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<東京怪談ノベル(シングル)>


『クレヨン画伯』


 チョコクリームのかかったホットケーキの一切れを口に入れると、じわっと甘さが広がる。スポンジのふわりとした感触も、優しくて。
「ほっぺたの裏側が、踊り出したいぐらい嬉しがってるなの!」
 藤井・蘭(ふじい・らん)は、ナイフとフォークをぎゅっと握り、銀の瞳を鏡のようにきらきらと輝かせる。ホットケーキの制作者、この部屋の主の女子大学院生は、「うまいか。そうか、よかった」と、珈琲をすすりながら、スリッパの足を組み換えた。
 日曜の、少し遅い朝だった。窓からは、暖かい日差しが注ぐ。
「でも、食べたら、満月が半分になっちゃったなの。・・・そうだ、うまく切って、三日月にするなの!」
 蘭は、皿をカタカタ鳴らしながら、器用にホットケーキをクレセントムーン型にカットした。外見年齢10歳くらいの蘭は、ナイフを扱う掌の大きさも腕力も備えていた。ただ、『人間になって』一年ほどなので、精神はまだだいぶ幼い。
 蘭は、オリヅルランの鉢植えである。部屋主の父親が、娘の一人暮らしを心配し、店で売る観葉植物を人間に変えて送り込んで来たのだ。
 テレビの情報番組では、デパートのアクセサリー売場に立つ女性レポーターが、『今年のホワイトデー、一番の人気商品』というのを紹介していた。背後には買物に来ているカップル達が映り、楽しげにガラスケースの中を指さしている。
「持ち主さん、“ほわいとでぃ”って何ですかなの?」
「うーん、どこから説明しよう」と、保護者は天井を仰ぐ。小さい子がわかるように物事を説明するというのは難しいことだ。保護者は蘭が来る迄は子供に慣れていなかったが、今ではすっかりいいおねえさんぶりを発揮している。
「まず、バレンタインデーってのは、今はただ、女性が世話になっている男性にチョコを送る日になっているが、もともとはその行為は告白・・・『好きだと告げる』意味だったんだ。で、男性側もOKなら、一カ月後の3月14日、“ホワイトデー”に、プレゼントを贈る。
 でもまあ、今は、単純にチョコのお返しってことになっているようだがな」
 子供と居ると、自分が子供だった頃の事を思い出すことが多い。中学生や小学校高学年の頃には、バレンタインやホワイトデーが近くなると、クラス中がソワソワしていた。純粋に『チョコでコクる』があった年頃だった。十年しかたっていないのに、なんだか懐かしい。
「ふうん。明日はチョコのお返しする日ですなの〜」
 蘭は壁のカレンダーを目で確認する。3月14日は明日だ。蘭は、バレンタインに持ち主さんからトリュフを貰った。チョコレートなのに、口に入れたらアイスクリームみたいにとろけたので、びっくりした。すごくおいしかった。明日には、持ち主さんに何かプレゼントをしなくては。

 朝食の片付けを手伝いながら、蘭が唐突に「お隣の部屋でお絵描きしていいなの?」と尋ねた。お絵描きをするのに、宣言して始めることはあっても、許可を求めて来た事は無い。保護者は『何かあるな』と心でにやりと笑う。
「いいぞ。テーブルに新聞を敷いて描くんだぞ。あ、新聞は昨日のを使うんだよ」
「はいなの〜」
 スケッチブックに、描きかけになっていた持ち主さんの似顔絵があった。あれを完成させて贈ろう。
 でも・・・明日まで、内緒にしたい。
「それでね、僕が『いいなの!』って言うまで、部屋に入らないで欲しいなの」
 何やら鶴の恩返しのようだが。保護者は吹き出しそうになるのをこらえた。
「だったら、俺は駅前まで買物にでも出ているよ。二、三時間で帰って来る」
 洗い物を終えた保護者は、上着を羽織って、鏡の前で素顔に口紅だけ引く。リップスティックが唇にオレンジベージュの色をのせた。
「いってらっしゃいなの〜」
 持ち主さんに知られずに描くという最初の難関はクリアしたので、蘭はニコニコと玄関まで見送った。

 リビングのテーブルに古新聞を敷きつめ、14色のクレヨンとスケッチブックを『お道具箱』から引っ張り出した。顔を肌色に塗り潰したまま止まっている一枚を、丁寧にリングから破り取る。一枚にしておいた方が描きやすいし、それに、完成後に切り取りに失敗したら泣くに泣けない。完成品が無残に破れるのも悲しいが、大好きな持ち主さんの顔に亀裂が入ったら嫌だ。蘭は、もう、だいぶ先のことまで考えて行動できるようになっていた。
 画用紙の顔は正面を向いている。持ち主さんのおすましのポーズを想定しながら、肌色のクレヨンを握り、顎の先の首を描きくわえた。持ち主さんは、肩に付くか付かないかくらいの髪なので、先に首や肩を描いた方がいい。何度も描いたから、持ち主さんの似顔絵に関しては蘭はベテランである。
 服は、丸首のカットソー。これが一番簡単で失敗無く描ける。色は緑色にした。持ち主さんの瞳の色。持ち主さんが一番似合う色。蘭は緑色が大好きだ。だから、自分の髪が緑なのも嬉しいし、本当の姿が緑色であることも嬉しい。
 今度は、持ち主さんのまっすぐで黒い髪を描いていく。蘭は、持ち主さんの髪も好きだ。さらさらと揺れて、枝垂れ柳が風に踊るように綺麗なのだ。
「まっすぐなの。まっすぐな髪なの・・・あっ!」
 力が入り過ぎて、黒のクレヨンがポキリと折れた。
「・・・。」
 まだ、髪は半分しか描けていないのに・・・。大好きな髪なのに・・・。クレヨンが折れてしまったなんて・・・。
「ダイジョウブ・・・ダイジョウブなの・・・」
 男の子だもの、こんなことぐらいで泣かない。蘭は自分に言い聞かせる。巻かれた紙をむしりとり、半分になった黒を直に握り、続きを描き始めた。短くて握りにくいが、描けないことはない。
 目は緑色だ。猫のように、大きくて、少し目尻がつっている。でも、全然意地悪そうになんて見えないんだ。だって、持ち主さんは優しいから。
 服を丸首にしたのには、もう一つ理由があった。14色クレヨンには、金と銀が入っている。蘭は、さっきのテレビのアクセサリーを思い出しながら、まだ一度も使われていない銀のクレヨンを握る。
「“ぺんだんと”なの〜」
 首のまわりに一本銀色の半円を描いた。そして再び緑に持ち替え、小さな葉っぱを4枚、花のように繋げる。四葉のクローバーのペンダント・トップのつもりだった。四葉のクローバーは、幸せを呼ぶと聞いたことがあったので。
「できたなの!」
 持ち主さん本体の絵は完成し、それから背景にはハートをたくさん描いた。テレビでは、『大好き!』って時には、ハートがたくさん出てくる。だから、ピンクや青や黄色で、描けるだけのハートを描いた。数えたら、17個もあった。
「持ち主さん、喜んでくれるかな、なの〜」
 椅子から立ち上がり、完成品を少し離れて眺める。我ながら上手に描けた。
 でも・・・・。
 さっき、出かける時の持ち主さんの姿を思い浮かべる。蘭はもう一度椅子に座り直し、オレンジ色を握って、唇に色をくわえた。
「今度こそ、かんぺきなの!」

「ただいま〜」
 昼を少しまわった頃に帰宅した保護者は、『おかえりなの』の声が無いので、そっとリビングを開けてみた。窓からの日差しが心地よかったのか、蘭がテーブルに突っ伏して眠りこんでいた。手元には保護者の似顔絵。クレヨンもまだ散らばったままだ。絵に入魂して、疲れ果ててしまったのかもしれない。半分口を開きかけた、子供らしい寝顔。長い睫毛が陽を溜めて暖かそうに瞼を縁取る。広げた小さな掌には緑やピンクの汚れが残り、こちらも芸術作品のように色とりどりだ。
 絵を見ると、唇にオレンジの口紅が塗られていた。自分でも忘れていたが、そういえば出かけに引いて行った。些細な仕種をよく見て覚えているものだと感心した。
 新聞紙の上の、オレンジのクレヨンを手に取ってみる。自分は、少女の頃、化粧にあこがれただろうか。そう何年も前のことでも無いのに、その感覚は失われている。子供用のお化粧セット。お化粧をできるお人形。ぬりえのアニメキャラクターの瞼を青いクレヨンで塗ったこと。
 小さな蘭と一緒にいると、つい自分の子供時代を反芻する。もう一度人生を生き直しているような、なんだかトクな気分だ。
「この絵は、見なかったことにしておこう」
 保護者は一度リビングを出て、昼食の用意を済ますと改めて扉をドンドンと叩いた。
「蘭?・・・俺だ。帰った。開けていいか?」
「持ち主さん?!」
 中から、起き抜けのくぐもった声と、慌てて椅子を引きずる音や新聞紙をガサゴソ丸める音が聞こえた。
「待つなの!ちょっと待ってなの!・・・あっ!ああっ!」
 悲鳴に似た蘭の叫びがして、つい扉を開けて手伝ってやりたくなるが。
 明日、『じゃ〜〜ん!なの』と、蘭が誇らしげに絵を差し出すイベントの為に、我慢をすることにしよう。
 キッチンにも昼下りの眩しい陽が差し込んで、床に白く四角く窓の形を型取った。まるで蘭との暮らしを映し出すキャンバスのように。
 今日も光合成日和だ。

< END >