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<東京怪談ノベル(シングル)>


残された余白



(雪豹って、どんな見た目だったかなぁ)
 あたしは記憶の端から端までひっくり返して思い出そうとしたけれど、無理だった。
 雪豹を見たことがないのだ。
「灰色の身体に、黒の斑点――ほっそりとした美しい姿」
 それが雪豹なのだと生徒さんは教えてくれた。都内にある某動物園には、この動物がいるらしい。
 ところが、不幸にもその雪豹が病気にかかってしまったのだ。命にかかわる程ではないけれど、お客さんに姿を見せることは当分控えることになった。
 ……それだけなら、特に珍しくはない話なのだけど。

 ここに、一人の女の子がいる。白く透けた肌と、お人形みたいなサクランボ色の唇、小さい子らしく長めに伸ばした髪――そして、病弱な身体。こちらは雪豹とは違って安心出来る状態とは言えなかった。
 その女の子が動物園へ来る。理由は具合の悪いことに、雪豹を見るためにだ。
「絵をね、描きたいみたいなのよ」
「それじゃあ、一日では無理ですよね」
 病弱な子が長い時間外で過ごせるとは思えない。何日かに分けて、少しずつ描いて行く方がいい。
「他の動物園から借りて来ることは出来ないんですか?」
「一応、東京都内にいることはいるんだけどね。でも一部で人気があることと、動物側のストレスのことを考えると、そうそう許可が下りることじゃないわ。だって、どんなに長引いたとしても月単位にはならないのよ。そんな短い期間内でわざわざ他の動物園に交渉して、動物のことを考えながら移動を行って……代償が高すぎるわ。これでもし借りてきた雪豹までストレスで体調を崩したら、困るじゃない」
「それじゃあ、どうしようもないんですね……」
 あたしは俯いて言った。
 当然のように、名案なんて浮かばない。
(どうにかしたいけど――)
 生徒さんはあたしの心の動きを読み取ったらしかった。
「みなもちゃんの協力で、事態は大分変わるのよね」
「本当ですか?」
「ええ。今日ここに来てもらったのも、そのことについてなの」

 生徒さんから依頼された内容は、曰く、あたしの今までのバイト経験をフルに活かせることだそうだ。
 そう。つまり。だから。
 あたしは雪豹そっくりの――もとい、雪豹そのものになって動物園の檻の中で過ごすことになったのだ。

(でもそれって)
 騙しだ、と思う。
 女の子が見たいのは、あたしじゃない。描きたいと思っているのは、雪豹なのに。
「明日も明後日も動物園へ来れるだけの体力がある保証はどこにもないのよ」
 生徒さんの言葉を反芻している。
「それと……出来るなら元気付けてあげて欲しいの。本物よりもみなもちゃんの方が、出来る筈よ」
 普段とは違うまっすぐな生徒さんの声に、あたしは頷いていた。
 戸惑いながらも、断る理由が見つからなかったのだ。

 雪豹の生態には謎が多い。数が少ない上に夜型、そして単独行動を取る動物で、あまり知られてはいない。
(あたしもよく知らなかったし……)
 その代わり、猛烈なファンがいる。
 中にはあたしが一歩踏み出す度に、ホウッと歓声をあげる人もいるくらいだ。
(何だか恥ずかしいなぁ……)
 学校の先生や、生徒さんに見られていると緊張するように、あたしはドギマギした。檻の外からあたしを見ているお客さんたちは、あたしのことを雪豹だと思っている。変なことは出来ないのだ。
 そうは言っても、最初はなかなか慣れなくて――緊張のあまり、自分の尻尾を後ろ足で踏んでしまった。
「ギニャッ!!!!!!」
 咄嗟に出た声に、心配する人や珍しそうに覗き込む人、さまざまな反応があった。
「猫みたいで可愛いねー」
 こんなことを言う女性もいた。
 ……猫じゃないもん。似てるけど、大分違う。
「尻尾は大事にしないと駄目だよー」
 そう声をかけて(独り言かもしれないけど)くれる人もいる。それは確かにそうだ。猫科にとって尻尾とは、バランスを取るための重要な物なのだ。
 これが取れてしまったら……。
(怖い……)
 ぶるぶると身体を震わす。恐ろしいことだ。

 女の子は、人の少なくなる時刻を見計らってやって来た。
 いや、親に連れられてきた、というべきかもしれない。
 非常に短い歩幅で近づいてきたその子は、檻の傍からあたしのことを穴が開くほど見つめていた。
 眼を逸らせずに、息を止めていると――やがて女の子は感情的に口を開いた。
「すごぉい……」
 その言い方に、素直さが込められていたから。
 あたしはゆっくりとした動きで女の子の前まで移動すると、そこに座った。長くて太い、特徴的な尻尾で身体をくるむ。寒さを凌ぐための本能だ。
 女の子の瞳が大きくなったかと思うと、口元に笑みが零れた。……クレヨンを右手で強く握り締め、地面に座り込み、画用紙に向かって描き始める。
 かなり力を入れているようだった。一心不乱、と言えば正しいのだろうか。
 だがやはり基本的な体力が劣っているのだろう、数分置きに女の子は手を休めた。
 ふう……と、白い息を吐いている。十分もしないうちに肩で息をし始めた。
「………………」
 その間、あたしは動かずにいた。この姿では話しかけることも出来ない。
(でも……)
 女の子の身体が気がかりだった。冬の風に当るのも、地面に女の子座りをするのも、身体に良い筈がない。
 それでも女の子は画用紙を覗き込んで、描いている。何故そこまで真剣なのかわからないくらいに。

 あたしは空を仰いで、大きなあくびを一つした。
「……んああああ」
 とても大きな声で、そして非常に…………退屈そうに。
 女の子はクレヨンを画用紙の上に落とした。あたしの声に驚いたみたいだ。
 クレヨンは昔話の『おむすびころりん』のように軽快に転がって画用紙から地面へと場所を移し――それを合図にするかのように、女の子のお母さんが駆け寄ってきて彼女を抱き上げた。
「……んああああ」
 あたしはもう一度あくびをした。さっきよりもずっと静かに、と注意して。
(気を付けて帰ってね、って)
 ――正確に伝わることはないだろうと、理解しているけれど。

 女の子は翌日も来た。
 今度はシートを敷いた上に座って、絵を描き始めた。
 その翌日は、魔法瓶も持って来ていた。
 温かそうな瓶を眺めていると、女の子はあたしと瓶とを見比べて、
「あげちゃあ、め、なの」
「…………」
 何と返したらいいのかわからず――。
 あたしはさも飲み物には興味がないのだと言わんばかりに眼を瞑った。
(だからあたしに遠慮しないで飲んでね)
 女の子は一瞬申し訳なさそうにしてから、飲み始めた。

 ……この子はどこから来ているんだろう?
 あたしが興味を示し始めたのと同時に、女の子の方もあたしのことを知りたがった。
「おす?」
 そっぽを向く振りをするあたし。
「めす?」
 ……視線を女の子へと戻す。
「めすだぁ」
 座ったまま微かだが、嬉しそうに身体を揺する女の子。手には灰色のクレヨンが握られている。初日のときの物に比べれば、大分使用感があった。巻いてある紙が取れかかっている。
 時には眠りそうな眼をこすりながら、女の子は話してくれた。
「おちゅうしゃする時ね、泣いてたら…………おかあさんが“これを見てげんきだしなさい”ってね、それでね、ずかんにね、はいいろの……ひょうが…………」
 吸い込まれるようにして眠りに落ち、今目の前で寝息を立てている女の子を、その子のお母さんが起こさないように抱き上げて連れて行く。
 そのあどけない顔を見れば見るほど、あたしは複雑な気持ちになるのだ。

(元気でいてね)
(騙してごめんね)

 一度、生徒さんが様子を見に来たことがあった。
 まだ女の子が訪ねてくる時刻ではなかったことと、檻の前にお客さんはいなかったために、あたしは浅い眠りを繰り返していた。
 岩の前で寝ていたせいだろう、生徒さんはあたしがどこにいるのか判らなかったらしい。
「みなもちゃん、みなもちゃん」
 何度か呼ばれて四本足で立ち上がったところへ、生徒さんは安堵したように言った。
「そこにいたのね……」
 生徒さんによれば、あの子はここに来ることで精神的に元気付けられているとのことだった。
(そうかもしれない)
 女の子は既にあたしの輪郭も、柄も描き終えていた。眼も描いたし、ヒゲも描いた。尻尾もだ。
 バックの岩も描いてある。
 残すところはただ一つ。口を描いてお終いだ。
(だから)
 あの子とも今日でさよなら。

 ――口を描くのは簡単だった。
 女の子は赤いクレヨンを持つと、画用紙に擦り合わせるように雪豹の口を描いた。わずか数秒の作業である。
 ところが、その子は帰るそぶりを見せなかった。
 代りに、話始めたのである。
 今度身体がガタガタして歩けなくなったらね、手術をしなきゃいけないの――そんな言い方をした。
 そしたら良くなるとも、危ないとも言わなかった。
 判っているのかいないのか。
 手術が痛いものなのは知っているらしく、水を被った犬のように、女の子は身震いをした。
 ……小さな唇から歯のぶつかり合う音が聞こえてくる。震えるのには、寒さのせいもあるのかもしれない。
「しゅ……ちゅがおわったら、またくるね。あたらしいのがたくさんあるし、こんどはもっとおっきく描くね」
 そう言って女の子は完成した絵を見せてくれた。子供らしい大胆な描き方ではあるが、画用紙の大きさに対して、描かれている雪豹は小さかった。
 ……あたしは一度目のお別れに、もう一回だけあくびをした。

「すぐ会えますよね……?」
 救いを求めるようにあたしは呟いた。
 生徒さんはイエスともノーとも答えない。
 全てが終わった後で、生徒さんに連れて行ってもらったカフェ――ここであたしは幾度となく同じ言葉を繰り返していた。
(会えるよね)
 困り果てたように生徒さんは押し黙っていたけれど、ようやく喋ってくれたと思えば、
「正直わからないわ」
「そんなの……」
「でもね、みなもちゃん」
 生徒さんは被せるように言った。
「今日のこと、忘れたら駄目よ。あの子が戻って来ても、みなもちゃんが忘れていたら意味がないんだから。……それと、雪豹の真似もよ」
 コクリと頷いたあたし。
 生徒さんは悪戯っぽくも弱々しい笑顔を浮かべている。
「それで……あの子の病気って何なんですか……?」
「ああ……みなもちゃんにはあの子のことを何も話していなかったわね」
 生徒さんは作ったような穏やかな声で話し始めた。
 それを聞きながら――聞き終わった後も――あたしは願う。

 画用紙一杯にあの子が雪豹の絵を描く。
 ――そんな日が、一日も早く訪れたら。



終。