詞を残して、黒いリムジンが走り去る。
 それを見送ってから、おもむろに、悠宇は片手に握り締めていた花枝を日和に差し出した。
「誕生日、おめでとう」
 ついつい、そっぽを向いてしまう。視線を合わせるのは無性に恥ずかしい。しかも、入手から全て見られている贈り物だ。陳腐なものになってしまったかも知れない、と後悔もある。
 でも、悠宇はこの枝に、未来までも託したつもりだった。
 あの桃源郷のような庭に、美しい女主人が待つ屋敷に、次の春も、また次の春も一緒に行く、そんな約束を込めて贈る花。
 まるで刀でも構えるかのように突き出された枝に、一瞬だけ、きょとん、と日和が目を丸くする。
 だけど次の瞬間、ぱっと、それこそ花に負けないほどの笑顔で、白い手が伸ばされる。
「ありがとう」
 甘い、声。
 ――約束。
 言葉にしない、言葉。
 悠宇の指を離れた枝が、ちゃんと日和に伝えてくれた。
 そんな風に、思えた。


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【 1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い 】

【 3524 / 初瀬・日和 / 女性 / 16歳 / 高校生 】

【 3525 / 羽角・悠宇 / 男性 / 16歳 / 高校生 】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□


 こんにちは&こんばんは。この度は不束ライターのカツラギにご依頼を頂き、ありがとうございました。

○ セレスティ・カーニンガム様:再度のご依頼、ありがとうございました。前回のご依頼の際、余り内面まで掘り下げて描くことができなかったという後悔があり、今回はこんな感じに仕上げてみました。人魚、と云うことに拘ったのですが……いかがでしょうか? 少しでも愉しんで頂ければ幸いです。
○ 初瀬日和様&羽角悠宇様:毎回ご依頼頂き、ありがとうございます。初瀬様の誕生日がひな祭り、と云うことで、こんな風に相成りました。本当なら三月三日までに納品ができていれば好かったのですが……遅くなってしまい、申し訳ありません。香炉青年はあの妹の兄なのか、は、ご想像にお任せです。そういう面からも愉しんで頂ければな、と願ってもいます。

 繰り返しになりますが。
 この度は本当にご依頼、ありがとうございました。また機会がありましたら是非、宜しくお願いします。