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糸口、のようなもの
一ヶ月の及んだ入院生活が終わると、懐かしの我が家が迎えてくれる。
家具調度類は言うに及ばす壁までぴかぴかに掃除された事務所兼住宅。
「おおぅ‥‥」
感極まって落涙するのはここの所長であり家長でもある草間武彦。
大げさである。
まあ、一番散らかす人がいないのだから、興信所は日々きれいになっていったわけだ。きれい好きがふたりもいると、住環境はどんどん整備されていくものらしい。
「‥‥しかし、なんで灰皿がなくなってるんだ?」
ごそごそと探し回る三〇男。
こそ泥みたいだった。
情けないことおびただしいが、まあ、草間だから。
「捨てられたんじゃないのか? 日頃の行いが悪いせいで」
戸口からかかる声。
「いきなりがその台詞かよ? 不動」
振り向きもせずに草間が応えた。
「他になんと言えばいいんだ?」
反問。
まだ若い声だ。
もちろん若いのは声だけではない。実年齢だって若いのだ。
不動修羅。
まだ高校生である。
「普通は最初に、退院おめでとう、とか言うだろ?」
「ああ、そうか」
ぽんと手を拍ち、
「退院おめでとう。草間」
まったく誠意のこもってない口調で言ってみる。
「‥‥もういいです‥‥」
拗ねたふりをする所長。
いい歳こいて頬を膨らますものではない。
細君や義妹がやったのなら、それはそれで可愛らしいが。
「それはいいとして」
「いいのかよ‥‥」
あっさりと流される。
ボケたときにつっこんでもらえないことほど寂しいものはない、と言ったのは誰だったろう。
「あれから、なにか動きはあったのか?」
不動が訊ねる。
動きとは、例のIO2日本支部のことだ。
より正確にいうと、信長軍団である。
サンシャイン六〇ビルで真田十勇士と死闘を演じたのは一ヶ月少し前。東京の街に冬が訪れようとしている頃だった。
記憶が風化するほどには時間が経っていないし、なによりあのとき倒したのは敵の一部分でしかない。
「俺は入院していたんだぞ。世間様のことはお前の方が詳しいんじゃないか?」
「一般のことなら、な」
肩をすくめる不動。
まったく、平凡な高校生活を送りたいはずなのに、どうして世間一般に出回っていない情報を気にしなくてはならないのか。
異能者だから、という理由だけではいささか哀しい。
好きで変異霊媒体質に生まれたわけではない。
ないのだが、これは今更いっても仕方のないことではある。
「稲積からはなにも言ってきてない。平和そのものだ」
「そうか‥‥不気味ではあるけどな」
信長が日本征服を断念し仏門にでも入ってくれたのなら良いが、まずそんな可能性はない。
次の計画の準備をしているに違いないのだ。
「いつまで、平和が続くのかな」
少年が呟いた。
黒い瞳が、やや遠くを見つめる。
戦う力を持ったからこそ、戦いを知ってしまったからこそ平和の尊さが理解できる。これはべつに倒錯した心理ではない。
戦いから遠ざかれば遠ざかるほど人間は好戦的になるから。
ずいぶん昔の話になるが一九九九年に地球が滅びるという予言があった。恐怖の大王とやらいうものが降臨して、正義と悪との最終戦争(ハルマゲドン)が勃発するという内容の予言だ。
荒唐無稽な話だ、とは、後になって言えることで、七〇年代や八〇年代生まれの子供の八割くらいは信じていた。
結局、予言はかすりもせず、世界は相変わらず戦争と平和と差別と矛盾とに彩られている。
ただ、予言の期日が近づいてゆくに従って、奇妙な噂が流布するようになった。
自分は神に選ばれた戦士でハルマゲドンにおいて悪魔と戦わなくてはならない、という類のものだ。当然、逆のパターンもある。
まあ所詮は子供の戯言に過ぎないのだが、そんなに今の自分が嫌なのか、と、問いたくなってしまう。
神にも悪魔にも選んでもらう必要などない。自分の人生航路は自分で選択するものだ。
成功するにして失敗するにしても、自分の責任なのだ。
「けど、こんな力を持っちまったら、選択の自由なんかねえ」
ひたすらに隠し通し、人に知られないように背を丸めて生きるしかない。同じ場所に長く住むことも難しくなる。
特殊能力を欲しがる者たちの気持ちを、不動は理解できない。
その力を使って日本を変えようとする者たちのことも。
普通に生きることこそが最も幸福だろうに。
普通に学校生活を送り、普通に就職し、普通に家庭を築き、普通に老い、普通に死んでゆく。
「どんな死に方をするか判らない俺たちより、ずっと幸せだ」
「ま、自分の持っていないものに憧れるのは仕方がないさ」
苦笑で応える草間。
不動もまた苦笑いを浮かべる。
彼らもまた同じなのだ。自分にないもの、手に入らないものに憧れるという点において。
「そういえば、なんか用だったんじゃないのか?」
話題を変える。
不器用さが、救いだった。
「ああ。ちょっと思いついたことがあってな。けどその前に」
「その前に?」
「茶くらいだせよ。客に」
「俺、病み上がりなんだけど」
シニカルな笑みを男たちが交わしあった。
「いくつか試したんだ。アンタが入院している間に」
テーブルの上のコーヒーカップに語りかけるように、不動が口を開く。
「というと?」
草間が顔をしかめながら問い返す。自分で淹れたコーヒーは不味いものだ。
「やつらは誰を反魂しているのかと思ってな」
「なるほど、すでに反魂されていたら降ろせない道理だな」
「日本以外の国の英雄や勇者は降ろせるんだ。それはこれまでの戦いで証明されてる。けど」
「けど幕末期の英雄はノーガードだった。違うか?」
「よく判ったな」
軽い驚きが少年の顔に浮かぶ。
相変わらず草間の推理力は冴え渡っているようだ。
「消去法で潰していかなくても、第六天魔王どのとしては幕末期は避けたいところだろうさ。榎本武揚の例があるからな」
信長の陣営から榎本武揚は離反した。土方歳三をともなって。
幕末から明治にかけての勇者たちがすべて榎本武揚の味方をするというわけでは無いだろうが、わざわざ実験する気にはならないだろう。
失敗したら敵を増やすだけ。そんなことをしなくても戦国期の武将や英傑の中から信長の支配下に入りそうな者だけを反魂すれば、人材はいくらでも補充できる。
「なるほど、な」
不動が頷く。
「そしてもうひとつ。あいつらは無限に人を増やせる訳じゃない」
核心を突く言葉。
少年の目が見開かれる。
「どうして‥‥そう思う?」
「一斉投入をしていない。一人が倒されると、見計らったように新しい敵が現れる」
「単純に、全力を出していないだけかもしれないぞ」
「兵力を逐次投入は、名将のすることじゃないさ」
「たしかにそうだな‥‥」
北海道の戦いでも、サンシャイン六〇の戦いでも、もし大兵力が使用されていたら護り手たちは勝てなかった。
歴史にもしもはないが、そうしなかった信長軍団の思惑は怪奇探偵ならずとも熟考を要する。
「しなかったのか。できなかったのか」
腕を組む不動。
しなかったのであれば、それほど恐るべき敵ではない。
勝機をみすみす逃がす程度の相手だということだ。
問題は、
「まだ陣容が整っていなかったとしたら‥‥」
うめく。
真田昌幸が弄した策略の数々は時間稼ぎだったのだろうか。
だとしたら、勝機を逃がしたのは、護り手たちの方だったかもしれない。
「そう悲観することもないさ。陣容が整うまでの時間稼ぎだとしたら矛盾することが多すぎるからな」
「そういうものか‥‥」
「たぶん次は先手をとれるんじゃないかな」
笑った草間が、少年の肩に手を置いた。
根拠があって言っているのか、それとも安心させようとしているだけか、不動には判らなかった。
「だから、あんま無理すんじゃねぇぞ」
優しげな声。
降霊というのは精神力を著しく消耗する。
変異霊媒体質の不動の場合は、肉体へのダメージだって大きい。
実験のために幾度も降霊したのだということを、草間は気づいている。
「‥‥わかってる」
返答の前に沈黙が挿入された。
沈みゆく太陽が、赤く室内を照らす。
黄昏。
昼が終わり、夜が来る。
あるいこの国にも。
もちろん明けない夜はない。必ず黎明の時が訪れる。
だが、
「長さは、誰にも判らない‥‥」
胸中に呟いた言葉は音波にはならず、草間の耳に届くこともなかった。
おわり
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