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3倍返しのその前に
それはまだまだ寒さの続くある日の事だった。
村上涼(むらかみ・りょう)は自宅の台所に立ち、ガンガンと音をたてながらある物を砕いていた。
レピシには砕くではなく『細かく刻む』と書かれている。
しかし、まな板の上を見れば確かに細かくはなっているが途中経過を見るとどう見ても涼が握っているのが包丁ではなく鉈にしか見えない見事な砕きっぷりである。
一通りそれを砕いた涼は、ふぅ……と小さく息を吐くと額に浮かぶ汗を手の甲で拭う。
涼の前、まな板の上には細かく刻まれたチョコレートがあった。
そう、もうすぐ年中行事の一つ『バレンタイン』がやって来る。
涼はそれに向けて手ずからチョコレートを作っていたのだ。
村上涼を知る人なら、あぁ、だから今年はすごい雪だったのか……と、記録的な大雪を納得したとしても無理はない。
涼の名誉のためと前述のように思わず大雪を納得してしまった者の身の安全のために弁明しておくが、決して涼が料理をしている事が珍しいのではない。
本人いわく一般的な乙女である涼は、ひとり暮らし暦はや数年。料亭やレストラン張りの凝った物を作れと言われれば躊躇うが、自分が食べるのに困らない程度の自炊生活を送っている。
だが今、彼女が作っているのはチョコレート。
しつこいようだが『バレンタイン』に『チョコレート』を手作りしているのだ。
「ふ……ふふふふ、目にもの見せてくれるわ」
しかし、涼の口から洩れたのは高笑い寸前の禍々しい笑みと不穏な台詞。
完成品のチョコレートを見る目付きはバレンタインというイベントとは縁遠いものだ。
つけっ放しになったテレビのお天気キャスターが、
「明日の関東地方の天気は雪となるでしょう」
と言ったことなど危ない目つきでチョコレートを見ている涼の耳にはこれっぽっちも届いては居なかった。
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不本意ながら見慣れたマンションの前で涼はペーパーバッグを抱えて躊躇していた。
もって行くべきか行かざるべきか。
ここまで来て今更だとは思うのだが、どうしても決心がつかずに1歩を踏み出せない。
マンションの前を行ったり着たりすること約1時間。
そのうちに、はらはらと雪まで降り始めた。
「うぅ―――」
唸り声を上げて真剣に悩む涼の方が突然ポンと叩かれる。
「何よっ!?」
人が真剣に悩んでいるのにとものすごい勢いで振り返った涼の後ろに立っていたのはこのチョコレートを贈る予定の相手――水城司(みなしろ・つかさ)だった。
「こんな寒空の下で待っていなくても合鍵で入っていれば良かったのに」
「べ、別に待ってなんかないわよ!たまたま偶然通りがかっただけでだから――ってちょっと聞いてるの?何のつもりよこの腰に回った腕は」
涼は腰に回された腕から逃れる為にじたばたと足掻くのだが、がっちりと抱え込んだ腕はそうそうはがれない。
「村上嬢。近所迷惑っていう言葉くらい当然知っているよな」
少し声を潜めて涼の耳元に囁く。
「そんな脅しには乗らないわよ」
「黙らないなら強制的に黙らせてもいいんだが」
腰に回していた手を肩に回して力を入れると必然的に涼の身体は司の胸に抱きしめられて空いている手で顎を捕らえられて上を向かされる。
嫌な予感に涼はさらにもがく。
「わかったわよわかった、わかったってば」
強引に唇を塞がれかけて涼は結局ギブアップする羽目になり、それでも逃亡防ぐためなのか緩むことのない司の腕に抱かれたまま涼は部屋までそのまま連行されることとなった。
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司はコーヒーを入れながら、強張った顔でソファに座る涼を横目で見て密かにほくそえむ。
涼が大事そうに抱えている物の正体を考えると涼のその強張った顔も躊躇気味の様子も司にとっては可愛らしい抵抗にしか見えない。
きっと天邪鬼な涼の事だ、チョコレートを渡す渡さないで心の中で相当葛藤しているのだろう。
司は食器棚から涼の赤いマグカップを出してカップを暖める。
その中にアイリッシュウィスキーを注ぎ火を灯してその中に深煎りしたコーヒーを注いでよくかき混ぜ、仕上げに生クリームを浮かべる。
わざわざ手の込んだアイリッシュコーヒーを入れたのは涼の体がすっかり冷え切っていた事もあるが、少し時間をかけることで涼の心を落ち着かせるためでもあった。
「ほら。少しは暖まる」
司はそう言ってマグカップをソファの前のローテーブルに置く。
しかし、涼は握った両手を膝の上に置き少し俯いたままだ。
小さく溜息をつき司は涼の隣に腰掛けた。
「こんなに冷たくなるまで――」
そう言って涼の頬にそっと触れる。
びくりと涼の体が大きく揺れた。
「なぁ、これは俺にでいいんだろう?」
と、司は涼が抱え込んでいる紙袋を指す。
いくばくかの間を置いてようやく観念したのか、涼はこくりと頷いた。
頷いた涼の顔を見たいと司は強く思ったがその衝動を押さえる。表面的には必死で体裁を保っているとは思うが、その実、自分の顔も相当脂下がっている可能性を否定しきれなかったからだ。
袋から綺麗にラッピングされた箱を取り出すと、ゆっくりと包装を解いて蓋を開けた。
手作りらしいトリュフチョコレートに司は内心笑み崩れつつ早速1つを口に入れる。
少し苦いココアパウダー、そしてその次に甘いチョコレートの味が下に広がる。中のガナッシュを覆う表面のチョコレートに軽く歯を立て――司はそのまま硬直した。
「っっ―――!!」
当然来るはずの甘さではなく、えも言われぬ味が口中に広がる。
ピリッとしてツーンとして、そして塩っぱいような酸っぱいような味が次々と怒涛の如く口中を縦横無尽に走り回る。
「……ふ」
それまで黙って俯いていた涼が絶句した司を見るなりに、
「ふふふふふ!やったわ!!」
とガッツポーズして高笑いした。
そう、涼が持参した手作りのバレンタインチョコの中身は唐辛子、わさび、タバスコ、梅干の入った特製トリュフだったのだ。
「目には目を食べ物の恨みは食べ物でよ!」
そう、手の込んだ手作りチョコレートはいつぞやのおでん缶の仕返しに他ならなかった。
司の硬直っぷりを確認した涼はもう用はないとばかりに、
「じゃあね」
と言い捨てると脱兎の如く逃走を図った。
―――やったわ。してやったりよ!
一応それがあまりにもものすごい物である自覚はあったので涼は延々司のマンション前で躊躇していたのだがもうこうなってしまえば今更だ。
勝てば官軍よ――と意気揚々と、しかしすばやく逃げようとした涼が玄関のドアノブに右手を掛けようとしたまさにその時、左の腕を強く後方に引っ張られた。
「へ?」
勢いのまま後ろに倒れこみそうになった涼の身体は背後に抱き寄せられて、後ろから回された手が顎を掴み斜め後ろに向けられ視界と唇を塞がれた。
強引に唇を割られて何かと舌が押し込まれて、涼の唇に重ねられていた司の唇はすぐに離れていった。
「……――!!」
涼は玄関に向いていた身体を翻してキッチンに駆け込んだ。
「何すんのよ!」
自分がしたことはすっかり棚に上げて涼は司に向かって叫ぶ。
口移しで与えられた殺人チョコレートは、司の口の中で表面のココアパウダーもチョコレートをほとんど溶かされて強烈な中身のみという最悪な代物だったのだ。
しかし、司はしれっとした顔をして、
「お返しをしただけだろう。まぁ、本番の前のちょっとしたお返しだけれど」
とにっこりと微笑んだ。
「あ……あ、悪魔ぁっっ!!」
声量の限りの絶叫が部屋中に響き渡る。
ホワイトデーという名の『仕返し』までのカウントダウンの幕が上がった。
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