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朔失月の夜
なけなしの財産を有りっ丈つぎ込んで入ったネットカフェ。
学校で、密やかに囁かれていた噂を確認した。
午後十時を回った夜の街並み。制服姿で階段に座り込んだ。
目撃情報が一番多かった自殺の名所の陸橋で。
待ち続ける。
月明かりのない街並み。
何時の頃からか習慣のように、彼女は深夜の街を散策する。目的も目指すべきものも持たず、ただ、ふらふらと。けれど、夢遊病者とは少し違う。彼女の瞳は、いつでも知識欲に煌めいていた。
軽薄に色を変える、パチンコ店の電工看板の光を小麦色の横顔に受けながら、彼女は一つ嘆息した。人とはまるで違う足を止める。地面を疾駆する事を目的に作られた、強靭なライオンの四肢である。その背には高原の空が似合う鷲の翼を生やしているが、胸元から頭にかけては、豊満な人間の女性の形をしている。
春風に遊ばれる艶やかな赤紫の髪は、背の辺りで優雅に揺れた。凛と前を見据える鮮やかな緑の瞳は、今は遠き故郷の河の色。優美と呼ぶに相応しい姿であった。
図書館の知識を守る番人、アンドロスフィンクス、というのが彼女の最も簡単な肩書きである。
最近、彼女は大きな声では言えない趣味があった。
自殺志望者を拾って帰っては、実験台にして成否に関係なく図書館に送りつける、という、人間社会から見れば物騒この上ない趣味である。趣味とは専門としてではなく、楽しみにすること、余技、と言った所だから、物騒であろうが無道であろうが、趣味といえる。
成功と失敗を繰り返しながら、ラクスはとうとうその原因に思い至った。否、初めから考慮に入れていたのだが、確信に変わった、といったところだ。
成否を分けるのは、ある種の『生きる力』。それを持っていると成功しやすい事が判明した。
そんな者達は皆、強い瞳をしている。絶望のその先を知り、悲しみを悲しむ術を忘れ、そして、自らを不要と感じ、やがて自殺に至る。その経緯は様々ながら、誰もが他人を傷つけての解決方法を持っているにも関わらず、自らを消す方法へ至るのだ。
「不思議です……」
深夜の濁った空に呟きを落とす。
そして、足を止めたまま視線を巡らした。
せかせかと歩く人の群れ。コンビニの前に座り込む若者たち。光の消えないオフィスビル。絶えない車の列。泥酔して倒れこむ中年男性。
どれもこれもが、違和感なく街に馴染んで。ラクスにはその事が違和感に感じられる。社会から切り離された深夜の首都。ここが、この国の社会の真ん中だと言うのに。
何時までも止まっている気にもならず、彼女はまた歩き出した。
今までラクスが実験台にしてきた自称、自殺願望者達は、この社会に生きる事を望まなかった。望むには、あまりにも絶望が深かった。
ある者は疲れきり。ある者は裏切られ。ある者は逃げ出して。ある者は裏切って。
誰も彼もが、社会から拒絶されてそれでも稀に、まだ『生きる力』を持っている者もいた。そう言う実験台は成功を勝ち取り、新たな世界に旅立ってゆく。ラクスの知る限り、図書館から役に立たないから返品してくれ、と言われた事はない。彼らには『生』を望む心があったにもかかわらず、社会のほうから拒絶され、生きる術を失った。
『社会』とは、『人間』が生きる為に構成されたシステムだったはずだ。単体では生きていけない、牙も爪の捨てた『人間』の生きる術であったはずだ。『社会』とは、『人間』による『人間』の為のシステムであったはずなのに。
何時しか優先順位が摩り替わる。『社会』の為の『人間』が大量生産、大量消費された時代。六十年ほど昔になる、第二次世界大戦と呼ばれる戦争からこちら、この国の『社会』と『人間』の優先順位が摩り替わったように、ラクスには感じられる。
『人間』たちは『社会』が不可欠であるように思い、そして、それの維持の為に『人間』を消費してきた。いかに『社会』に役に立つ『人間』を育てるかが教育として理解された。
規格化された『人間』はまた、『社会』の為に規格化された『人間』を育てる。けれど、その中に規格外として烙印を押される『人間』も存在した。彼らは『社会』に拒絶された。それゆえ、生きる価値を失ったのだ。少なくとも『社会』からは、そう見えた。彼らが『生きる力』を持っているにもかかわらず。
『社会』は『人間』で構成されながら、『人間』を拒否する。『人間』を生かすためのシステムではなくなっていく。特定の個人が利益を得るためだけに、現状で力を持つものだけのための、ごく限られたものになってゆく。
これは間違っている、とラクスは思う。過去、この国にはもっと健全で慎ましやかながら平和な社会があったはずだ、と。それはどこへ行ってしまったのか。やがて、世界中がこうなってしまうのか。
そうなれば、『人間』という研究対象は、どこへ行ってしまうのだろうか。
埒もなく思いながら足を進めていると、見覚えのある歩道橋が見えてきた。ここで拾った自殺希望者が一番多い。今夜は誰かいるだろうか、と。
「あなた?」
不意に、か細い声がラクスの思考を止めた。見ているようで何も見ていなかった緑の瞳を巡らして、真正面のやや下にいる少女を発見する。
骨と皮だけの、やせ細った体。彼女を見る目は、落ち窪んで隈ばかりが目立つ。近隣の中学校の制服か、プリーツスカートから見える足は、あちこち傷と痣で元の色も解らない。袖口から僅かに覗いた指も、明らかにおかしな方向へ曲がっているものがあった。
何もいえないラクスに、少女はもう一度問いかける。
「あなたが新たな世界を示してくれる悪魔か?」
今度は、はい? とラクスは別の意味で絶句した。こちらに向けられた片目が、白く濁っていて何も見えていない事は間違いない。けれど、残りの隻眼は真っ直ぐにラクスに向けられていた。
人違いだと言う事はなさそうだ。
「あの、話が見えません」
そう言いながら、ラクスは少女に歩み寄る。恐れた風もない少女は、ラクスだけを見ていた。そこに一体どんな想いがあるというのか。翼を広げて、少女を包み込む。悪魔と言われたのは心外極まりないが、悪意で言ったものとは思えなかった。
春は近いが、まだ深夜は冷える。白い息を吐いている少女は、ラクスが思ったよりも冷え切った体をしていた。
「あなたを、待っていた」
端的に、少女は言った。ラクスはまるで話が見えないまま、少女に場所を変える提案をする。
頷いた少女を見ながら、また、実験台が出来そうだと小さく笑った。
深夜の公園で、ラクスは少女を椅子に座らせ、その真正面に伏せた。風から少女の細身を守るように翼を広げながら、いつものように因果律を探る、とあまりにも膨大なその量に、ラクスはすぐさま検索を止めた。
今までの実験台たちとは違い、完全な孤立とは違うようだ。今度は少し覚悟をしつつも、もう一度探ってみた。そして、眉を顰める。
少女を探す声は、どれもこれも好意的とは言いがたく、逃れようとする少女にマリオネットの糸のように絡みつき、柵を作り、縛り付ける。そういったものがあるのはよくある話だが、これほどまでに多くなると、異常だった。
顔をしかめたまま好意的な声を探したが、一向に見つからない。そんなラクスを不思議そうに見ながら、少女は自分があの歩道橋でラクスを待っていたと言う詳細を話した。
話が進むに連れて、ラクスは少女の因果律よりも、寧ろその話の方が深刻だとまた眉をしかめる。
「つまり、魂と引き換えに新たな世界に導く悪魔がいる、というのが『ネット』での噂の全貌ですか?」
少女は一つ頷く。
「それは、何と言いますか……」
そのネットでの噂を聞きつけ、この少女は目撃情報が一番多かったあの歩道橋へ来たらしい。あながち間違ってもいないので、ラクスはいうべき言葉を失う。
否定したいが、否定も仕切れない。
しかし、これは公に否定しておかねば、噂を聞きつけた『自称・正義の味方』の男性に殺されかねない。冗談みたいな話だが、背筋が凍るほど本気の話である。その恐怖に少し涙が滲んだが、慌てて振り払った。
更に心外極まりない言い様だが、寧ろ善意的な解釈と言える。ただ単に自らの知識欲を満たす為に足の付かない相手を利用していた、というよりは、よほど。
それを認めて、ラクスは一つだけ否定しておこうと思った。
「あの、ラクスは悪魔ではありません」
「違う?」
少女は首を傾げた。随分ざんばらな黒髪が、肩より上で揺れている。
「悪かった……」
驚いた瞳をしてから、少女はふらりと立ち上がった。
「どちらへ?」
「私は悪魔を待ちに行く」
否定の仕方が不味かった、とラクスは慌てて少女を引き止める。翼で進路を塞いで、少女を覗き込む。
「いえ、その、えぇっと……」
何と言おうか、と口ごもる。少女は隻眼で真っ直ぐラクスを見ていた。はっとするほど、真摯な瞳。
見つけた。
自然と浮かんだ笑み。その瞳に浮かぶ光は、絶望の中にあっても生きて生きたいと望む力。
「ラクス・コスミオン。それが、あなたを新たな世界に導くものの名前です」
少女のささくれた唇が、彼女の名を綴った。
「死より惨い痛みを与えられてもよろしいと仰るなら」
月の光のない夜。星すら見えない、闇の中。
これが最後、とラクスは決めた。これ以上悪評が轟けば楽しくない事体になる。大家さんにも迷惑をかけてしまうかもしれない。
残念です、と嘆息を漏らしつつも。
「あなたに新しい体を差し上げます」
ラクスは嫣然と微笑んだ。少女は、真っ直ぐにラクスを見たままはっきりと頷いた。
時間は深夜。日付けが変わったばかりの時間帯。こんな時間に少女を連れ込む所を見られてはまずい為、ラクスは少女に口止めをして、部屋まで案内した。
実験の用意は整っている。最近はこんなことばかりしているからだ。しかし、それも最後。落胆は甚だしく、残念極まりない。これほど修行になる実験もないだろう。
が、自分の命がかかればやはり、やめておいた方が無難であった。ラクスは部屋に招き入れられ、物珍しそうに水槽を眺めている少女に服を脱ぐよう促した。
物言わず頷いた少女。直ぐに、傷だらけの全身が露になった。背中には酷い裂傷があり、腹部には青痣だらけ。まだ未熟な胸に十字の傷。
「痛みますか?」
思わず聞いていた。少女は一瞬考えてから首を横に振る。
「もう、慣れた」
ぽつりと落とされた呟きは、あまりに悲しいもの。この少女は、生きていて良かったと思った事があるのだろうか。ラクスには想像もつかなかった。
実験は失敗するかもしれない。しかし、一生に一度くらい少女の願いが叶ったとしても罪にはならないはずだ。そう、思って。
ラクスは尋ねる事にした。
「何か、なりたい体はありますか?」
スフィンクス。ゴーレム。ケンタウルス。マーメイド。ケルベロス。色々と思い浮かべながらの質問だったが、少女には良く理解できなかったらしい。当たり前か、と思い至る。
「では、何かしたい事はありますか?」
「したい、事?」
はい、と頷く。ひとつくらい、望みを叶えてあげたい。少し考えてから少女は口を開いた。だが、直ぐには声にならない。首を横に振った。
「なんでも、いい。ここ以外なら」
そして、真っ直ぐにラクスを見る。悲しい瞳。絶望のその先を見据えて、悲しみの意味すら解らなくなってしまった瞳。抱き寄せるように、翼で包み込んだ。
「言ってみてください。叶えて上げられるかもしれません」
身じろぎした少女に「魂はいただきますけど」と少しだけ茶化して言ってみて。小さく。本当に小さな声で、少女は言った。
「歌が、好き」
望みを口にする事に慣れていない生き方。何がしたいかを言う事すら、難しくなってしまっている。
「はい。解りました」
ラクスはそうして、少女の練成を定めた。
『図書館』とは人々が本を読み知識を吸収する場である。その空間は静寂が好ましいが、集中力を高める為に、あまり耳につかない曲を流していることもあった。最近ではその職業に尽くものがいないため、流されることはなくなったが。
海を行く船乗りたちに最も恐れられたと言う半身半鳥の楽師。三体で行動し、聞きほれずにはいられない歌を紡ぐセイレーン。彼女たちの歌声は、人々の心を惑わし、船乗りたちの方向感覚を狂わせる。しかし、魔術で少し方向性を変えてやれば、人々の潜在意識を引き出し、集中力を高めることなど造作もない。『図書館』にはそれ専用の装置もあるはずである。
近年はセイレーンの個体数も減り、『図書館』に求職に来るものもいなくなっていたが、ノウハウを覚えている古株もいることだろう。
この悲しみの意味すら解らない隻眼の少女を、飛び切り美しいセイレーンにしてみよう。ラクスはそう奮い立った。誰もが見ほれ、そしてその声に聞き惚れる。悪意を抱く事すら、出来ないほどに。
そう、奮い立った。
「では、水槽の中へ」
促すと少女は梯子から水槽へと。息を止めて入ったようだが、直ぐに息が出来る事に気がついたようだった。不思議そうにこちらを見てくる隻眼。
黒い瞳。
そこに宿った強い思い。魂を捧げてまで、別の世界を望むその想いに、応える為に。
ラクスは水槽に前足を当て、そっと瞳を閉じた。
セイレーンの練成は経験がなかったため、じっくりとイメージを練り上げる。詳細まで思い描く。
黒く深い海。手が届きそうな白い雲。ただ青いだけの空。照りつける太陽。
それらの真ん中の、海の中から少しだけ頭を出した岩に器用に留まっているものがいる。太く力強い足は、グリフォンの前足にも劣らない。しかし、そこから上はあくまで優美に。
羽の色は白がいい。海の泡のように汚れない白。バランスを取る為に大きく逸らされた人の上半身。少女の体にあった傷を、一つずつ消して。羽をどうしても不恰好になるため、ラクスは思い切って背中につける事にした。
目を開いて、水槽を見る。少女はやはり不思議そうに、変わってゆく自分を見ていた。
腰の辺りから、体毛を一本ずつ羽に変えてゆく。密度が足りないので新たな細胞の増殖にも少しだけ魔力を足した。足の生え方が違う為、イメージを明確に反映すれば筋肉の構造も変わってくる。今回は内蔵をいじる必要もなかったが、逆に傷つけないように、と細心の注意を払う必要があった。少し考えてから、卵巣に卵の殻を作る機能を加える。
背中の肩甲骨を増殖したりして付け加え、羽をつける土台を作る。その骨を増殖している間に、少女の傷を治してしまう事にした。
今までは全ての体を作り変えてきたが、今回は半身半鳥。半端に生きている人間を使う為に、逆にやりにくい事もある。骨の仕組みを作り変えながら、脊髄から脳にかけて、羽を動かす神経を組み込んでゆかねばならない。その際、別の神経を触ってしまわないよう、息を呑むような作業であった。
少女を見る。今のところ、拒否反応は出ていない。特に痛みもないようだ。驚くほどの順応性の良さである。隻眼と、目が合った。
白く濁った片目に意識を集中し、壊された細胞を再生する。これはそれほど難しいことでもなかった。睫の一本一本まで手に取るように解る。何がどうなっているのか。どうすれば望みどおりの姿を作れるのか。集中力が、怖いまでに高まっている。
再生した片目が少しだけ色合いが変わってしまったが、あまり違和感はない。もしかすると、元からこういった色合いだったのかもしれない。
少女が驚いたように目元に手をやった。何度もラクスと手を見比べている。それに小さく笑って。
指先、爪の形、腕の傷跡。背中の裂傷。腹部の青痣と、痛めつけられた内蔵を修復。肋骨も意識すればいくつかヒビがあったため補強しておいた。
胸元の十字の傷は大分古いものらしい。ゆっくりと時間をかけて再生してゆく。と。
―――イヤっ!
少女の悲鳴が、聞こえた。慌てて少女を見上げると、今まで一貫して無表情だったにもかかわらず、くしゃ、と童女のように表情を崩していた。胸元の傷をさすって、まるで消える事を惜しむようだ。再生を止めるとほっとしたように少女が表情を戻す。
何か大切な傷なのかもしれない。痣だけになってしまったそれには構わない事にして、細々とした傷を治してゆく。顔も腕も、生まれたときと同じように無傷になった。
ようやく羽をつけるための準備が整い、そちらへ全ての意識をまわす。じりじりと、骨を形作ってゆく。間接や細かい形は、自分のものと相違ないはずで。筋肉を纏わせ皮膚で被せる。あとは、髪の毛の細胞を増殖して作った毛根を、更に羽に作り変えてゆく。
羽を白にするためには全ての毛の細胞を白にしていかなくてはならない。その作業の間に髪や眉毛まで白になってしまったが、仕方がなかった。
集中した意識の隙間から、少女を見やる。目を閉じて、全てをゆだねるように全身の力を抜いている。今までで、一番練成のしやすい少女だった。
全体の形が整い、最後の難関に取り掛かる。
浅くなっていた息を、意識的に深くした。ゴーレムのように意識を摩り替える必要はなく、この姿を何もせずとも受け入れられるなら、特に精神干渉の必要はなかった。ただ、人ではなくなった機能をスムーズに動かせるように上書きはしたけれど。
それも特に、問題なかった。
最後の難関。それは、セイレーンが所有する『歌声』。船乗りたちを魅了して止まなかったその声は、特殊な超音波が含まれる事が解っている。それを発生させる喉の構造は、一度書物で読んだ事があるが、眩暈がしそうなほど複雑だった。
けれど、複雑だったからこそ、覚えているもので。
「頑張ってください」
少女にそっと、声援を送った。
この『声』を少女が受け入れられるかどうか。
少女の魂が耐えられるかどうか。
全てはそれにかかっている。
全てが生まれ変わっていく。
幾度も塗り重ねられてきた傷が、消えてゆく。
全てが生まれ変わっていく。
失われた視力が戻ったとき、少女は奇跡を知った。それは、遠いものであったはずなのに、とても温かかった。
両の目ではっきりと捉えた相手は、ラクス、と名乗った相手は。酷く真摯な瞳で。けれど、どこか興味深そうにこちらを見ていた。それはただの物を見る瞳。その緑色の瞳は少女の存在などどうでもいいような雰囲気さえある。
小さく、笑みが浮かんだ。もう、ずっと忘れていた感触。どうしようもなく無関心なその瞳が、心地よくもある。
傷を消されたくないと音のない声を上げれば、彼女は直ぐにその意図を察してくれた。
確かに、悪魔と呼ばれる存在であるはずはない。優しく、温かい。
何がしたいかと聞いてくれたときの、あの温かさ。忘れない、と、少女は胸に刻んだ。いつか、その心臓をくれた少女と同じように。
両親の話では、生まれたときから心臓が弱かったそうだ。その手術を受ける為に渡米し、五年間待ってようやく手術を受けられた。ドナーは、隣のベッドに寝ていた、両親から虐待を受けて入院していた少女。言葉が通じないながら、片言で友達になった。最後に少女は心臓は傷ついていないはずだから使ってくれと、そういい残して亡くなった。同じ年、同じ血液型だった。
やがて完治して日本に帰って、そこからが、終わりのない悪夢。
少女は眼を閉ざして全身をゆだねた。そうすれば、肩に感じている鈍い痛みも、脳が疼くような違和感も大した事ではないように思える。
―――弟が生まれるのよ。
その一言で、少女の全ては変わっていった。まるきり勉強が遅れていた中学校では、何故だか嫌がらせを受けるようになった。家に帰れば両親は健康な弟にかかりきり。怪我をして帰っても、取り合ってもらえなくなってゆく。
事故だったのか、故意だったのか、視力を失った片目。そちらの目だけ不思議と薄い色をしていたのが同級生たちからすれば不気味だったのかも知れない。
それ以来、両親は少女を見放した。
―――借金をしてまで直してあげた体を、どうして大切にしてくれないの
解らなくなった。生きている意味が。
体が変わってゆくのが、心地よい。自分がいなくなる。あの人たちが直した人形はいなくなる。同級生たちが暇に任せて切り刻んだ実験体がいなくなる。
全身が焼けるような違和感。それらは、弛緩した体を通り過ぎていく。
死を選ぶことだけは出来なかった。
隣のベッドで眠っていた、名前も知らない少女の心臓。それだけは、生きている必要があるはずだから。
この噂を聞いたとき、これしかないと思った。
必要のない自分が、消えてしまうにはこれしかないと。
やがて現れた待ち人は、煌めく緑の瞳にむき出しの知識欲を灯して。優美な姿は魅入るに十分だった。羨ましいと、思った。自分がこれほどに美しい姿をしていたら、こんな事にはならなかったのだろうかと。
苦笑が、頬に浮かんだ瞬間。
「―――っ!!!」
喉から迸った音。声ですらない、音波。それが、周りを揺らした。本当に揺れたのか、自分の視界が揺れたのか、定かではないまま。
消されてゆく。全てが。
少女が残した、想いが。
それだけは耐えられない。誰にも必要とされずに死んでいった少女。彼女の死因は自殺だったと後から聞いた。医者は首を捻ったが自分にだけは解るのだ。
代わりに生きてくれと、そう言う意味だったと言う事が。
消されてゆく。白く塗りつぶされてゆく。
止めて―――――……っ!
「……暴走、ですか」
ポツリと呟いて、ラクスは水槽を睨みつけた。何とか書物で読んだとおりに構造を練成し終わった途端、音波を発散しだしたのだ。
意識の集中が途切れてくる事に気がつき、咄嗟に魔術で結界を巡らす。精神干渉の発生源は、明らかに少女の口から迸る音のない音波。
水槽越しで、しかも優れた術者であるラクスだからこそ、集中を乱されるくらいですんだのだ。完全に全てを委ね切った、しかも中心にいる少女はどれほどの精神干渉を受けているかは解らない。それが、どういった結果を生み出すか想像もできない。
乾いた唇を舐めて、ラクスは集中を高めていく。焦っていても仕方ない。そっと少女を見やった。黒と淡い灰色の瞳は、真っ直ぐうえを見たまま。口からは音波を発生させたまま。その強い光。
生きる意志。それがまだ、ある。
「諦めません」
自分に言い聞かせて、ラクスは一から構造を確認していく。そして、慎重に原因を探っていく。焦る気持ちを無理矢理押し込めて、研究者の冷静さを引き出した。
細い糸のような推測を紡ぎ合わせて、原因と思われる脳の回路を変更する。
途端、少女が頭を抱えて丸くうずくまった。
「まだ」
呟く。
喉の音波を制御する為の神経回路が必要なのだ。そして、その音波に惑わされないように、脳にバリアー機能が必要らしい。本来のセイレーンたちは魔力を持っており、歌を歌うときは無意識にそのバリアーを発動できる。しかし、人間に出来る芸当ではない。
本能のレベルですべき事を、説明する方法もなかった。
体を丸くして、何かに耐えるように震える少女。ラクスは諦めません、ともう一度口の中だけで囁く。
音波の発生源とトレースし、その種類を分析して必要なバリアーを導き出す。とりあえず少女の魂を守るために、ラクスが一時的にだがバリアーを張ろうとした。
その時。
ふ、と少女が体の力を抜いた。
ラクスが目を見張る。音波が止んでいる。結界を解いても、もう大丈夫だった。
ゆっくりと体を伸ばして、胸に刻まれた十字の痣を、誇るように胸を張った少女。
笑みが、浮かんだ。儚げながら存在感のある笑顔。
不可能を可能にした少女は。やがて気を失った。
前足に水滴が落ちてきて、ラクスは涙を流していた事を知った。
安堵か、感謝か。良く解らないままそっと拭って。
「おめでとうございます」
心の底から賛辞を送った。少しだけ眺めていてから、ざんばらの白髪を少しだけ伸ばして長さをそろえる。
終った。
そう思うと、奇妙に淋しい。最後だと思って気合を入れて難しい練成を選んだが、成功してしまうと達成感と共に、微かな寂しさも感じる。
その場にへたり込んで、そっと空を見上げた。青白い光はなく、ぽつぽつと星が微かな光を投げかけている以外、暗闇が広がっている。
今日は新月だったと、ラクスは思い至った。
月のように生まれ変わりを成功させた少女を引き上げるべく、ラクスは少しふらつく足で立ち上がる。
器用に梯子をあがるその姿を、暗闇だけが知っていた。
セイレーンの引取りが可能かどうかを尋ねると『図書館』は、丁度いい、と浮かれた返事をよこしてきた。どうも、セイレーンが二体保護されたそうで、もう一体いれば古の言い伝えどおりのセイレーンの演奏が聞ける、ということらしい。
ラクスはほっとしてその旨を少女に伝えた。嬉しそうに頷いた少女は、引き取りに来るまでの時間、ラクスの部屋の中で体を動かす訓練をしていた。ラクスも、違和感がないかどうか、上手く行くかどうかをモニターしながら確認する。
「あの、心臓に手術跡があったので、薬などが不要なように傷跡を消して異物としての干渉がない様にしておきましたが、よろしかったですか?」
羽の部分に穴を開けたブラウスを着た少女は、そっと胸元を押さえてから微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔だけで、ラクスは今回の実験の全ての大変さを忘れるようだった。上手くいってよかった、とかみ締める。
「では、最後に、喉の調子と脳波を測定します。歌を、歌っていただけますか?」
微笑んで頷いた少女は、誰もを虜にする音楽を紡ぎだす。
音波だけを遮断する結界の中で、ラクスは歌に耳を傾けた。
一人の『人間』が消えたくらいでは変わり様のない『社会』。この少女の両親が捜索願でも出せば面倒だと思ったが、考え直した。
この『社会』になじめない『人間』がいること。それを、『社会』に声高に叫ぶ必要があるだろうから。
何時か、『人間』たちは『人間』を拒絶しない『社会』を作る事が出来るだろうか。それは解らないけれど。その、手助けにでもなれば良いと思って。
目を閉じて、旋律に耳を澄ませた。
END
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