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春に知る
吹く風にはまだどこか冬の香りがする。けれど日差しは暖かく、晴れ渡る空は抜けるように青に染まり滲む雲の白さが眩しかった。
時刻は昼休み。見下ろすグラウンドには明るい声が響かせ駆け回る生徒の姿があり、校舎のそこかしこからもまた同様に明るく楽しげな声が響いていた。
皆木晃は所々塗装が剥げ落ち錆が浮く屋上の手すりに寄りかかって、ぼんやりとグラウンドを眺めていた。そんな晃の後姿をドアの前に伸びる薄い日陰に腰を下ろした時千砌が眺めている。明るい総てとは裏腹に二人がいる屋上だけが静かだった。人を待つ、それだけのことが二人のいる空間を静かにする。吹き抜ける風さえも二人の静寂を壊すまいと慎ましやかで、音という音の総ては二人によってしか生み出されない。
「……飛び降りるなら止めないよ」
砌は一切の感情を排したように平坦な声で云う。晃は振り返ることもなくただ黙って、グラウンドを眺めている。
「ただ、あの子が泣く顔だけは見たくないな」
ぽつり、呟くように付け加えられた言葉が晃を振り向かせる。
どこか脆さを感じさせる細い面差しがまだ冷たさをまとう日差しの下で痛々しく砌の双眸に映る。
「大丈夫ですよ」
笑う顔さえもどこか果敢なげだった。
それは温和な雰囲気を生み出し、決して人に悪意を抱かせることはなかったが、それと同時に弱い何かを感じさせるには十分なものだった。温和で決して人を傷つけることはないと思わせる晃であったが、人を傷つける代わりだとでもいうようにいつもどこかで自分を軽んじていることを砌はどこかで気付いていた。
自分の欲望のためになら刀を振るうことさえ厭わない砌だ。しかし晃を前にするとそんな自分の何かが揺らぐのを感じる時があった。冷静さを失うほどではない。けれどささやかでありながらも、聞き逃してはいけない警鐘を耳にするような心地がする。晃の何かにほだされたのかと思ったこともある。けれどほだされたなどという言葉では片付けられない何かを、晃は持っているような気がした。
遠くで歓声が響く。
明るく、まるでこの場には似つかわしくない音楽のように。
そんな声を聞きながら砌はふと、何故晃といるようになったのかを思い出す。逆行する記憶の流れは、砌の脳裏に密やかに過去を連れて来る。
初めて逢ったのは高校2年生の時。満開の桜が辺りを仄かな薄紅色に染めている季節のことだ。晃は偶然再会した古い友人の幼馴染だった。特別なことなど何もない、ただそれだけのことだった。晃も砌も今その出逢いの発端になった友人を待っている。砌と晃を繋ぐものがあるとすれば、今待つただ一人の存在。それだけであるはずなのに何故か放っておくことができない。自分以外の他者を放っておくことなど容易いことだった。それが何故か晃と友人を前にするとできなくなる。誰かと行動することを厭うてきた筈だというのに、何が砌にそうさせるというのだろうか。
一年前、とある人物を殺したことをきっかけに人を斬ることを封じてからも、自分が傷つくことへの恐れはなかった。一人で生きていくことを恐れることは弱さなのだと、この世を生き抜くためにはそのような弱さは必要のないものだと一蹴してきた。それがいつからか綻び始めていた。何もかもが友人と、そして晃の存在のせいであることは明らかだった。
「心が弱ったかな……」
自嘲気味に呟いた砌の言葉を聞きとめて晃が笑う。
淡い、果敢ない微笑だった。
「十分に強い心を持っていると思いますよ」
強くならなければならなかった。自分を守れる者は自分だけだった。誰も守ってくれはせず、ずっと孤独だった。だからいつからか独りでいることに慣れていた。大衆のなかで感じる孤独を苦痛に思うことさえなくなって、孤独であることが当然なのだと思えば何一つとして恐れる必要はないのだと知った。何もかもが消えていくもの。人間の魂を消滅させる能力を持つ砌にとって、目に映る総ては消え行くものとしてしか映らなくなっていた。だから孤独でいることにさえ苦痛を感じる必要はなくなったのだ。世界には天国も地獄もない。ただあるものは消滅、ただそれだけで残るものは何もない。
それからどこかで身軽になったような気がしたというのに、どこで何が変わったというのだろうか。
「僕も、泣き顔は見たくないな……」
誰へともなく呟かれた晃の独語がふわりと辺りに散る。
誰の泣き顔かと改めて問う必要はどこにもなかった。
晃の心の内に腰を落ち着ける。ひっそりと慎ましやかに、それでいて強く晃の心を縛る人物。それは誰でもない砌の古い友人だ。束縛とも違う、もっと強くやさしい何かで晃の心を縛って離さない。まるで友人ただ一人が存在すれば、晃の存在理由の総てを証明するのではないかと思わせるほどに友人の存在は強く、そして深く晃の心を占めていた。晃との関わりを深めるにつれて砌はそれを知った。まるで不可解なものを見るように、それでいて似たものを感じるような心地で。
―――似ている。
一つの言葉を思って、砌は晃に気付かれないよう小さく笑う。
結局、似ているのだ。どこか危なげな晃を放っておけない理由があるとすれば、それはただ自分と似ているから、それだけなのだと砌は改めて思う。晃を見ているとどこかでそこに自分を見るような心地がする。今、待つ友人の存在が大切だと思う砌の気持ちは晃と同じものだ。こんなにも強く守りたい者が現れるとは思ってもみなかった。それが不思議と、いつのまにか当然のことのように傍にいた。気付く間もなく受け入れていた。妹弟のように、血の繋がりがないとしてもそうした繋がりよりも強く繋がりを感じ、大切だと思うようになっていた。
きっとそれを人は強さと呼ぶ裏側で弱さを呼ぶだろう。自分が傷つくことも厭わぬほどに大切だと思う存在は、決して自分を守ってはくれない。血が流れるような局面に遭遇すれば傷つくのは誰でもない自分自身だ。それをわかっていても大切だと思う気持ちを偽ろうとは思えない。決して表に出すことはしなくとも、砌は守り抜こうと心に決めた。
それがいつからか一人ではなく二人になっていたのはきっと、晃もまた砌と同じただ一人の存在を守りたいと思っているからなのだ。危なげに映るのはきただ一人のためになら自分の総てを投げ出すことを厭わないだろうことを知ってしまったからだ。関わりが深くなるにつれて明らかになった晃の強さと弱さ。それは同時に砌のものである。鏡を見るようにして、砌は晃に自分の本質を見てしまう。
もしかすると自分はどこかでまだ自分を守りたいのかもしれない。そう思って、砌は咄嗟にそれを振り払う。自分を守るために二人を犠牲にすることだけは決してしてはいけないことだ。守り抜きたいと思う者を犠牲にしてまで生きる意味が自分にあるとは思えない。生も死も二人が傍に在り、二人を守ることができる、そのことによってしか意味を持たない。
それは決して言葉にはできない感情だった。ひっそりと砌一人の心の内にとどめておかなければならないものだ。言葉にすれば自ずと巻き込んでしまう。危険を伴うことに、そして決して心安くいられないことにも。それはきっと晃も知っている。だから敢えて言葉にすることはせず、ただ静かに友人の傍に在ることを望むのだろう。
まるで傍に在ることができればただそれだけで幸いだとでもいうように。
砌にはその気持ちが痛いほどよくわかる。孤独に慣れて、孤独という言葉さえ忘れかけていた心に孤独を教えてくれた。そして突き放すこともせずに傍にいてくれる。傍に在ることを許してくれる。そんな存在を失うことは決してできやしない。たとえ自分が傷つくことになろうとも、自分一人の血が流れることで守ることができるというのなら安いものだ。
晃が手すりに背を預けるようにして空を仰いでいる。
もし、今そこから本当に飛び降りるようなことがあったら果たして自分は何を選択するのだろう。
「本当に今、そこから飛び降りようとしたら私はどうするのだろうな」
云う砌に視線を戻して、晃が云う。
「止めないんじゃなかったんですか?」
答えに砌は笑った。
「そうだった」
明るく響く声が随分遠くに感じられた。
「僕のためではなく、彼女のために止めてくれますか?」
不意に真剣な眼差しで晃が問う。
その問いに砌は言葉に詰まる。音にすれば本当になる。けれどそれを音にしてはいけない。たとえ本当にしてしまいたいと願うことだとしても、音にした刹那に取り返しのつかないことになるのが砌にはわかった。
「どうだろう……そこまでやさしくはないつもりだけど」
「僕にはできないと思います」
云って晃は言葉を切り、空を見上げる。
「死ぬ意思を持ってそれに向き合う人を止めることなんて、きっと僕にはできません」
言葉が、自分を軽んじている。
砌は思う。
「そっと背を押してやるとでもいうのか?」
「多分、そうすると思います。きっと自ら死を選ぶ人は、たとえそれが取り返しの付かないことだとしてもその時の自分にとってそれが一番の選択だと思っているはずです。それに人はいつ死ぬかわからないものですよ。僕だって、きっと突然死ぬ日が来るかもしれない。不可抗力だとかそういうものではなくて、自分の意思で」
柔らかな笑みとは裏腹に残酷な言葉が音になる。
今、この瞬間に生きていることこそが不思議だ。死は常に傍に在る。生れ落ちたその時から付かず離れず寄り添って、不意に手を差し伸べてくるものなのだ。それを振り払えるか振り払えないか、それが生死を分ける瞬間が確かにある。
「なに、死にたくなったら私が斬ってやるよ」
今ここで引き止めてやるとは決して云えない。
誰のためでもなく自分のために言葉にしてはいけない。
きっと自殺という形ではなくとも、二人のためにいとも容易く自分の命を捨ててしまう日が来るのかもしれないと思うと言葉にはできなかった。晃の言葉にはそうした意味も込められているはずだ。まるで自殺するようにただ一人を守る。誰かを守るということは、自分さえも捨てる覚悟をしなければならないということだ。それが本当に大切な人であれば尚更に、自分を軽んじるのではなく、自分を大切だと思うからこそ大切な者のために自分を捨てなければならない。それが守るということだ。たとえ遺される者が涙を流すことになろうとも、守ると決めたからには泣かせたくないというただそれだけのことで躊躇ってはならなかった。
大切な人が生きていてくれればそれだけで幸せになれることもある。たとえそれが自己満足にすぎなくとも、死んだ自分が思い出になり、大切な人が生きて幸せになってくれるのならばそれで良かった。
「……それもいいかもしれません」
静かな微笑みと共に晃が云う。
同じものを共有している。
ただ一人の存在を、同じような気持ちで守りたいと願っている。
たとえ自分が死んでも晃は生きる。決して一人、遺して逝くわけではない。ならば自分一人が死ぬことを哀しみ惜しむ必要がどこにあるだろうか。二人でただ一人を守ることができるなら、自分が植えつけてしまうであろうその哀しみを癒すために一人を遺していけばいい。
たとえ心が弱くなろうとも、それが大切な者のためであるのなら悪くない。
思って砌が言葉を綴ろうと唇を開きかけたその時、不意に聞き慣れた声が明るく響いた。
その声の主を二人はまるで何事もなかったようにして迎える。
そして屋上の空気は瞬く間に色を変える。
三人を包む色は温かく、いずれ訪れる次の季節の暖かさを連れてきたようだった。
次の季節。
それは砌と晃が出逢った、そして友人が笑っていた桜眩しい穏やかな季節だ。
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