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縺れた記憶
【T】
海原みなもは何気なくいつものように草間興信所のドアを開けたつもりだった。
学校帰りで、特別なことなど何もないと思っていた。
それがドアを開けた刹那に、何かがいつもと違っていた。
草間興信所に不可思議な依頼が舞い込むのはいつものこと。だからそれを特別訝るつもりはない。けれどみなもがこれまで見てきたどの依頼人が持つ雰囲気よりも独特の茫漠とした気配を宿しながらもひどく落ち着いた依頼人が所内の空気といつもとは違うものにしているのは確かだった。簡素な応接セットに腰を落ち着けて、声を荒げるわけでもなければ切々と何かを訴えるでもなく依頼人は所長である草間武彦と言葉を交わしていた。静かな横顔からは何も読み取ることができない。みなもは僅かに間を置いて小さな声で挨拶の言葉を紡いだ。大きな声を出せば、何かが決定的に壊れてしまうような気がしたからだ。
「丁度いいところに来た」
煙草を挟んだ右手を軽く上げて武彦が云う。依頼を解決するために自分で動こうとしないこの所長は、いつものように興信所を訪れた都合の良い相手に仕事を依頼するつもりらしい。
「ちょっと話しだけでも聞いてもらえないか?」
「依頼人さんですか?」
訊ねることをしなくても明らかであるのに、何故か言葉にして訊ねなければいけないような気がした。そう思わせる何かが依頼人にはあった。
「ここに来るくらいだから、そうだろうな」
云って武彦は短くなった煙草を飽和状態の灰皿に押し付ける。そして自分にはもう既に関係がないとでもいうように、手元にあった書類を読むわけでもないだろうに手に取るとみなもと依頼人からすっと視線をそらす。そうなればもう話しを聞く以外にみなもにできることはなかった。武彦が新しい煙草に火を点ける音がする。みなもはなるべく音をたてないように依頼人の青年の前に腰を下ろした。総ての音がやけに大きく響く気がした。
「初めまして。海原みなもと申します」
言葉が上手く見つけられずとりあえず自己紹介をするみなもに青年は笑って手短に名前を答えた。柔らかな口調とは裏腹に何か残忍のものが滲む声が響いて、みなもは沈黙を恐れるように言葉を続ける。
「一体、何があったのでしょうか?」
「もし、あなたに自分のものではない記憶がまるで自分のもののように存在するとしたらどうなさいますか?」
手首の何かを気にするような仕草を見せながら青年が云う。まるで謎かけ。けれどここでは決して珍しいことではない。記憶にない記憶。たとえ現実にはあまりないことだとしても、どこか現実とは遊離したようなこの興信所では決して珍しいことではないと思ってみなもは云う。
「あたしにはそうしたものはありませんので、正直よくわかりません。でももしあなたにそうしたものがあるのだとしたら、どうなさるおつもりですか?」
「確かめたいと思います。何もない日常の記憶が本当なのか、殺人の記憶が本当なのか」
青年ははっきりとした口調で云う。切れ長の目がまっすぐにみなもを捉えて、否と云わせない。手伝うことを強要しているわけではない。ただ興味を惹かれ、離れられなくなるような双眸だった。
「それはあたしにお手伝いできることでしょうか?」
「あなたの記憶があなたのものとして確かなものならお手伝いして頂けると思います」
理知的な口調。それでいてどこか幻惑を語るような滑らかなそれは魅力的だった。
「私の云う誰のものかもわからない記憶が殺人に関するものだとしても、宜しければですが」
青年の口から零れ落ちる言葉は、殺人という血生臭いものだとしても何故かとても綺麗な響きでもって辺りに広がり、みなもは無意識のうちに肯定の意味をこめて小さく頷いていた。
【U】
「表沙汰になっているということはないと思います。少なくとも私が知る限りでは」
殺人が事件として世間に流される無機質な情報に還元されているのかと問うたみなもに青年は静かにそう答えた。
この青年は不思議なくらいに落ち着いている。本当に殺人に関する記憶を持っているのかと疑いたくなるくらいに落ち着いて、それに対する罪悪感や後ろめたさなどというものも感じられない。みなもが失礼を承知で多重人格や心身症の場合も考え、精神科へ行くことを提言しても青年は気分を害した様子も見せず、考えなかったわけではないと答えただけだった。異常はなかった。それだけが明確な答えだった。青年の言葉は一つ一つが明確で、記憶が誰のものかも判然としないということさえもそのまま受け止めれば真実になるのではないと思わせる確かさがあった。
けれど青年自身が許さない。どんなに言葉がそれを真実だと証明しようとも、その所有者である青年だけは自身が持つ記憶を疑い続けていた。
「では、殺人の事実はまだあなたの記憶のなかにしかないということなのでしょうか?」
「多分、そうだと思います」
初めて不確かな言葉が青年の唇から漏れる。多分、その言葉は青年の唇から漏れる言葉には相応しくない言葉に思えた。記憶が不確かでも、青年の語る言葉一つ一つはとても確信に満ちて、どんなに柔らかな響きを持っていたとしても疑う余地などどこにもなかった。だから初めて音になった不確かな言葉はとても鮮明だった。
「記憶を辿って行くことができますか?その、殺人の事実を確かめるために」
「自分でもまだ確かめたことはありませんが、大丈夫でしょう」
言葉が事実を捉えて響く。そこに偽りの気配は微塵もない。だからみなものはどこかで怖かった。きっとこの言葉を信じて、そのままに記憶を辿っていけばきっと屍体や血痕といった生々しいものに辿りつくことが予感できて、その予感は確信に近い強さを持っていて、そのままに行動を起こせば触れてはいけないものに触れることになるような気がした。
「行ってみますか?」
だから語尾を滲ませる。頷かないでほしいとどこかで思っている。けれど真実を知りたいとも思う。触れてはいけないものだから触れてみたいと思う好奇心がそうさせるのか、みなもは青年が否定してくれることを望みながらどこかで肯定されることを望んでいた。
「そうですね。あなたが見届けてくれるのならば」
云って青年はゆっくりとソファーから腰を上げた。そして既に青年を眼中に置くことをやめた武彦に小さく挨拶をすると、みなもを促すように微笑む。その微笑に抗う術はなかった。
【V】
青年の言葉に従って移動する。都市の片隅を浚うようにして、人目を避けるように入り組んだ都市の路地のなかを彷徨う。けれど不思議と不安はなかった。青年の言葉も足取りもとても確かなもので、その後ろをついていけば確かなものに巡り会える筈だという確信が生まれた。奇妙な恐れは姿を消して、きっと記憶がある以上、そこにもまた確かな意味があるのだと思うようになっていた。たとえ青年自身の記憶ではないとしても、その記憶を青年に植え付けた誰かは覚えていてもらいたいという意思を持ってそうしたのだとみなもは思った。
「あなたのように若い女の子にこんな話をするのはどうかと思いますが、殺意は確かにあったんです」
薄暗い路地。陽はまだ高い位置を維持しているというのに、ビルとビルの狭間は薄暗い。そのなかで唯一確かなものとして響くのは青年の声だけだ。
「殺さなければならなかった。他に術はなかった。それだけは確かなんです。――ここです」
云って青年が立ち止まった場所は、古い雑居ビルの裏口と思しき鉄のドアの前だった。所々塗装は剥げて、ノブは開くのかどうかもわからないような錆び具合だ。けれど青年にはそれが開くことがわかっているようで、迷うことなくドアは開かれる。みなもが先を行くことを恐れるとでも思っているのか、青年は後ろをついてくることを確かめながらゆったりとした足取りで先を歩く。
「憎悪があったのかと訊かれたらないと答える他ありません。憎悪はなかった。だからといって殺さなければならないほどの好意もなかった。ただ殺さなければならなかった、それだけなんです。でも、果たしてそれが本当に自分の記憶なのかどうかわからない。きっとこれから行く場所には屍体があることでしょう」
云って青年は不意に足を止めた。そして振り返りみなもに云う。
「あなたは私が人を殺していたとしても、総てを現実にして下さいますか?」
その言葉はみなもが断罪してくれることを望んでいる切実な願いに満ちていた。みなもが違うと云えば青年は現実を穏当なものとして受け入れるのだろう。殺人の記憶を別の誰かのものとして、二つある記憶のもう一つ、穏当な生活のほうを選ぶつもりでいるのだ。選択は委ねられていた。責任は重大である筈なのに、どこかで青年は自分で決めるのではないかという予感がする。ただ自分は証人としてそこにいればいいだけなのではないかと、そんな無責任な考えがみなもの脳裏をよぎる。
「あたしができることなら……」
「そう答えて下さると思っていました」
青年はまるで総てを見通しているとでもいうような声でそう云って再び歩を進めた。コンクリートの廊下を行き、二階分の階段を上り、開けたフロアに出る。明かりは差し込まず、電気は止まっているのかそこは薄暗く、暫くの間使われた形跡もなく黴臭かった。異臭がする。その臭いにみなもは自分の役割を確信した。
「この部屋で待ち合わせていました。私は殺さなければなりませんでした。だから殺しました。紐を使って、頸を絞めたんです。呼吸を妨げられてもがく感触も、それがだんだんと弱まっていく感触も覚えています。醜く顔が歪むのも、それが硬直して動かなくなるのも見ていました。夢にしてはあまりに鮮明で、朝起きて知る現実にしては生々しすぎました」
青年の言葉が途切れたのを見計らうようにしてみなもが云う。
「朝起きてみて気づいたんですか?」
「そうです。朝起きて、あぁ、人を殺したんだと、そういうことに気づいたんです。いつのことかもわからないのに、自分が人を殺してきたことだけは確かでした。そして、今ここにある屍体がそれを証明してくれています」
云う青年が見つめる向こうには、決して美しいとはいえない形状をした人間がいた。もう人間ではない。物体に形を変えたものが転がっている。頸に紐を絡めたまま、両手両足を投げ出して。
薄闇に慣れていく目。みなもはその屍体の傍らに何かが落ちていることに気がついた。紙とも布とも判然としない、ぼろぼろになったそれを手に取れば何かがわかるような気がして青年に断ることもなくみなもはそれに近づき、拾い上げる。触れただけで脆く崩れてしまいそうだった。火が点けられたのだろう。けれどそれは燃え尽きることなく、まだ僅かに形状を残してみなもの掌に乗る。
「……これに、見覚えはありませんか?」
振り返り、青年に差し出したみなもの掌の上にはなんであるのかも判然としない物。青年は何も答えない。
静寂。
沈黙。
そうしたものが怖くて、みなもは見たくもないのに屍体に視線を向けていた。そして息を呑む。
そこにあるのは形は崩れつつあるものの青年と似た面差しをした屍体だった。
はっと青年に向き直ると、青年が手首の何かを気にしながらみなもの掌にあるものを凝視していた。青年の細い手首に絡みつくそれは白い、皮製のブレスレットだった。細く、銀の鎖があしらわれている。みなもの掌にあるそれにも同じような鎖が焼けることなく残っていた。
「私は弟を殺したのでしょうか……」
声が細く、薄闇に響いた。
【W】
双子の弟がいるのだと青年は云った。もう何年も会っていない、数年前に別れたきりで今はどこで何をしているのかも知らないのだと。
みなもはその言葉に双子の間に起こる不可思議な現象があることを思い出す。同じ日にこの世に生を受けた者同士にしか共有することができない。そうしたものが確かにある。人は不思議と呼ぶそれが、双子の間には当然のものとして起こる。もし本当に屍体となった者が青年の双子の弟なのだとしたら、青年の持つ殺人の記憶は弟が伝えようとした現実なのかもしれない。
二人は雑居ビルを離れ、雑踏のなかにあるカフェにいた。注文した珈琲が冷めていく。テーブルの中央には壊れ物を扱う丁寧さでビルのなかで見つけた燃えたブレスレットが置かれている。
「このブレスレットは両親がくれたものです。私と弟以外には誰も持っているわけがないものですから、きっとあの屍体は弟でしょう」
「あの、混乱されてませんか?」
みなもが問うと青年は不意に笑った。
「していますよ。もうずっと会っていなかった弟が突然屍体になって目の前に現れたんですから」
言葉とは裏腹に青年には混乱の気配さえ感じられない。どこかでそれを覚っていたかのような気配すらする。
「だって、まだ確かではないじゃありませんか。その、あの状態では……」
「いえ、いいんです。あの屍体はきっと弟でしょう。それは確かだと思います。ずっと危ない人生を送っていた弟ですから、あのような結末も不思議ではありません。でも、何故私がその殺人の記憶を持っていなければならなかったのか、それだけが不思議です。仮に私が殺したわけではないとして、ですが」
青年の言葉には弟を殺したのは自分ではないのだと信じ込みたいと思わせる響きがあった。
だからみなもは云った。
「あなたも聞いたことがあるとは思いますが、双子の間には時に不思議な意思疎通が図れることがあると聞きます。だからもしかしたらあなたに知ってもらいたかったのではないでしょうか?自分が殺されてしまったことを誰かに知ってもらいたくてその記憶をあなたに託したのだとしたら、あなたが持つ記憶は決して無意味ではないと思います」
「では何故殺される弟ではなく、殺人者の記憶なのですか?」
冷静に綴られる言葉だからこそ答えに困ってしまう。
それでもみなもは答えなければならなかった。
それが今ここにいる理由だった。
「……確かなことは云えませんけど、証拠として、ではないでしょうか?あなたに犯人を見つけてもらいたかった。殺された事実を知って、犯人を見つける何らかの手助けになればと思って……だからその殺人の記憶は弟さんによって改竄されているかもしれないのではないかと、あたしはそう思います」
きっと青年は総てを自らの手で選択していく。みなもはそう思っていた。確信に満ちた言葉の一つ一つがそう思わせた。だから自分にできることは背を押してやること以外に何もないと思えた。
「あなたはお優しいのですね。――この度は本当にありがとうございました」
云って青年はゆっくりと席を立つ。
「警察に行きます」
「でも……」
みなもの言葉は最後まで綴られることはなかった。
「疑われても仕方がありません。総てが私の記憶どおりであれば、たとえ殺人の記憶と同時に平穏な日常を送る記憶も持ち合わせていたとしても私は彼を殺した犯人です。もし他に犯人がいるとすれば、それは警察がどうにかしてくれるでしょう。心配いりません。いいんです、これで」
「何がいいんですか?」
「屍体があったことを確かめられただけでいいんです。記憶だけという曖昧なままではなく、確かなものがほしかっただけなんです。あなたには申し訳ないことをしたと思っています。ここから先は、屍体という確かなものを軸に現実がどうにかしてくれることでしょう。だからこれでいいんです」
伝票と焼けたブレスレットを手に青年がテーブルを離れる。みなもは置き去りにされ、こんなのは間違っていると思った。総てが本当にならないことが現実には多すぎる。たとえ警察を頼りにしても、真実が明らかにならない場合もある。青年が殺していないとしても殺したことになる現実もないわけではないのだ。ならば、ここで今青年が選択したことが正しいとは思えなかった。
けれどみなもにできることは何もなかった。
記憶は形にはならない。
個人のなかでしか本当にはならないのだ。
今確かなものがあるとすれば、あのビルの薄闇の中にあった屍体だけで、それ以外に第三者の前でも確かになるものはない。
どうして記憶なのだろうかとみなもは歯噛みするような気持ちで目蓋を閉じた。
そこには不思議と穏やかに微笑む青年の姿あった。
きっと青年は記憶の曖昧さがもたらすものをわかっていたのだ。
それでもこの依頼を持ち込まなければならなかったのだと思うと、記憶の曖昧さを憎むほかなかった。
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1252/海原みなも/女性/13/中学生】
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ライター通信
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ご参加ありがとうございます。沓澤佳純です。
青年の標としてお付き合い頂きありがとうございました。
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
一時活動休止していましたが本格的に活動再開しましたので、
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
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