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歪んだ憧憬
それは「歪み」だった。
空間が、空気が、大気が捻じ曲がり、文字通り世界は歪んでいたのだ。
目に見える光景のおかしさに、彼は笑いをこみ上げずに入られなかった。そして彼は歪みの先にある黒い空間に一歩足を踏み入れたのだ。
そこは、今までと変わらない――だけど確実に違っていた、今さっき自分の居たのと同じ場所だった。
ああ、これは現実とは違うのだ、と彼は安堵した。
現実とは違う夢の世界。もう、恐怖におびえることも、嫌な思いをすることもない。
自分はこれで救われるのだ。夢の世界で。否――これこそ自分にとっての『現実』だ。
自分に残された、唯一の救いなのだ。
自ら望んだそれに彼は歓喜した。
それは明らかに『現実』とは違う歪んだ世界。だが、これが自らの『現実』としたら歪んでいるのは『現実』の方ではないか?
誰も自分を異端視しない。嫌わない。厭わない。自分こそが絶大なる存在――そんな『現実』で『現実』を喰ってやる。
彼のの歪みが作り出したこの世界は――そう、確実に『現実』を蝕み始めていた。
青い空はうねり、白い雲は歪み、建物の端々は形を変え、色さえも反転されていく。
木々が茂みを伸ばすように、それは少しずつ、少しずつ広がっていた――。
あやかし荘の一室から広がったその歪みは、すでに建物全体にまで広がっていたのである。
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春香は依頼を受けてその地に立った。サングラス越しに歪んだその景色をその瞳に映し出す。
歪んだあやかし荘を見上げながら、依頼内容を頭の中で反芻する。
曰く、あやかし荘の住人の保護、異変の調査・解明・最終的な被害の予測、そして被害を最小限にするために活動せよ――と。だが、どちらかといえば、彼に調査を依頼した人物は最後の被害を最小限に抑えるための処理活動に関心を高めていた。
あやかし荘の見取り図、そして住人全員のデータを渡され、それら全てを脳に叩き込み、閃光手榴弾と愛用のベレッタM92Fと防弾ゴーグルをコートのポケットに突っ込んで、すぐ『何か』があった時に対応出来る様に愛用のグルカナイフを手にし、彼は黒いコートを翻しあやかし荘の内部に入っていったのだった。
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どうなっているんだ、全く――そう思いながら春香は駆けた。彼の着る黒いロングコートの裾が時たま歪に引っかかるが、構わず駆ける。
あやかし荘の中は歪みのせいで、あちらこちらが滅茶苦茶にくっついていて、彼が脳に叩き込んだ見取り図は役に立たなかった。さっき住人を助けようと入った部屋では臓腑も肉も骨もさらけ出したぐちょぐちょの、かつて人であったはずのものが、まるで焼き魚をほぐすのが苦手な人間が食べた後の様に放置されていたし、歪みの渦は襲ってくるしで、実体の無いものを対処出来ない彼にとっては逃げるしか他ないのである。
ゴーグルをかけてみれば、何もない場所にも熱源があり、やがてそこから歪みの渦が発生することがわかったから、歪みに取り込まれることからは逃げることは出来たが――逃げるだけでは何も調査は進まない。
手にしたナイフを役に立てることも無く、彼は廊下を駆け抜けた。途中の扉を開けば、そこに部屋は無く、とっくに歪まされた後だというのが理解できた。
「…もう何でもありだね、これは…」
上下左右にうねった廊下を駆け抜けた先は、天井が床に、床が天井になった一室だった。そこには銀青色の髪をした少女と、彼の頭に叩き込まれた住人のデータと一致する少年がいた。
これはこの部屋に飛び込んだらどうなるんだろうな…と思いながら、春香はその部屋に足を踏み入れた。
すると上下が反転して、天井だった床に着地したのだ。
「…ゴーグルのまま名乗らずの挨拶で失礼。しかしこれにも事情があってね。すまないが勘弁してくれよ。君は…ここの住人ではないようだね」
少女に向かって春香は言った。
「はい。だけれどもこの子はここの住人です。今しがた歪みに取り囲まれていたところだったのですが…」
「君が助けた、と」
「はい」
奏は頷いて、少年に
「ここは危険だから逃げた方がいいわ」
と優しく言う。
「今、出口を作ってあげるからね」
そう言って彼女は天麟を何も無い空間に振った――否、空間を『切った』。するとその空間に切り口が現れ、開いたその向こうは――あやかし荘の外の道路だったのだ。
「お姉ちゃんが元に戻して見せるから、今は外にいてね」
と、涙ぐむ少年の頭を優しく撫でる。こくんと頷いた少年は素直に外に出たのだった。
「さて…参りましょうか。どうやら貴方と目的は同じようです」
「君もこの異変をなんとかしよう、と?」
「はい…。私に何ができるかはわかりませんけど…。この悲しい歪みを正せれば…癒せれば…と思います」
「…成程。確かに君の武器はこんな場所では心強いかもしれないがね。実体の無いものでは俺の力は無力に等しい」
そう言って彼は手にしたナイフを見せる。
「とりあえず…調査を再開しよう」
その春香の言葉に奏はこくんと頷く。春香はあたりをきょろきょろと見回して、先ほどの廊下以外にも先に進める場所を探した。ゴーグルが熱感知した先は――窓。窓の向こうが廊下になっていたのだ。
「…本当に、なんでもありだな…」
と、窓の鍵に手をかけると――
「たべもの、みーっけっ」
と嬉しそうな声が廊下から聞こえてきた。
口元に、手に、胸元に赤い血をこびりつけ、妖しく笑う少女の手には、血まみれのレイピア。
「ん?君たちはもしかしてここの住人じゃないのかな?」
きょとん、とロルフィーネはとことこと廊下からその上下反転の部屋に一歩を踏み入れる。
「あれ?」
くるんと天井と床が入れ替わって――正しくは、ロルフィーネが空中で百八十度回転したのだが――彼女は天井に着地した。
「じゃあ、ばれちゃうか。残念」
むすっと唇を尖らせながら、彼女は二人に近づいた。
「どっちも美味しそうなのにな。特に君」
「わ、私?」
ロルフィーネは大きいな赤い瞳を輝かせながら、奏に微笑みかけた。
「うん」
「……吸血鬼かい、君は」
と春香が問う。
「そうだよ。ボクはロルフィーネ。吸血鬼。ボクもね、この異変を一応なんとかしようと思ってきたんだよ」
「…食事のついでにかい?」
あきれた表情を浮かべながら、春香はロルフィーネを見下ろした。
「てへ、バレた?」
と、ロルフィーネは悪びれもせず、今なお鮮血のつく唇を笑みの形に歪ませた。
「でもね、ちゃんと原因調べてるんだよ。あやかし荘に入ったらね、『月の矢』の魔法を飛ばしたの。今原因になっている何かを探ってるんだ」
月の矢――それは夜、道を歩いている時、まるで月がどこまでも自分についてくるという錯覚を覚えるのと同じように、月がどこまでも原因であるものを探し、追い続けるのだ。
「今ちょうどね、何が原因かわかったところだよ。ええとね…人だね。高校生ぐらいの男の子。美味しいといいな」
「何処に居るかはわかる?」
奏が尋ねると、
「んー…ちょっと待ってね」
と目を閉じる。彼女が飛ばした月の矢の『眼』とシンクロする――が。
「おい」
春香がいち早くそれに気づいた。彼の装備するゴーグルが大きな熱源を探知したのだ。数は一つ。だが、それは部屋の全体を覆えるほどの大きさで――。
奏がそれを断ち切る前にそれは三人を包み込んだ――。
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ゴーグル越しに見たその世界は、例えようがなかった。
様々な色彩の混じったその世界には、地面と空の境界線が無く、また自分の立っているところが地面だという確証もない。そこより先にも空間はあり、空も空だという感じがしない。上下の感覚がまるで無いのだ。試しに自分の立っているところにナイフを突き刺してみたがその感覚も無く、もしかしたら自分はその空間に浮いているのかもしれない、と春香は感じ取った。
さて、どうしたものか…と思っていると、ゴーグルが熱源をたくさん感知した。
まずいな…と思いつつもナイフを構える。空いた手ではいつでもポケットの中の手榴弾、ベレッタに手を伸ばせるようにしてある。これでこの歪みが一斉に襲ってきたら対処のしようが無い――そう思っていると、多数の歪みが上空に渦を巻いた。そしてそこからは人のシルエットに角やら、余計な腕やら、足やら、羽やら、人じゃない足やらが生えていたり、無かったりと――人を素材にしてキマイラを作ったんじゃないのか、と思えるようなものが薄暗い影色をして降りてきた。
右手にナイフを持ちながら、ベレッタを構え、そのキマイラに一発打ち込む。発砲と共に、血飛沫が上がる。
実体有り――そう思ったと同時に、彼は一つの確証を得た。この空間からどうやって脱出するかどうかは未だわからない。だが、これだけは言える。
相手に実態がある限り、負けることは無い、と――。
数は――十。大丈夫、対処できない数ではない。彼はゴーグルを遮光に切り替え、ベレッタをポケットに突っ込むと同時に閃光手榴弾を取り出し、キマイラが『地面』に降り立ち、彼めがけて突進してくると同時に口でピンを抜いて、心の中で三つ数える。そして奴らの手が春香に到達するぎりぎりのところで彼はあるかどうかわからない地面を蹴って跳んで――閃光手榴弾を投擲したのだ。閃光がその空間を包み込む。
そして『空』に着地して彼はベレッタを構えてキマイラを打つ。その弾丸は確実に彼らの頭を打ち抜いていった。そして、近くにやってくる敵には右手に持ったままのナイフでその喉を掻っ切る。
同時に現れた十体を倒しきると同時に、また空に歪みの渦が現れた。
キリが無い、だが負ける気はちっともしなかった。
ナイフを、ベレッタを構える彼の右側に、一筋の白い線が浮き上がった。それが猫の瞳孔のような形をとると、その向こう側から「こちらです」と少女の声が聞こえてきた――。
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奏は天麟で異空間を断ち切り、脱出した。そして、さらに空間を切り、ロルフィーネ、春香の二名を救出するのに成功したのである。ロルフィーネは先ほどよりも血まみれになっていたが――。
「で、原因になっている少年の居場所はわかりそうか?」
そう春香が問うと
「うん。こっち!」
と鮮血のついた牙を覗かせて、満面の笑みでロルフィーネが二人を先導した。
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何故。
彼はそう思った。
この世界の神は自分なのに。何故奴らが――自分に、神に刃向かうあいつらがああやって自分の創造物を倒していくのか。
何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故なぜなぜナゼナゼ――。
神、自らの手を下せというのか。
どうやらまっすぐ奴らは此方へ向かってくるようだし――仕方あるまい。
自分を、己を嫌うもの、厭うもの、全て――排除する。
彼はそう決心して立ち上がった。
来るなら来い。この世界は自分の思い通りになるのだから。お前らなど――取るに足らない存在だ。
そう思いながら、彼は哂った。
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「この部屋にいるの?」
「うん」
奏の問いにロルフィーネはうきうきして答えた。
「開けるぞ」
春香がそう言ってドアノブに手をかけた。すると――多大な歪みがその部屋から噴出す。
「…っ!」
「何これー?!」
「きゃああっ!」
三者三様の叫びを上げる。そして歪みの噴出が収まると、その部屋の住人――そしてこの歪みの原因と思しき少年――が妖しくこちらを向きながら哂っていた。顔は心の映し出す鏡とはよく言ったもので、彼の顔は歪んでいた。人間の様相は保っているものの、唇は裂け、瞳は大きく見開き、血走っている。
「君か、この歪みの原因は」
春香は冷静に問いかけた。
「歪み…失礼な。立派な世界じゃないか。この世界は僕の思い通りになる世界。この世界では僕が神だ。その神に刃向かうお前達は」
彼の背後に歪みの渦がいくつも現れた。
「――排除されるべきだ」
言うと同時に、その歪みからミサイルのようなものが噴出される。
奏は天麟で、春香はナイフで、ロルフィーネはレイピアで軽くそれを打ち落とす。
「…何故だ、何故この僕の思い通りになる世界でお前達は僕に刃向かうんだ!」
歪みからミサイルが、弾丸が、矢が、跳躍するもの全てが彼ら三人に向かって跳んでいく――が、いとも簡単にそれは落とされる。
「答えは簡単だ。俺達は――お前の世界じゃない」
だん、と春香が少年の目の前に着地した。そして首元にナイフを当て、
「今すぐこの世界を元に戻すんだ」
「……」
少年はうつむいたまま何も言わない。
「待って待って、僕が頂くからころしちゃだめー」
とロルフィーネが少年と春香の元に近づく――が、
「待って!」
と奏が真摯な瞳をして叫んだ。
「こうなったのも何か原因がある――そうよね?」
優しい笑顔を浮かべながら奏は少年に話しかけた。深いブルーの瞳が優しく少年を見つめる。
「言ってみて。抱えているもの、こうなってしまった原因を――全て吐き出せば楽になるわ」
優しく微笑むが、彼は
「何を言っているんだ。全て――人も世界も僕を嫌っている。厭っている…。世界は僕を望まない。この世界だけだ、僕がいていい世界は…」
「本当に?」
「僕は……」
「嫌っているのは、貴方の方ではないかしら?世界も、人も貴方を嫌っていると言うのであれば、それは、貴方が全てを嫌っているからではない?」
「……」
「大丈夫、世界は貴方を厭ってはいないわ。だからこそこうやって――助けにきたのだから」
「僕は――…」
さぁぁ、と風景が普通のあやかし荘に戻っていった。
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報告書を彼はまとめあげて提出した。
心の歪みを現実にした少年の話を。
もし、月宮奏がいなかったら、彼はきっと少年の命を奪っていただろう。それで、全てが救われるのだから仕方あるまい。
「歪みに囚われた…か」
心を歪ませて、世界までも歪ませるというのなら、世界はとっくに大いにに歪みきっていることだろう。否――もう既に歪んでいるのかもしれない。この世界そのものが。
病んだ人間が多いのだから――そう思いながら、ベレッタに弾丸を装填する。そう、次の依頼のために。
人間に害をなす異能者はまだまだいる。休んでいる暇は無い。
サングラスの向こうの赤い瞳は世界をまっすぐに捉えていた。歪ませることなく。正しい世界を。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【3968/瀬戸口・春香/男性/19歳】
【4767/月宮・奏/女性/14歳】
【4936/ロルフィーネ・ヒルデブラント/女性/183歳】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。へっぽこライターの皇緋色と申します。今回は『歪んだ憧憬』に参加してくださってありがとうございました。心の歪みが現実に――という割と重いテーマの中、ガンガンに戦っていただきましたが、楽しんでいただけましたでしょうか?
エピローグや登場シーンが、各々で別文章になっております。あわせてご覧になられると楽しめるのではないでしょうか?
二度目のご参加ありがとうございます。大変嬉しいです。
相変わらずバトってるのかバトってないのか、微妙な部分もありますが、楽しんでいただけたなら幸いです。
また機会がありましたらお会いしましょう。
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