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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


fisticuff law

 ざわ、ざわと。
 夜の空気が騒ぐのは、人の祭り、縁日の人混みに似る。
 だからと言って深夜の深山に人の姿があるではなく、ざわめく空気は山そのもの、生きとし生ける動植物は元より、無彩色に彩る雪までもが静かに春を……人の世で統一された太陽暦でなく、月の満ち欠けに四季を読む、太陰暦に示される冬の終わりを寿いでいる。
 こと、新たな命の苗床となる眠りから徐々に醒め行く同胞を見守り続けた常緑の木々の喜びは殊更、大気を満たして清めて行く。
 人の営みのそれとは違う、自然を生きる者達が本能でそれと知る新年の祭りだ。
 ……その無音の騒がしさの中に、ぽつりとぽつりと二体の雪だるまがあった。
 自然の造形物として看過するには意図的に並んだその雪だるま、丸々とした雪の固まりの上に、細い面のような頭が乗っている些かバランスの悪い造形である。
 と、思えば。
「逸れてしまったわね……」 
だるまの片方が口を開いた。
「どうしましょう……」
そしてもう片方が答えた……人里離れた山奥の雪だるま、というだけでわりとシュールな光景であるが、それが口を効いたとまでなればそれは最早ファンタジー、と現実逃避をする必要は幸いにして不要だ。
 もぞもぞと身体を動かした、だるまの片方の胴体がぼろりと崩れ、中から……まぁフォルムは変わったが表面積にあまり大差の見られないフェザーのロングコートに包まれた身体が現われた。 
 雪の絡んだ黒髪を、厚手の手袋……と言うには抵抗のあるスキー用のグローブで梳く巳主神冴那は、コートの前合わせを止めきらない程に中にも厚手の衣服を着込み、V字のセーターの襟の下にU字の襟が覗き更にその下にタートルネックとさながら十二単の風情を醸す防寒振りだ。
 そして彼女に倣ってゆらゆらと前後に揺れるだるまのもう片方、ぱかりと二つに割れた雪玉の下からまた入れ子の雪だるまじゃない、もこもこと下に着込んだ量を彷彿とさせて膨らんだ和装はお遍路の仕様に近く、藁の傘に靴、合羽までを負った天梓疋姫。
 双方共に長を生きる妖、とはいえど方や爬虫類、方や両生類、と共に冬は眠りに付くべき種である彼女等が、雪中行軍を敢行した理由は長きを生きた世を儚んで……などという理由では当然ない。
 旧暦の元旦、自然の霊から生った妖達が寄り集い、新年を祝って山奥に座すご神木に初詣に出向く風習はいつから知れぬ習わしである。
 千をゆうに越える年月を、冬にも眠らず山を見守り続ける常緑の木霊の精は人型を取って車座に混じる事すらないが、根本を囲んで夜通し続く、半ばは宴会の口実である妖の訪れを厭うでなく受容れるあたり迷惑ではないのだろう、多分。
 手に手に、酒や食糧を持ち寄ってのささやかな……というにはどんちゃん騒ぎの感が強いその宴に向かう、二人はその往路の途中である。
 正確には、その途中であった、の過去形か。
 雪深い山の寒さと、動きにくい事この上ない装備に、道なき道を分け入る仲間達の足跡を踏み外して真っ逆さまに斜面を転がり落ちて雪だるまになった今、宴席に向かう事は目的の優先順位から外れ、現況を如何にして生き抜くかのサバイバルな選択肢が上位になる。
「どうしましょう……」
困惑の声を再び疋姫が上げる。
「食べ物がありませんね……お弁当を無くしてしまいました」
空の両手を見詰めて切々と訴える、哀しみは理由の源が食欲である為か、切実だが些か滑稽さが拭えない。
 疋姫は折り詰めに詰めた……勤務先である居酒屋のあれやこれやのメニューを思い浮かべ、彼女の依頼に、店に出すべき料理をたんと詰めてくれた店主の計らいを手放してしまった己を恥じているのは真実だ。
 食べられなかったおでんの味を想像するだけで、口中に涎を溢れさせているのだとしても。
「……そう?」
対する冴那は疋姫の哀しみに同意しかねると言った風で、興味なさげに応じる。
「私には非常食が……あるけれど」
非常食、の一言に疋姫が「え?」と明るい声で顔を上げた。
 煮汁をたっぷりと含んだ大根に歯を立てれば、其処から出汁の旨味と大根の甘さがジュッと溢れ……などという妄想に空腹を刺激されていただけに、期待は大きい。
 けれど。
 目線を合わせた疋姫から、冴那は視線を外さない。
 人の姿を取って尚、その性を現わして変じぬ本性そのままの金の右眼も、同じ妖仲間に隠しても今更である。
 常ならば長い黒髪に物憂く隠されて神秘性を増す瞳も今は顕わに。ただひたすらにじーっとじーっとじーぃぃっと! 疋姫を凝視したままの冴那の視線が外れない。
 冴那は蟒蛇である。そして疋姫は蝦蟇である。込められる視線から導き出せる答えはそう、多くない。
――ひいぃぃっ!
恐怖のあまりか疋姫の悲鳴は声にならず、喉をひくりと動かすだけに止まった。
 ある意味、声が出なくて正解だったろう……野生に生きる獣の狩りは、獲物が気圧されて敗北を認め、逃げに転じる一瞬の悲鳴を合図に勝敗を決する事が多い。
 その事態になれば視線に絡め取られ、足が竦んで動けない疋姫の運命は決まったも同然だ。
 その疋姫に……気のせいでなければ冴那は目元だけで微笑んだように表情を動かして上方を見上げる。
「上の道には……戻れなさそうね」
二人が転げ落ちた斜面は急で、その上雪が積もっている……積雪と、着ぶくれのお陰で怪我と呼べる怪我がないのは幸いだが、よじ登るにはその雪が邪魔をしている。
「道! 道を探しますね!」
そう、食べ物さえあれば、非常食の出番は無くなる。
 疋姫がそうであったように、集う仲間達も当然他の者の事も考えて多く食べ物を持ち寄る為、宴会の席にさえ辿り着ければ己が身も安泰の筈、と恐怖の元凶の言葉から見出した活路に縋る疋姫は、冴那が踏み出した一歩にその場で垂直に飛び上がった。
「……どうしたの?」
問われても貴方に食べられそうで、と素直に答え難い……確信に近い憶測に決定的な答えが返ってきそうで。
「どうもしません……ッ」
言葉とは裏腹に、腰は既に退けている……冴那が近付くその距離だけ後退する、疋姫に「……そう?」と小首を傾げて冴那はもう一歩、歩を進める。疋姫は一歩分後に退く。
 進む、退く、進む、退く、進む……。
 勢い、追いかけっこが勃発する。
 お互い、寒さに弱い種族の筈なのだが、雪も冷気もものとせず、疋姫の先導の形となって道なき道をひた走る、とはいえ腰の下まで埋まる雪の厚みに走るのは気分のみとなっているのだが。
 そんな悪路をひたすら疋姫は進む……逃れる道がないのならば進むしかないではないか、と恐怖に駆られ不安に突き進んでいく姿いっそ潔い。幾ばくかの笑いを含むが。
 竹笹の茂みを突っ切り、小川を渡り、その際律儀に後に続く冴那に「そこ気をつけて下さいね」「足下危ないですよ」などの注意を促してしまう純真さを覗かせて、気力・体力・時の運を総動員してご神木の位置を図ろうと、畢竟自らの命を守ろうと必死に進んでいた疋姫はついに絶望の声を上げて足を止めた。
「……あぁ……」
進む内にまた舞い始めた粉雪に視界を遮られる足下に、ぽかりと空虚が口を開く。
 落ちた位置より更に深く暗い崖が足下に空間を広げ、雪を吸い込む白さに霞んで下の距離までを測らせない。
「……進めなくなったわね」
背後から……どうにか保とうとしていた距離より近くから聞こえる声に、疋姫はビクッと肩を強張らせて振り返った。
 うっとりと半眼に目を細め、疋姫を見る冴那がいい加減眠いだけという事実には、興奮状態にある神経に、自分にも本来訪れるべき眠気がない事に気付かない疋姫は胸の前で寒さとは違う意味で震える手を組んで声を絞り出す。
「ど、どうしてそんな目で私を見るんですか……ッ?」
冴那の倫理観を揺さぶって理性を喚起し、生存本能と抗させようというなけなしの策である。
 最も、おでんを前にした疋姫、と具体的な例に挙げればそれがどれだけ無駄な事かは解るだろう。飽くまでも冴那がその気であれば、の前提だが。
 実の所、さほど空腹を覚えておらず(今のところは)その気でない冴那は、対峙する疋姫の不安が察せないながらも問われた事には答えなければ、としげしげと彼女の姿を見る。
「……そうね」
納得の独言に頷く冴那を、判決を待つ被告の心持ちで疋姫が固唾を呑んで見守った。
「いつもより、白くて……大きくて……丸くて、柔らかそうで……」
列挙される見詰める理由は、疋姫の懸念を裏付けるものでしかなく、彼女は気を遠くしかける。
「それがとっても、お…………可愛いから」
今、何気に「おいしそう」っていいかけなかったかーッ?! 疋姫の心の絶叫は、冴那が踏み出した一歩に思わず後退した、本能の動きに声にならずに散った。
 突如、消失する重力に目を見張る、冴那の姿が疋姫の目にスローで映る……その身を包むダウンコートの下がボコボコとあらぬ動きで脈動する様をつぶさに見て取ってしまい、疋姫は今度こそ悲鳴を上げた。
「食べられるーッ! タスケテーッ!」
テーッ、テー…ッ、テー……エェ。
 山肌に木霊した、己の声の語尾の残響を聞きながら、疋姫は谷底へ落ちた。


 と、思ったのだが。
 冴那と常に行動を共にしている錦蛇が間一髪、コートの下から這い出し、着ぶくれた疋姫の襟を咬んでその身を木に巻き付けて落下を阻み難を逃れていた。
 とはいえ、頼りとするのは天敵である蛇の顎の力のみ、ゆらゆらと揺れる頼りのない現状はあまり救われたと言えない疋姫である。
 冴那は腹這いに崖の縁に寄って体重で雪が崩れないように配慮しながら、茫然自失というよりも半ば気絶した疋姫を力付けようとした。
「頑張ってね……今、助けを呼びにやったから」
同族を操るその力で以て、冬眠の最中叩き起こされた野生の蛇は災難だ。
「……気が紛れるように、お話でもしましょうか。貴方を支えているその子の種類はね、大きな鹿も丸飲み出来るのよ」
虚ろに散じていた疋姫の視点が恐怖の光を取り戻す。
「それからね、蛇の毒牙は種類によっては必要な時だけ出せるのよ……不要な時は何処にあると思う? 牙はね、頭蓋骨の中に納められているの……」
流石、爬虫類専門のペットショップオーナー、仕事に関する話題は豊富だ。
 蛇の生態、主にその補食の方法を気晴らしと称して語り続ける冴那の気遣いは、けれども相手が疋姫である時点で配慮に欠けるとしか言い様がない……せめてもの救いはその時既に、冴那が助けを呼びに行った蛇ではなく、疋姫の悲鳴を聞きつけた夜目の効く梟の変化がいち早く救助に向かっていてくれた事だろう。
 今は助けが来るまでのおよそ十五分の間に、疋姫が被ったであろう精神的外傷が、少しでも早く癒える事を祈るばかりである。